双極子モーメントとは|結合モーメントの合成と対称性でゼロになる条件
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双極子モーメント μ は、「この分子は極性だ」と言うための記号ではありません。デバイという単位を持った、実験で測れる量です。
測れるということは、逆に使えるということです。実際、X線結晶構造解析が一般的になる前、化学者は μ の値から分子の形を決めていました。シスかトランスか、オルトかパラか、どの配座が多いのか——μ がその手がかりになりました。
この記事では、μ を「極性の有無を表すラベル」から構造決定の道具へ引き上げます。極性の向きを読む定性的な話そのものは電気陰性度と結合の極性で扱っているので、ここでは値を使うことに集中します。
双極子モーメントとは——電荷×距離
双極子モーメント(電気双極子モーメント)μ とは、分子全体の電荷の偏りが「どれだけ大きく、どちらを向いているか」を1つで表す、向きをもつ量(ベクトル)です。
結合ごとの δ+・δ− の付け方(どちら向きに偏るか)は電気陰性度と結合の極性で扱っています。この記事では、その偏りを数値として扱います。
単位はデバイ(D)——1 D の大きさ
双極子モーメントは「電荷 × 距離」です。定義がそうなっているので、値を見れば電荷の偏りの大きさが分かります。
つまり水の O−H 結合では、水素に電気素量の3分の1ほどの正電荷が偏っているという計算になります(孤立電子対の寄与を無視した見積もり)。δ− や δ+ という記号の「δ(部分的な)」は、この程度の数字を指しています。
結合モーメントを足す——予測の作り方
分子の μ は、各結合が持つ結合モーメントのベクトル和として近似できます。代表的な値を挙げます。
| 結合 | 結合モーメント(D) | メモ |
|---|---|---|
| C−H | 約 0.3 | ほぼ無視してよい |
| C−O | 約 0.7 | エーテル・アルコール |
| C−F | 約 1.4 | 結合が短いので Cl より小さくなりうる |
| C−Cl | 約 1.5 | ハロゲン化アルキルの主役 |
| C=O | 約 2.3 | カルボニルが強く分極する根拠 |
| C≡N | 約 3.5 | 有機分子で最大級 |
2本の同じ結合が角度 θ で開いている場合、合成ベクトルの大きさは次式で出ます。この1本の式が、以下すべての判定に効きます。
角度が分かれば μ が計算でき、μ を測れば角度が逆算できます。形と値が、この式で行き来できる——これが構造決定に使える理由です。分子の形そのものの決め方はVSEPRを参照してください。
双極子モーメントの求め方——例題2つ
双極子モーメントの計算問題は、ほぼ2つの型に分かれます。結合モーメントを角度で合成して分子の μ を出す型と、μ の実測値から部分電荷(イオン性)を逆算する型です。どちらも、ここまでに出た「1 Å で 4.8 D」と「2μ結合cos(θ/2)」の2つだけで解けます。
例題1:結合モーメントと結合角から μ を出す(水)
問:水の H–O–H 結合角を 104.5°、O–H の結合モーメントを 1.5 D として、水分子の双極子モーメントを求めよ。
μ = 2 × μ(O–H) × cos(θ/2) = 2 × 1.5 D × cos 52.25° = 3.0 D × 0.61 ≈ 1.8 D (実測は 1.85 D)
2本の O–H のモーメントは、結合角を二等分する方向の成分だけが足し合わさり、それに垂直な成分は互いに打ち消し合います。cos(θ/2) が出てくるのはこのためです。もし水が CO2 のような直線形(θ = 180°)なら cos 90° = 0 で μ = 0 になるはずなので、実際に 1.85 D あることが、水が折れ線形である証拠になります。なお、ここで使った O–H の 1.5 D は、冒頭の図のとおり水の実測値から割り戻した値なので、酸素の孤立電子対の寄与も含んだ「見かけの結合モーメント」です。
