【第11章】構造決定の基礎|MS・IR・NMRによる構造解析の手順と演習問題
構造決定の問題でスペクトルを3枚渡されると、一番情報が多そうな1H NMRから読み始めたくなります。そして、ピークの帰属に何十分も悩みます。
手が止まる原因の1つは、読む力ではなく読む順番です。MS・IR・NMRは、それぞれ答えている問いが違います。MSは「分子はいくつの原子でできているか」、IRは「どの官能基があるか」、NMRは「原子がどうつながっているか」に答えます。前の問いの答えが無いまま後ろの問いに取り組むと、候補が多すぎて絞れません。
この記事は、3つの手法を組み合わせる流れに絞ります。なぜその順番なのかを説明したうえで、分子式 C4H8O2 の未知液体(答えは酢酸エチル)を、元素分析・MS・IR・1H NMR・13C NMR の全データを使って最初から最後まで解きます。各手法の読み方そのものは、それぞれの詳しい記事にリンクで渡します。
構造同定とは——構造決定と化合物の同定の違い
構造決定(構造解析)・同定・帰属の3つは似た場面で使われますが、やっていることが違います。「構造同定」という言い方もよく見かけますが、構造決定と同定のどちらの意味でも使われる俗用なので、問題文では文脈からどちらかを読み取ります。この違いが分かると、問題文が何を求めているのかが読めます。
| 用語 | 何をするか | 決め手 |
|---|---|---|
| 構造決定(構造解析) | 構造の分からない化合物について、測定データから構造を組み立てる | 分子式・官能基・骨格(必要なら立体)が、すべてのデータと矛盾しないこと |
| 同定 | 得られた物質が、既に知られているどの化合物なのかを確かめる | 標品や文献のスペクトル・融点などと一致すること |
| 帰属 | 個々のピークが、分子のどの原子・どの結合に由来するかを対応づける | 化学シフト・吸収帯・フラグメントの表と、分裂の関係 |
構造決定は推論、同定は照合です。同定では答えの候補(既知化合物)が先にあるので、測ったデータが標品のデータと重なるかを比べれば済みます。IRの指紋領域(1500 cm−1 より下)は分子ごとに形が違うので、標品と全体が重なれば同一化合物だと言えます(ただし鏡像異性体どうしはIRスペクトルが同じなので、IRでは区別できません)。固体なら、古典的な方法として、融点が同じでも別の化合物かもしれないので、標品と混ぜて融点が下がらないこと(混融試験)を確かめます。
一方、構造決定では答えの候補が最初から与えられていません。データから候補を作り、データで候補を消していく必要があります。院試や定期試験で「構造を決定せよ」「構造を推定せよ」と出るのは、こちらです。帰属は、構造決定の途中でも同定のときでも使う作業で、「このピークはこの水素」と対応づけることを指します。
研究で新しい化合物を報告するときも同じ考え方をします。NMRで骨格を示し、高分解能MSか元素分析で分子式を裏付け、必要ならIRで官能基を示します。1つの手法では言い切れないことを、別の手法で補うのが基本です。
MS・IR・NMRは答える問いが違う
3つの手法を組み合わせる理由は、それぞれ別の物理量を測っていて、答えられる問いが違うからです。まず、その違いを表で押さえます。
| 手法 | 測っているもの | 答える問い | 苦手なこと |
|---|---|---|---|
| MS(質量分析) | イオンの質量(m/z) | 分子量は?分子式は?ハロゲン・窒素はあるか? | 分子イオンの質量だけでは、同じ分子式の異性体の区別や官能基の種類は分からない |
| IR(赤外分光) | 結合の振動数 | C=O・O–H・N–H・C≡N はあるか? | 官能基の個数、つながり方、炭素骨格 |
| NMR(1H・13C) | 核ごとの共鳴周波数と、核どうしの相互作用 | どんな環境の水素・炭素が何個あり、どれが隣り合うか? | 分子量そのもの。水素を持たないヘテロ原子(エーテルの O など)は直接見えない |
苦手な欄を見ると、組み合わせる必要がはっきりします。MSは分子式まで出せても、酢酸エチルとプロパン酸メチルのような同じ分子式の異性体は分子イオンの質量では区別できません。IRはエステルがあると言えても、そのエステルがどう組み上がっているかは言えません。骨格に迫れるのはNMRですが、分子式が無いと積分比を水素の個数に直せず、エステルの酸素のように水素を持たない原子は1Hでは直接見えません。
