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この記事の答え
双極子モーメントとは、分子の中の正負の電荷の偏りを「電荷 × 距離」で表した向きをもつ量(ベクトル)です。記号は μ、単位はデバイ(D)で、1 D = 3.336 × 10−30 C·m です。

双極子モーメント μ は、「この分子は極性だ」と言うための記号ではありません。デバイという単位を持った、実験で測れる量です。

測れるということは、逆に使えるということです。実際、X線結晶構造解析が一般的になる前、化学者は μ の値から分子の形を決めていました。シスかトランスか、オルトかパラか、どの配座が多いのか——μ がその手がかりになりました。

この記事では、μ を「極性の有無を表すラベル」から構造決定の道具へ引き上げます。極性の向きを読む定性的な話そのものは電気陰性度と結合の極性で扱っているので、ここでは値を使うことに集中します。

この記事で学ぶこと
・デバイ(D)という単位の中身と、値の大きさの感覚
・結合モーメントを足して μ を予測する手順(角度から計算する)
・シス・トランス、オルト・メタ・パラを実測値で見分ける方法
・配座の混合比を μ から求めるという発想
・アンモニアと三フッ化窒素の逆転が示す、孤立電子対の寄与

双極子モーメントとは——電荷×距離

双極子モーメント(電気双極子モーメント)μ とは、分子全体の電荷の偏りが「どれだけ大きく、どちらを向いているか」を1つで表す、向きをもつ量(ベクトル)です。

矢印の向きは、化学と物理で逆
・化学の構造式では、δ+ 側から δ− 側へ向かう矢印(根元に+を付けた矢印)で描くのが慣習
・物理学や IUPAC の定義では、ベクトルは負電荷から正電荷へ向かう
・大きさは同じなので、答案ではどちらの流儀で描いたかが分かるようにする

結合ごとの δ+・δ− の付け方(どちら向きに偏るか)は電気陰性度と結合の極性で扱っています。この記事では、その偏りを数値として扱います。

単位はデバイ(D)——1 D の大きさ

双極子モーメントは「電荷 × 距離」です。定義がそうなっているので、値を見れば電荷の偏りの大きさが分かります。

デバイの換算と水の部分電荷の見積もり。1 Å で 4.8 D、O−H 0.96 Å で約4.6 D、水の実測1.85 D を2本のO−Hに分けると1本あたり約1.5 D、比は約0.3

つまり水の O−H 結合では、水素に電気素量の3分の1ほどの正電荷が偏っているという計算になります(孤立電子対の寄与を無視した見積もり)。δ− や δ+ という記号の「δ(部分的な)」は、この程度の数字を指しています。

この換算は答案で使える。「C=O の μ が 2.3 D であることから、部分電荷はおよそ何倍の電気素量か」といった設問は、結合長(C=O で約 1.22 Å)と 4.8 D の関係を使えばその場で出せます。

結合モーメントを足す——予測の作り方

分子の μ は、各結合が持つ結合モーメントのベクトル和として近似できます。代表的な値を挙げます。

結合 結合モーメント(D) メモ
C−H 約 0.3 ほぼ無視してよい
C−O 約 0.7 エーテル・アルコール
C−F 約 1.4 結合が短いので Cl より小さくなりうる
C−Cl 約 1.5 ハロゲン化アルキルの主役
C=O 約 2.3 カルボニルが強く分極する根拠
C≡N 約 3.5 有機分子で最大級

2本の同じ結合が角度 θ で開いている場合、合成ベクトルの大きさは次式で出ます。この1本の式が、以下すべての判定に効きます。

2本の同じ結合モーメントの合成。μ = 2μ結合cos(θ/2)で、θ=180°は0、120°はμ結合、60°は1.73μ結合になることをベクトルの合成で示す図

角度が分かれば μ が計算でき、μ を測れば角度が逆算できます。形と値が、この式で行き来できる——これが構造決定に使える理由です。分子の形そのものの決め方はVSEPRを参照してください。