例題2:μ の実測値から部分電荷を見積もる(HCl)
問:HCl の双極子モーメントは約 1.1 D、結合長は約 1.27 Å である。H と Cl に電気素量 e がそのまま乗った完全なイオン(H+ と Cl−)だと仮定したときの μ と比べ、部分電荷の大きさを見積もれ。
完全なイオンなら : μ = 4.8 D × 1.27 ≈ 6.1 D (e が 1 Å 離れると 4.8 D) 実測との比 : 1.1 D ÷ 6.1 D ≈ 0.18
H には約 +0.18e、Cl には約 −0.18e が乗っている、つまり電荷の偏りは完全なイオンの2割弱という見積もりになります。この比を百分率にしたものを「イオン性の割合(イオン結合性)」と呼ぶことがあります。HCl は水に溶ければほぼ完全に電離する強酸ですが、気体の分子そのものは2割弱だけイオン的な極性共有結合だということが、μ の値から言えるわけです。
双極子モーメントが0の分子——対称性で言い切れる
計算するまでもなく μ = 0 と分かる場合があります。判定はきわめて単純です。
この「測定値がゼロでないなら対称心はない」という向きの推論こそが、構造決定の本体です。実験値ひとつで、候補構造を半分に切り落とせます。
実測値で構造を決める——3つの古典
① シスとトランスを見分ける
1,2-ジクロロエチレンには2つの幾何異性体があります。融点や沸点ではどちらがどちらか決めにくいのですが、μ なら一発です。
ゼロが測定されたほうがトランス。この判定は、二重結合だけでなく、環に置換基が2つ乗った場合(cis/trans-1,4-ジ置換シクロヘキサンなど)にも同じ論法で使えます。表記の規則そのものはE/Z表記とCIP順位則で扱っています。
② オルト・メタ・パラを見分ける
二置換ベンゼンは、置換基どうしの角度が 60°・120°・180° にきれいに固定されるので、先ほどの式がそのまま使えます。クロロベンゼン全体の μ(1.69 D)を C−Cl 1本ぶんとして使います。
| 異性体 | 置換基の角度 | 計算値 | 実測値 |
|---|---|---|---|
| o-ジクロロベンゼン | 60° | 2.93 D | 2.50 D |
| m-ジクロロベンゼン | 120° | 1.69 D | 1.72 D |
| p-ジクロロベンゼン | 180° | 0 | 0 |
メタ体とパラ体は計算値と実測値がほぼ一致します。オルト体だけが計算値より小さいのは、2つの塩素が隣り合って互いの電子分布をゆがめるためで、単純な足し算が成り立たなくなる典型例です。
③ 配座の混合比を求める
もっとも応用的な使い方です。1,2-ジクロロエタンは、C−C 結合のまわりの回転で2種類の配座をとります。
ここが面白いところです。分子は単一の形をとっているのではなく、複数の配座を行き来している——その平均像を μ が映し出します。温度を変えて μ を測り直せば、配座間のエネルギー差まで求まります。配座そのものは配座解析で扱っています。
予測が外れるとき——孤立電子対の寄与
結合モーメントだけを足していると、必ずどこかで壁にぶつかります。有名な例を挙げます。
| 分子 | μ(実測) | 予想との食い違い |
|---|---|---|
| NH3 | 1.47 D | — |
| NF3 | 0.24 D | N−F のほうが N−H より極性が大きいのに、μ は6分の1 |
| CO | 0.11 D | 異種原子なのに極小。しかも炭素側が δ− |
答えは孤立電子対です。孤立電子対は核から外へ張り出した電子の塊なので、それ自体が大きな双極子をつくります。結合モーメントの表には、この寄与が入っていません。
CO が特異なのも同じ事情です。酸素のほうが電気陰性度は大きいのに、炭素上の孤立電子対がつくる逆向きの寄与が勝ってしまい、正味では炭素側がわずかに負になります。CO が金属に炭素側で配位するという事実は、この 0.11 D と矛盾していません。
永久双極子モーメントとは——誘起双極子との違い