逆に言えば、ある手法の苦手は、別の手法の得意になっています。だから3つを組み合わせると、1つの構造に決まります。各手法の読み方の詳細は次の記事で扱っています。
- MSの原理・分子式の決め方・窒素則:質量分析・赤外分光法による構造決定
- MSのフラグメントの読み方:MSフラグメンテーションの読み方|α開裂とMcLafferty転位
- IRの吸収帯の読み方:IR吸収帯の読み方|C=Oを1715基準に動かす4要因
- NMRの化学シフト・n+1則・結合定数:NMR化学シフト一覧表【1H・13C】と読み方
- NMRで構造を決める7つの段階:NMR分光法による構造決定
組み合わせる順番——分子式・不飽和度・IR・NMR・検算
構造決定は、次の5つの手順で進めます。この順番には理由があります。前の手順ほど候補を大きく減らし、後ろの手順は前の手順の答えを前提にして読むからです。
手順1:MSで分子量を出し、分子式を決める
最初に分子式を決めます。分子式は、後のすべての手順で使う「原子の在庫表」だからです。不飽和度は分子式からしか計算できず、NMRの積分比は分子式の水素数に合わせて初めて個数になります。最後の検算も、組み立てた構造が分子式に戻るかで判定します。
MSから読む情報は4つあります。
| 見るもの | 分かること | なぜそう言えるか |
|---|---|---|
| 分子イオン M+ の m/z | 分子量(公称質量) | 電子を1個失っただけのイオンなので、質量は分子と同じ |
| M の奇数・偶数 | 窒素が奇数個か、偶数個(0を含む)か(窒素則) | 3価の窒素が1個入ると水素数の偶奇が反転し、分子量が奇数になる |
| M と M+2 の対 | Cl(約3:1)・Br(約1:1)の有無 | 質量が2違う同位体が、天然にその比で存在する |
| 精密質量(高分解能MS) | 分子式そのもの | 原子の質量は整数からわずかにずれ、そのずれ方が元素ごとに違う |
分子量だけでは分子式は1つに決まりません。たとえば公称質量88の分子式には、C4H8O2、C5H12O、C3H4O3、C4H12N2 などがあります。これを切り分けるのが精密質量です。1H は 1.00783、16O は 15.99491、14N は 14.00307 と、整数からのずれ方が元素ごとに違うので、小数点以下まで測れば分子式が決まります。
| 分子式(公称質量88) | 精密質量(計算値) |
|---|---|
| C3H4O3 | 88.0160 |
| C4H8O2 | 88.0524 |
| C3H8N2O | 88.0637 |
| C5H12O | 88.0888 |
| C4H12N2 | 88.1000 |
隣どうしの差は0.01以上あり、高分解能MSの精度(数 ppm、質量88なら0.001未満)で十分に切り分けられます。高分解能MSが無いときは、元素分析(C・H・N の質量%)から組成式を出し、MSの分子量で何倍かを決めます。試験では分子式が問題文で与えられることも多いので、その場合は手順1を飛ばして手順2から始めます。
手順2:不飽和度で環とπ結合の数を出す
分子式が決まったら、すぐに不飽和度(環の数+π結合の数)を計算します。
不飽和度 =(2C + 2 + N − H − X)÷ 2 C:炭素数 H:水素数 N:窒素数 X:ハロゲン数(酸素は数えない)
この式の中身は「飽和した鎖状化合物 CnH2n+2 に比べて、水素がいくつ足りないか」です。環を1つ作るかπ結合を1本作るたびに水素が2個減るので、足りない水素の数を2で割れば環とπ結合の合計になります。酸素は2価で、C–C の間に差し込んでも水素数を変えないので数えません。窒素は3価なので水素を1個余分に持てる分を足し、ハロゲンは水素の代わりに1価で付くので水素と同じに扱います。
不飽和度は、IRとNMRを読む前に探すものの見当をつけてくれます。不飽和度0なら C=O も C=C も環も無いので、IRの1700付近を探す必要がありません。不飽和度1ならC=O・C=C・環のどれか1つ、4以上ならベンゼン環(環1+π結合3=4)を疑います。計算式の導き方と練習は不飽和度(DBE)の求め方で扱っています。