双極子モーメントの求め方——例題2つ

双極子モーメントの計算問題は、ほぼ2つの型に分かれます。結合モーメントを角度で合成して分子の μ を出す型と、μ の実測値から部分電荷(イオン性)を逆算する型です。どちらも、ここまでに出た「1 Å で 4.8 D」と「2μ結合cos(θ/2)」の2つだけで解けます。

例題1:結合モーメントと結合角から μ を出す(水)

問:水の H–O–H 結合角を 104.5°、O–H の結合モーメントを 1.5 D として、水分子の双極子モーメントを求めよ。

μ = 2 × μ(O–H) × cos(θ/2)
  = 2 × 1.5 D × cos 52.25°
  = 3.0 D × 0.61
  ≈ 1.8 D      (実測は 1.85 D)

2本の O–H のモーメントは、結合角を二等分する方向の成分だけが足し合わさり、それに垂直な成分は互いに打ち消し合います。cos(θ/2) が出てくるのはこのためです。もし水が CO2 のような直線形(θ = 180°)なら cos 90° = 0 で μ = 0 になるはずなので、実際に 1.85 D あることが、水が折れ線形である証拠になります。なお、ここで使った O–H の 1.5 D は、冒頭の図のとおり水の実測値から割り戻した値なので、酸素の孤立電子対の寄与も含んだ「見かけの結合モーメント」です。

例題2:μ の実測値から部分電荷を見積もる(HCl)

問:HCl の双極子モーメントは約 1.1 D、結合長は約 1.27 Å である。H と Cl に電気素量 e がそのまま乗った完全なイオン(H+ と Cl−)だと仮定したときの μ と比べ、部分電荷の大きさを見積もれ。

完全なイオンなら : μ = 4.8 D × 1.27 ≈ 6.1 D   (e が 1 Å 離れると 4.8 D)
実測との比       : 1.1 D ÷ 6.1 D ≈ 0.18

H には約 +0.18e、Cl には約 −0.18e が乗っている、つまり電荷の偏りは完全なイオンの2割弱という見積もりになります。この比を百分率にしたものを「イオン性の割合(イオン結合性)」と呼ぶことがあります。HCl は水に溶ければほぼ完全に電離する強酸ですが、気体の分子そのものは2割弱だけイオン的な極性共有結合だということが、μ の値から言えるわけです。

計算問題のチェックポイント
・2本の同じ結合の合成は 2μ結合cos(θ/2)。θ は結合角そのもので、半分にしてから cos を取る
・部分電荷の見積もりは「実測 μ ÷(4.8 D × 結合長〔Å〕)」
・どちらも孤立電子対や隣の結合の影響を無視した近似なので、答えは有効数字2桁で十分

双極子モーメントが0の分子——対称性で言い切れる

計算するまでもなく μ = 0 と分かる場合があります。判定はきわめて単純です。

分子が対称心(反転中心)を持てば、μ は必ず 0。どの結合モーメントにも、正反対を向いた相手が必ず存在するからです。
・CO2・trans-1,2-ジクロロエチレン・p-ジクロロベンゼン・ベンゼン
・ただし逆は成り立たない。CCl4(正四面体)や BF3(平面三角形)は対称心を持たないが、同じ結合が高い対称性で並ぶので μ = 0 になる
・逆に言えば、μ ≠ 0 が測定されたら、その構造は対称心を持たない

この「測定値がゼロでないなら対称心はない」という向きの推論こそが、構造決定の本体です。実験値ひとつで、候補構造を半分に切り落とせます。

実測値で構造を決める——3つの古典

① シスとトランスを見分ける

1,2-ジクロロエチレンには2つの幾何異性体があります。融点や沸点ではどちらがどちらか決めにくいのですが、μ なら一発です。

cis-1,2-ジクロロエチレン(μ = 1.90 D、C−Cl が同じ側で足し合わさる)とtrans体(μ = 0、正反対で打ち消す)の結合モーメントの比較

ゼロが測定されたほうがトランス。この判定は、二重結合だけでなく、環に置換基が2つ乗った場合(cis/trans-1,4-ジ置換シクロヘキサンなど)にも同じ論法で使えます。表記の規則そのものはE/Z表記とCIP順位則で扱っています。