永久双極子モーメントとは、外から電場をかけなくても、分子が構造そのものとしてもっている双極子モーメントのことです。ふつう「分子の双極子モーメント」と言えばこれを指し、この記事で扱ってきた μ もすべて永久双極子モーメントです。これに対して誘起双極子モーメントは、近づいたイオンや極性分子の電場によって電子雲がゆがめられ、その間だけ生じる双極子で、大きさは電場の強さと分極率 α に比例します(μ誘起 = αE)。
最後に、混同されやすい区別を押さえます。
| 永久双極子(μ) | 誘起双極子 | |
|---|---|---|
| 原因 | 構造そのもの | 外から近づいた電場 |
| 決める量 | 電気陰性度と形 | 分極率(電子雲の柔らかさ) |
| 働く相手 | 極性分子どうし | 無極性分子にも働く(分散力) |
ヨウ素分子は μ = 0 ですが、電子雲が大きく柔らかいため分極率が高く、常温で固体です。μ がゼロであることと、分子間力が弱いことは、まったく別の話です。この続きは分子間力で扱っています。
なお溶媒の「極性」も μ だけでは決まりません。水素結合を出せるかどうかが、多くの反応では μ より効きます(→ プロトン性・非プロトン性溶媒)。
大学院入試での問われ方
「μ = 0 と測定された。cis と trans のどちらか」
→ trans。対称心を持つので必ずゼロになる
「o-・m-・p-ジクロロベンゼンを μ の大きい順に並べよ」
→ o > m > p(= 0)。角度 60° < 120° < 180° に対応
「NF3 の μ が NH3 より小さい理由を述べよ」
→ 結合モーメントの向きが孤立電子対のモーメントと逆で打ち消すため
「1,2-ジクロロエタンの気相 μ が 0 でない理由を述べよ」
→ アンチだけでなくゴーシュ配座も混在しているため
まとめ
よくある質問
1デバイは 3.336 × 10 の −30 乗 クーロンメートルです。感覚をつかむには、電子1個分の電荷が1オングストローム離れて存在する場合が約4.8デバイにあたる、と覚えると便利です。水の実測値1.85デバイを2本のO–H結合に分けると1本あたり約1.5デバイで、O–Hの結合長0.96オングストロームを使って割ると約0.3となり、電気素量の3分の1ほどの偏りと見積もれます。δという記号が表す「部分的な」電荷は、この程度の大きさを指しています。
トランス体は2つの置換基が正反対を向くため、結合モーメントが完全に打ち消し合って双極子モーメントがゼロになります。シス体では同じ側を向くので打ち消されず、値が残ります。1,2-ジクロロエチレンではシス体が1.90デバイ、トランス体がゼロです。したがって測定値がゼロであればトランス体だと判定できます。
ベンゼン環では置換基どうしの角度がオルトで60度、メタで120度、パラで180度に固定されるため、同じ結合モーメントが2本ある場合の公式が使えます。合成ベクトルの大きさは、結合モーメントの2倍に角度の半分の余弦を掛けた値になります。クロロベンゼンの1.69デバイを使うと、メタ体は1.69デバイ、パラ体はゼロと計算され、実測値とよく一致します。
窒素上の孤立電子対がつくる双極子との向きの関係が逆だからです。アンモニアでは窒素が負に帯電するため、結合の双極子は窒素側つまり孤立電子対と同じ向きを指し、両者が足し合わさって1.47デバイという大きな値になります。三フッ化窒素ではフッ素が負に帯電するので結合の双極子はフッ素側を向き、孤立電子対の双極子と逆向きになって打ち消し合い、0.24デバイまで小さくなります。
そうとは限りません。双極子モーメントがゼロでも、電子雲が大きく柔らかい分子は分極率が高く、瞬間的な偏りから生じる分散力が強く働きます。ヨウ素分子は双極子モーメントがゼロですが、分極率が高いため常温で固体です。永久双極子は構造で決まる量、分極率は電子雲の変形しやすさを表す別の量であり、混同しないことが大切です。
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