手順3:IRで官能基の「ある・ない」を決める
IRは、スペクトル全体を帰属しようとせず、決まった3か所だけを見ます。
| 見る場所(cm−1) | あれば | 無ければ |
|---|---|---|
| 3000付近(2500–3650) | 幅広く強い吸収 → O–H(カルボン酸は2500–3100で極端に幅広い)、細い吸収 → N–H | アルコール・カルボン酸・第1級/第2級アミンを消せる |
| 2500–2000 | C≡N または C≡C | ふつうは空いている(対称な内部アルキンは見えないことに注意) |
| 1700付近(1650–1820) | C=O。位置で種類を絞る(飽和ケトン1715を基準に、エステル1735、共役で低波数、アミド1650–1690) | カルボニル化合物をまとめて消せる |
IRをNMRより先に読むのは、IRが「無い」を一瞬で言えるからです。3000付近に幅広い吸収が無ければ、アルコールとカルボン酸を候補から全部消せます。C=Oは強く出る(伸縮で双極子モーメントが大きく変化するので吸収が強い)ので、1700付近が空いていればカルボニル化合物も全部消せます。消せる候補を先に消しておけば、NMRで考える組み合わせが減ります。
一方で、IRには限界があります。C=Oが1個か2個かはピークの高さでは分からず、官能基が骨格のどこに付いているかも出ません。だからIRの役目は「部品の種類を決める」ところまでで、組み方はNMRに任せます。C=Oの位置を動かす4つの要因(環ひずみ・共役・電気陰性な原子・Nの供与)はIR吸収帯の読み方で詳しく扱っています。
手順4:NMRで断片を作り、つなぐ——NMRの読み取り方の要点
分子式・不飽和度・官能基が決まった状態で、1H NMRを読みます。読む順番は、シグナルの数 → 積分 → 化学シフト → 分裂です。
- シグナルの数:化学的に違う環境の水素が何種類あるか。分子式の水素数より少なければ、対称性で等価な水素がまとまっている
- 積分:比の合計を分子式の水素数に合わせて、個数に直す(ここで手順1の分子式を使う)
- 化学シフト:その水素が何の隣にあるか(O–CH は3.3–4.0、エステルの O–CH は3.6–4.3、C(=O)–CH は2.0–2.6、芳香族は6.5–8.5など)
- 分裂:隣の炭素の水素の数(n+1則)。同じ結合定数 J を持つシグナルどうしが隣り合う
この順番にも理由があります。シグナルの数と積分は分子の対称性と水素の内訳を教えてくれ、化学シフトの細かい値に頼らずに候補を減らせます。化学シフトは「何の隣か」を、分裂は「誰と隣り合うか」を教えるので、最後に断片どうしをつなぐ段階で効きます。13C NMRは炭素の種類の数と C=O 炭素の有無を、DEPTは CH3・CH2・CH・四級炭素の内訳を確かめるのに使います。
NMR単独の読み方は、NMR分光法による構造決定の「解き方:7つの段階で読む」と、NMR化学シフト一覧表【1H・13C】と読み方のチェックリストで詳しく扱っています。この記事では、NMRをMSとIRの結果とどう突き合わせるかに絞ります。
手順5:全データで検算する
構造を組み立てたら、その構造からスペクトルを予測し直して、観測データと突き合わせます。確認するのは次の4点です。
- 組み立てた構造の分子式が、手順1の分子式と一致するか
- 不飽和度の内訳(どれが環で、どれがπ結合か)が説明できるか
- IRで「ある」とした官能基が構造にあり、「無い」とした官能基が構造に無いか
- NMRのシグナルが1本残らず説明でき、MSの主なピーク(ベースピークと大きなフラグメント)が構造から出る断片で説明できるか
検算を飛ばすと、「もっともらしいが1本説明できない」構造を答えにしてしまいます。説明できないシグナルが1本でも残ったら、どこかの断片の解釈が誤っているので、手順4に戻ります。構造決定は推理というより帳尻合わせで、分子式という在庫表と、各スペクトルが示す部品の帳尻が合うまで候補を消していく作業です。
例題:C4H8O2の未知液体を3手法で決める