② オルト・メタ・パラを見分ける

二置換ベンゼンは、置換基どうしの角度が 60°・120°・180° にきれいに固定されるので、先ほどの式がそのまま使えます。クロロベンゼン全体の μ(1.69 D)を C−Cl 1本ぶんとして使います。

異性体 置換基の角度 計算値 実測値
o-ジクロロベンゼン 60° 2.93 D 2.50 D
m-ジクロロベンゼン 120° 1.69 D 1.72 D
p-ジクロロベンゼン 180° 0 0

メタ体とパラ体は計算値と実測値がほぼ一致します。オルト体だけが計算値より小さいのは、2つの塩素が隣り合って互いの電子分布をゆがめるためで、単純な足し算が成り立たなくなる典型例です。

オルト・メタ・パラの二置換ベンゼンについて、2本の炭素塩素結合モーメントのベクトルを角度60度・120度・180度で描き、それぞれの合成ベクトルと実測値(2.50D・1.72D・0)を並べて示す

③ 配座の混合比を求める

もっとも応用的な使い方です。1,2-ジクロロエタンは、C−C 結合のまわりの回転で2種類の配座をとります。

1,2-ジクロロエタンのアンチ配座(μ = 0)とゴーシュ配座(μ は大きい)のNewman投影と、観測されるμから配座の混合比を求める流れ

ここが面白いところです。分子は単一の形をとっているのではなく、複数の配座を行き来している——その平均像を μ が映し出します。温度を変えて μ を測り直せば、配座間のエネルギー差まで求まります。配座そのものは配座解析で扱っています。

予測が外れるとき——孤立電子対の寄与

結合モーメントだけを足していると、必ずどこかで壁にぶつかります。有名な例を挙げます。

分子 μ(実測) 予想との食い違い
NH3 1.47 D —
NF3 0.24 D N−F のほうが N−H より極性が大きいのに、μ は6分の1
CO 0.11 D 異種原子なのに極小。しかも炭素側が δ−

答えは孤立電子対です。孤立電子対は核から外へ張り出した電子の塊なので、それ自体が大きな双極子をつくります。結合モーメントの表には、この寄与が入っていません。

NH3 と NF3 で何が違うのか
・双極子の矢印は δ+ から δ− へ向かう(化学の慣習)
・NH3:N が δ− なので N−H の矢印は窒素側=孤立電子対と同じ向き → 足し合わさって大きくなる
・NF3:F が δ− なので N−F の矢印はフッ素側=孤立電子対と逆向き → 打ち消し合ってほぼゼロ
・つまり μ の大小は、結合の極性の強さだけでは決まらない

アンモニアと三フッ化窒素について、3本の結合モーメントの矢印と孤立電子対のモーメントの矢印を描き、アンモニアでは同じ向きで足し合わさり、三フッ化窒素では逆向きで打ち消し合うことを対比して示す

CO が特異なのも同じ事情です。酸素のほうが電気陰性度は大きいのに、炭素上の孤立電子対がつくる逆向きの寄与が勝ってしまい、正味では炭素側がわずかに負になります。CO が金属に炭素側で配位するという事実は、この 0.11 D と矛盾していません。

永久双極子モーメントとは——誘起双極子との違い

永久双極子モーメントとは、外から電場をかけなくても、分子が構造そのものとしてもっている双極子モーメントのことです。ふつう「分子の双極子モーメント」と言えばこれを指し、この記事で扱ってきた μ もすべて永久双極子モーメントです。これに対して誘起双極子モーメントは、近づいたイオンや極性分子の電場によって電子雲がゆがめられ、その間だけ生じる双極子で、大きさは電場の強さと分極率 α に比例します(μ誘起 = αE)。

最後に、混同されやすい区別を押さえます。

永久双極子(μ) 誘起双極子
原因 構造そのもの 外から近づいた電場
決める量 電気陰性度と形 分極率(電子雲の柔らかさ)
働く相手 極性分子どうし 無極性分子にも働く(分散力)