ここからは、1つの例題を5つの手順で最後まで解きます。データは実在の化合物(答えは酢酸エチル)のもので、MSとIRは NIST Chemistry WebBook に収録された実測スペクトルから主なピークを抜き出し、NMRは文献値(CDCl3 中)を使いました。元素分析は計算値です。
| 測定 | データ |
|---|---|
| 元素分析 | C 54.5%、H 9.2%(残りは O。N・ハロゲンは含まない) |
| MS(EI)m/z(相対強度) | 88(7)、73(5)、70(12)、61(15)、45(15)、43(100)、29(12) |
| IR(cm−1) | 3455(弱)、2980、1740付近(強)、1240付近(強)、1045(強) |
| 1H NMR(CDCl3) | δ 4.12(q, J = 7.1 Hz, 2H)、2.05(s, 3H)、1.26(t, J = 7.1 Hz, 3H) |
| 13C NMR(CDCl3) | δ 171.4、60.5、21.0、14.2 |
手順1:組成式と分子式を出す
元素分析の質量%を原子量で割り、原子数の比を出します。酸素は100%から C と H を引いた残り(36.3%)です。
C:54.5 ÷ 12.01 = 4.54 H: 9.2 ÷ 1.008 = 9.13 O:36.3 ÷ 16.00 = 2.27 いちばん小さい O で割る → C : H : O = 2.00 : 4.02 : 1.00 組成式 C2H4O(式量 44)
MSで一番右の主なピークは m/z 88 です。組成式の式量44のちょうど2倍なので、分子式は C4H8O2(分子量88)と決まります。88は偶数で、窒素則(窒素が0個または偶数個)と元素分析(Nを含まない)が矛盾しません。M+2 の位置(m/z 90)に目立つピークが無いので、Cl・Br も含みません。
ここで M+1 も見ておきます。m/z 89 の強度は m/z 88 の約8.6%(NIST の生データで 60 ÷ 701)です。13C の天然存在比1.1%から炭素数を見積もると約8個になり、分子式の4個と合いません。炭素4個なら計算上は4.4%に、水素と酸素の同位体を足しても5%弱にしかなりません。
食い違う理由は、分子イオンが弱い(ベースピークの7%)ことと、エステルやエーテルではイオン源の中でイオンが別の分子から水素を受け取る反応(イオン–分子反応)が起こり、[M+H]+ が m/z 89 に重なることがあるためです。分子イオンが弱いほど、イオン–分子反応で生じた [M+H]+ の寄与が相対的に大きくなり、M+1 は計算より強く見えます。M+1 から炭素数を数えるのは、分子イオンが十分強いときだけにします。手順1の分子式は、元素分析とMSの分子量の組み合わせで決めるのが確実です。
手順2:不飽和度を計算し、候補を書き出す
不飽和度 =(2 × 4 + 2 − 8)÷ 2 = 1
環かπ結合が1つだけです。ベンゼン環は無く、C=O・C=C・環のどれか1つを持ちます。酸素が2個あるので、候補は多くなります。代表的なものを書き出します(C4H8O2 の異性体はこれ以外にもありますが、考え方は同じです)。
| 候補 | 構造 | 種類 |
|---|---|---|
| ブタン酸 | CH3CH2CH2COOH | カルボン酸 |
| 2-メチルプロパン酸 | (CH3)2CHCOOH | カルボン酸 |
| 酢酸エチル | CH3COOCH2CH3 | エステル |
| プロパン酸メチル | CH3CH2COOCH3 | エステル |
| ギ酸プロピル | HCOOCH2CH2CH3 | エステル |
| ギ酸イソプロピル | HCOOCH(CH3)2 | エステル |
| 1-メトキシ-2-プロパノン | CH3OCH2COCH3 | ケトン+エーテル |
| 3-ヒドロキシ-2-ブタノン | CH3CH(OH)COCH3 | ケトン+アルコール |
| 1,4-ジオキサン | 6員環の環状エーテル | エーテル(環で不飽和度1) |
9つの候補が、すべて分子式と不飽和度を満たしています。ここから先は、各手法で候補を消していく作業です。
手順3:IRで消せる候補を消す
1740付近の強い吸収は C=O です。C=O を持たない 1,4-ジオキサンが消えます。2500–3650の領域に幅広く強い吸収が無いので、O–H を持つブタン酸・2-メチルプロパン酸・3-ヒドロキシ-2-ブタノンが消えます。カルボン酸の O–H は2500–3100に極端に幅広く出るので、あれば見落とすことはありません。
3455の弱い吸収を O–H と読んではいけません。強い C=O 伸縮(約1735)のほぼ2倍(少し低い側)に出る倍音で、エステルやケトンで弱く見えることがあります。O–H なら強く幅広く出るはずで、形と強さが合いません。
C=O の位置(1740付近)は、飽和ケトンの基準1715より高く、エステルの目安1735に合います。エステルは C=O の隣の酸素が誘起効果で電子を引き、C=O 結合が縮んで高波数側に動くからです。1240と1045の強い吸収は C–O 伸縮で、エステルの C(=O)–O–C 部分に合います。ここで残りはエステル4つと1-メトキシ-2-プロパノンです。1-メトキシ-2-プロパノンはケトンなので C=O は1715付近が目安ですが、差は25 cm−1 ほどしかないので、IRだけで消し切らずにNMRで確かめます。
手順4:NMRで骨格を決める
1H NMRのシグナルは3種類で、積分比 2:3:3 の合計8が分子式の水素数8と一致するので、そのまま 2H・3H・3H と読めます。
まず、δ 6 より左にシグナルが無いことに注目します。ギ酸エステルの H–C(=O)O は δ 8 付近に一重線で出るはずなので、ギ酸プロピルとギ酸イソプロピルが消えます。
次に分裂です。δ 4.12 の 2H 四重線と δ 1.26 の 3H 三重線は、どちらも J = 7.1 Hz です。同じ J を持つ四重線(2H)と三重線(3H)の組は、互いに分裂し合う エチル基 CH3CH2– を表します。1-メトキシ-2-プロパノン(CH3O–CH2–CO–CH3)は、水素を持つ炭素どうしが隣り合っていない(O か C=O で隔てられている)ので、3本とも一重線になるはずです。エチル基の四重線・三重線は説明できないので、1-メトキシ-2-プロパノンが消えます。
残りは酢酸エチルとプロパン酸メチルです。どちらもエチル基と一重線のメチルを持ち、分裂のパターンは同じです。ここで効くのが化学シフトです。
| シグナル | 観測 | 酢酸エチルなら | プロパン酸メチルなら |
|---|---|---|---|
| CH2(四重線) | δ 4.12 | O–CH2:エステルのアルコール側(3.6–4.3) | C(=O)–CH2:カルボニルのα位(約2.3) |
| CH3(一重線) | δ 2.05 | CH3–C(=O):カルボニルのα位(2.0–2.6) | O–CH3:エステルのアルコール側(約3.7) |
観測は酢酸エチルの予測と一致し、プロパン酸メチルとは位置の関係が逆です。酸素に直接ついた炭素の水素は、電気陰性な酸素に電子を引かれて遮蔽が弱まり、左(低磁場)に出ます。C=O の隣の水素はそれより右に出ます。四重線の CH2 が4.12にあることは「エチル基は酸素の上」、一重線の CH3 が2.05にあることは「メチルは C=O の上」を意味し、つなぐと CH3–C(=O)–O–CH2CH3(酢酸エチル)になります。
13C NMRも合います。4本のシグナルは4つの炭素がすべて別の環境にあることを示し、171.4はヘテロ原子のついた C=O(160–185)、60.5は酸素についた炭素(50–90)、21.0と14.2はアルキル炭素です。DEPTで CH3・CH2・四級炭素の内訳まで確かめる手順はNMR分光法による構造決定で、同じ酢酸エチルを使って解いています。
手順5:MSとIRで検算する
最後に、酢酸エチルという答えから他のデータを予測し直します。
MSのベースピーク m/z 43は、カルボニルの隣の C–O 結合が切れて •OCH2CH3(質量45)が外れ、アシリウムイオン CH3C≡O+(m/z 43)が残ったものです。43 + 45 = 88 で分子量に戻ります。アシリウムイオンは酸素の孤立電子対が正電荷を分け持つので安定で、正電荷はこちらに残ります。m/z 73 は M − 15(CH3• が外れた)、m/z 29 は C2H5+ で、どちらもエチル基があることと合います。m/z 61 は、エトキシ基の水素が2個カルボニル側へ移って生じる CH3C(OH)2+ と説明されるイオンです。