ヨウ素分子は μ = 0 ですが、電子雲が大きく柔らかいため分極率が高く、常温で固体です。μ がゼロであることと、分子間力が弱いことは、まったく別の話です。この続きは分子間力で扱っています。

なお溶媒の「極性」も μ だけでは決まりません。水素結合を出せるかどうかが、多くの反応では μ より効きます(→ プロトン性・非プロトン性溶媒)。

大学院入試での問われ方

「μ = 0 と測定された。cis と trans のどちらか」
      → trans。対称心を持つので必ずゼロになる

「o-・m-・p-ジクロロベンゼンを μ の大きい順に並べよ」
      → o > m > p(= 0)。角度 60° < 120° < 180° に対応

「NF3 の μ が NH3 より小さい理由を述べよ」
      → 結合モーメントの向きが孤立電子対のモーメントと逆で打ち消すため

「1,2-ジクロロエタンの気相 μ が 0 でない理由を述べよ」
      → アンチだけでなくゴーシュ配座も混在しているため

まとめ

この記事のまとめ
・μ は電荷 × 距離。電子1個が 1 Å 離れると 4.8 D なので、実測値から部分電荷が逆算できる
・2本の同じ結合なら μ = 2μ結合cos(θ/2)。角度と値が行き来できる
・対称心があれば μ = 0。ゼロでなければ対称心はない
・cis/trans、o/m/p、配座の混合比——すべて実測値から決まる
・孤立電子対の寄与を忘れると NH3 と NF3 の逆転が説明できない
・μ がゼロでも分子間力が弱いとは限らない(分極率は別の量)

よくある質問

双極子モーメントの単位デバイはどのくらいの大きさですか?

1デバイは 3.336 × 10 の −30 乗 クーロンメートルです。感覚をつかむには、電子1個分の電荷が1オングストローム離れて存在する場合が約4.8デバイにあたる、と覚えると便利です。水の実測値1.85デバイを2本のO–H結合に分けると1本あたり約1.5デバイで、O–Hの結合長0.96オングストロームを使って割ると約0.3となり、電気素量の3分の1ほどの偏りと見積もれます。δという記号が表す「部分的な」電荷は、この程度の大きさを指しています。

シス体とトランス体は双極子モーメントでどう見分けますか?

トランス体は2つの置換基が正反対を向くため、結合モーメントが完全に打ち消し合って双極子モーメントがゼロになります。シス体では同じ側を向くので打ち消されず、値が残ります。1,2-ジクロロエチレンではシス体が1.90デバイ、トランス体がゼロです。したがって測定値がゼロであればトランス体だと判定できます。

二置換ベンゼンの双極子モーメントはどう計算しますか?

ベンゼン環では置換基どうしの角度がオルトで60度、メタで120度、パラで180度に固定されるため、同じ結合モーメントが2本ある場合の公式が使えます。合成ベクトルの大きさは、結合モーメントの2倍に角度の半分の余弦を掛けた値になります。クロロベンゼンの1.69デバイを使うと、メタ体は1.69デバイ、パラ体はゼロと計算され、実測値とよく一致します。

三フッ化窒素の双極子モーメントがアンモニアより小さいのはなぜですか?

窒素上の孤立電子対がつくる双極子との向きの関係が逆だからです。アンモニアでは窒素が負に帯電するため、結合の双極子は窒素側つまり孤立電子対と同じ向きを指し、両者が足し合わさって1.47デバイという大きな値になります。三フッ化窒素ではフッ素が負に帯電するので結合の双極子はフッ素側を向き、孤立電子対の双極子と逆向きになって打ち消し合い、0.24デバイまで小さくなります。

双極子モーメントがゼロなら分子間力も弱いのですか?

そうとは限りません。双極子モーメントがゼロでも、電子雲が大きく柔らかい分子は分極率が高く、瞬間的な偏りから生じる分散力が強く働きます。ヨウ素分子は双極子モーメントがゼロですが、分極率が高いため常温で固体です。永久双極子は構造で決まる量、分極率は電子雲の変形しやすさを表す別の量であり、混同しないことが大切です。

カズ塾有機化学 第1巻「基礎編」第4章 分子の形と物性
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