比べるために、NIST に収録されたプロパン酸メチルのスペクトルを見ると、ベースピークは m/z 29(C2H5+)、次が m/z 57(C2H5C≡O+・84%)で、分子イオン m/z 88 も50%と強く出ます。どちら側にアシル基があるかが、アシリウムイオンの質量(43か57か)に表れるので、MSでもこの2つは区別できます。これは2-ペンタノン(43)と3-ペンタノン(57)を区別するのと同じ理屈で、MSフラグメンテーションの読み方のα開裂の節で扱っています。
IRも、エステルの C=O(1740付近)と C–O(1240・1045)があり、O–H が無いことで矛盾がありません。組み立てた構造の分子式は C4H8O2、不飽和度1の内訳は C=O 1つで、手順1・2とも合います。1H の3本と 13C の4本はすべて帰属できました。説明できないNMRのシグナルが残らないので、X は酢酸エチルと決まります。
MSの m/z 70 のように、すべてのフラグメントを帰属しきる必要はありません。MSで確かめるのは、分子イオン・ベースピーク・大きなフラグメントが構造と矛盾しないことです。一方でNMRは、すべてのシグナルを説明できることが条件です。手法によって「検算の厳しさ」が違うことも覚えておきましょう。
| 候補 | 消えた手順 | 決め手 |
|---|---|---|
| 1,4-ジオキサン | IR | C=O の吸収(1740)がある |
| ブタン酸・2-メチルプロパン酸 | IR | 2500–3100 の極端に幅広い O–H が無い |
| 3-ヒドロキシ-2-ブタノン | IR | 幅広く強い O–H が無い |
| ギ酸プロピル・ギ酸イソプロピル | 1H NMR | δ 8 付近の H–C(=O)O が無い |
| 1-メトキシ-2-プロパノン | 1H NMR | 四重線・三重線(エチル基)が説明できない |
| プロパン酸メチル | 1H NMR(MSでも確認) | O–CH2(4.12)と CH3–C=O(2.05)の位置。MSのベースピークが43で57ではない |
| 酢酸エチル | — | 全データを説明できる(答え) |
例題から分かる「組み合わせる」意味
例題を振り返ると、どの手法も単独では答えに届いていないことが分かります。
- MSだけでは、分子式 C4H8O2 までは言えても、9つの候補はどれも分子量88です。フラグメントで絞り込めますが、候補を先に減らしておかないと、どの開裂を探せばよいかが決まりません
- IRだけでは、「O–H の無いカルボニル化合物、たぶんエステル」まで。酢酸エチル・プロパン酸メチル・ギ酸エステルは区別できません
- NMRだけでもかなり迫れますが、分子式が無いと積分比 2:3:3 が 2H・3H・3H なのか 4H・6H・6H なのかが決まらず、水素を持たない酸素が何個あるかも分かりません
もう1つ大事なのは、独立した手法が同じ答えを指すと、答えの確かさが上がることです。酢酸エチルとプロパン酸メチルの区別は、NMRの化学シフトとMSのアシリウムイオンという、測っている物理量がまったく違う2つの手法で同じ結論になりました。片方の読みに誤りがあれば、もう片方と食い違うはずです。食い違わないことが、検算になっています。
試験では、出題者が必要なデータだけを選んで渡すので、組み合わせの順番がそのまま解答の筋道になります。どのデータで何が決まったかを、答案にも順番に書くと採点者に伝わります。
NMR構造解析の演習——2問で手順を確かめる
例題と同じ5つの手順で解いてみましょう。数値は代表的な値(1H NMR は CDCl3 中のおおよその値、MS は NIST 収録スペクトルの主なピーク)です。
演習1:C4H8O
答え:2-ブタノン(エチルメチルケトン)CH3COCH2CH3
・不飽和度 =(2 × 4 + 2 − 8)÷ 2 = 1。C=O・C=C・環のどれか1つ
・IR 1715 は飽和ケトンの基準そのもの。C=O があるので環状エーテル(テトラヒドロフランなど)は消え、O–H が無いのでアルコール(環状アルコールや不飽和アルコール)も消える
・アルデヒドなら C–H の伸縮が2720と2820付近に弱い2本で出て、1H NMR の δ 9–10 にもシグナルが出る。どちらも無いのでブタナール・2-メチルプロパナールは消える
・同じ J の四重線(2H)と三重線(3H)でエチル基。一重線 3H は隣に H の無いメチル。どちらも2台なので C=O の隣
・CH3–CO–CH2CH3 と組める。MS のベースピーク43は CH3CO+(エチル基29が外れた)、57は C2H5CO+(メチル基15が外れた)で、カルボニルの両側でα開裂が起きている
この演習の要点は、アルデヒドとケトンを2つの手法で独立に切り分けたことです。IRの2720・2820と、NMRの δ 9–10 は、どちらもアルデヒドの H–C=O から来る情報で、両方が無いことでケトンと言い切れます。
演習2:C8H8O
答え:アセトフェノン C6H5COCH3
・不飽和度 =(2 × 8 + 2 − 8)÷ 2 = 5。ベンゼン環(4)+C=O(1)を疑う
・芳香族の H が合計5個 → 一置換ベンゼン。一重線 3H は隣に H の無いメチル
・IR 1685 は飽和ケトンの1715より低い。C=O がベンゼン環と共役して二重結合性が下がっているので、C=O はベンゼン環に直結している
・アルデヒドの C–H(2720・2820)と δ 9–10 のシグナルが無いので、フェニルアセトアルデヒドやメチルベンズアルデヒドは消える
・MS:120 − 15 = 105 は C6H5CO+(ベンゾイルイオン、メチルが外れた)、105 − 28 = 77 は C6H5+(CO が外れた)。どちらも「ベンゼン環に C=O が直結」と合う
・C=O の隣のオルト位の H 2個は、C=O の脱遮蔽を受けて他の芳香族 H より左(7.9–8.0)に出る
演習2では、IRの共役による低波数シフトとMSの m/z 105 が、同じ「C=O がベンゼン環に直結」を別々に示しています。もし C=O とベンゼン環の間に CH2 が入った異性体(フェニルアセトアルデヒド C6H5CH2CHO)なら、C=O は共役しないので低波数シフトが起こらず、MSではベンジル位の開裂による m/z 91 が目立つはずです。ベンゼン環の見分け方は芳香族化合物のスペクトル解析で詳しく扱っています。
試験での問われ方
構造決定の問題は、形を変えて出題されます。どの形でも、使う考え方は5つの手順と同じです。
1. 分子式とスペクトルから構造を決める。この記事の例題の形です。分子式が与えられていれば手順2から、与えられていなければMSと元素分析から始めます。答案には「どのデータから何が決まったか」を順に書きます。
2. 異性体の区別を問う。「AとBを区別するにはどの測定が有効か、理由とともに述べよ」という形です。2つの構造で違う部分を見つけ、その違いがどの手法で見えるかを考えます。酢酸エチルとプロパン酸メチルなら、違いは「アシル基とアルコキシ基の入れ替わり」なので、1H NMR の化学シフト(O–CH2 か C(=O)–CH2 か)とMSのアシリウムイオン(43か57か)で見えます。IRはどちらもエステルなので決め手になりません。
3. 反応の前後でスペクトルがどう変わるかを問う。たとえば2-プロパノールをアセトンに酸化すると、IRでは3400付近の幅広い O–H が消えて1715の C=O が現れ、1H NMR では酸素のついた CH のシグナル(δ 4 付近)が消えます。反応で変わった官能基だけを追えば答えられます。合成の確認として、研究でも日常的に行う読み方です。
4. ピークの帰属を問う。構造が与えられて「各シグナルを帰属せよ」と問われる形です。手順5(検算)をそのまま答案にします。化学シフトの理由(電気陰性な原子の隣は左へ、など)まで書けると、理解していることが伝わります。
構造決定を学ぶ意義——研究ではこう使う
構造決定は試験のための技術ではなく、有機化学の研究で毎日使う技術です。
- 合成の確認:反応で目的の化合物ができたかを、出発物質との違い(消えた官能基・現れた官能基)で確かめる
- 不純物・副生成物の同定:予想外のスポットやピークが何なのかを決め、反応条件の改善につなげる
- 天然物の構造解析:生物から取り出した微量の化合物の構造を、MSと二次元NMRを組み合わせて決める
- 創薬・材料開発:活性を示した化合物の構造を確定させないと、次の分子設計に進めない
分子が大きくなると、1次元NMRだけでは断片がつながらなくなります。そのときは、どの水素とどの炭素がつながっているかを直接示す二次元NMR(COSY・HSQC・HMBC・NOESY)を使います。立体(相対配置・絶対配置)まで決めるには、NOEやX線結晶解析、Mosher法などが必要で、絶対配置と相対配置の決め方で扱っています。この記事の5つの手順は、どれだけ大きな分子でも出発点として変わりません。
まとめ:構造を「読む力」は手順で身につく
よくある質問
MS(または元素分析)で分子式を出し、不飽和度を計算し、IRで官能基の有無を決め、最後にNMRで骨格を組み立てる順番が基本です。分子式は不飽和度の計算とNMRの積分を水素の個数に直すのに必要で、IRは候補をまとめて消せるからです。組み立てた構造から全スペクトルを予測し直す検算で終えます。
構造決定は、構造の分からない化合物について測定データから構造を組み立てる作業です。同定は、得られた物質が既知のどの化合物なのかを、標品や文献のスペクトル・融点と照合して確かめる作業です。同定ではIRの指紋領域が標品と重なることや、混融試験で融点が下がらないことが決め手になります。
MSで分子イオンの m/z から分子量を出し、窒素則で窒素の奇偶を、M と M+2 の対で塩素・臭素の有無を確かめます。元素分析の値があれば各元素の質量%を原子量で割って組成式を出し、分子量で何倍かを決めます。高分解能MSの精密質量があれば、それだけで分子式が決まります。
そうとは限りません。アルコールの O–H は強く幅広く出ます。弱いピークなら、カルボニル化合物で約1700の C=O 伸縮のほぼ2倍の位置に出る倍音や、試料に含まれる水の可能性があります。1H NMR で D2O を加えて消えるシグナルがあるかを確かめると、O–H の有無を別の手法で確認できます。
参考文献
- R. M. Silverstein, F. X. Webster, D. J. Kiemle, D. L. Bryce, Spectrometric Identification of Organic Compounds, 8th ed., Wiley, 2014.
- J. McMurry, Organic Chemistry, 9th ed., Cengage Learning, 2016.
- J. Clayden, N. Greeves, S. Warren, Organic Chemistry, 2nd ed., Oxford University Press, 2012.
- NIST Chemistry WebBook, NIST Standard Reference Database Number 69(Ethyl acetate・Methyl propionate・2-Butanone・Acetophenone の質量スペクトル、Ethyl acetate の赤外スペクトル).
- G. R. Fulmer, A. J. M. Miller, N. H. Sherden, H. E. Gottlieb, A. Nudelman, B. M. Stoltz, J. E. Bercaw, K. I. Goldberg, Organometallics 2010, 29, 2176–2179.(酢酸エチルの 1H・13C 化学シフト)
🧭 関連リンク
- 👉 【まとめ記事】有機化学入門シリーズ全体はこちら
- 👉 【第10章】反応選択性と合成計画の基礎|逆合成で合成を組み立てる考え方
- 👉 【第12章】反応設計と合成戦略の基礎|逆合成・保護基・反応順序の考え方
テスト前に:反応機構チートシート(無料)
有機化学は暗記科目ではありません。電子がどこからどこへ動くか——この一本の筋が通ると、バラバラだった反応が急につながり始めます。
その筋を最短で通すための反応機構チートシート(A4・5枚)を無料で配布しています。求核剤・求電子剤の見分け方、SN1/SN2/E1/E2 の分岐フローチャート、頻出反応の巻矢印まとめ、置換基の電子効果の早見表。試験前に印刷して机の横へどうぞ。
登録は無料です。不要になればいつでもブロックできます。
