質量分析で分子式が決まっても、それは原子の個数が分かっただけです。C5H12O と分かっても、構造の候補はまだ十数個あります。

その候補を減らすのが、分子イオンより軽いピークです。分子はイオン化のときに壊れ、壊れ方には規則があります。どこが切れたかが読めれば、骨格の断片が手に入ります。

この記事では、正電荷がどこに残るかという原則から、官能基ごとの特徴的な開裂までを扱います。

この記事で学ぶこと
・正電荷は安定なカチオンに残るという、すべての基礎になる1行
・M から引いた差(失われた中性種)の読み方
・α開裂——m/z 31 があれば第1級アルコール
・McLafferty 転位が6員環でだけ起こる理由
・芳香族を示す m/z 91・105・77
・断片の質量を足して分子式に戻す検算

ベースピークは、いちばん安定なカチオンである

フラグメンテーションを読む原則は1つだけです。

正電荷は、より安定なカチオンのほうに残る。

これは新しい規則ではありません。カルボカチオンの安定性の序列(第3級 > 第2級 > 第1級、ベンジル・アリルは別格)をそのまま使います。

2,2-ジメチルブタンを例にします。分子量は 86 ですが、実際のスペクトルで最も高いピーク(ベースピーク)は m/z 57 です。

失うラジカル質量残るイオン m/z相対強度
CH3•157110%
C2H5•2957100%
C3H7•434375%
C4H9•572940%

m/z 57 が飛び抜けているのは、そこに残るのが tert-ブチルカチオン(第3級)だからです。何が失われたかではなく、何が残ったかを見ます。

「切れやすい結合が切れる」ではない
結合の強さだけで考えると、どの C−C も似た強さなので説明がつきません。効いているのは生成物(カチオン)の安定性です。
→ 逆に言えば、ベースピークが何かを言えれば、そこに第3級炭素かベンジル位があると分かります。

まずやること——M から引く

スペクトルを渡されたら、分子イオン M から各ピークを引いて、失われた中性種を同定します。この差の表は、覚える価値のある数少ない表です。

失われた質量中性種何を示すか
15CH3•メチル基がある
17•OHカルボン酸・アルコールの示唆
18H2Oアルコール(脱水)
28CO または C2H4CO なら環状ケトン・アルデヒド。C2H4 なら McLafferty
29C2H5• または •CHOエチル基/アルデヒド
31•OCH3メチルエステル
43C3H7• または CH3CO•プロピル基/アセチル基
45•COOH または •OC2H5カルボン酸/エチルエステル
M−28 は2通りに読める
CO の脱離か、McLafferty によるエチレンの脱離か。分子式に酸素がなければ CO は消えます——候補を減らすのに、先に出した分子式がそのまま効きます。

α開裂——孤立電子対のとなりが切れる

ヘテロ原子(O・N)を持つ分子では、ヘテロ原子に隣接する C−C が特異的に切れます。これを α開裂といいます。

なぜそこか——切れたあとに残るカチオンを見れば分かります。

R−CH2−OH  −−(α開裂:R• が外れる)−−>  [CH2=OH]+ m/z 31

 安定化のしくみ +CH2−O:H  ↔  CH2=O+H
 → 酸素の孤立電子対が正電荷へ流れ、二重結合ができるので安定

同じことがアミンでも起こります。

フラグメントm/z示す構造
[CH2=OH]+31第1級アルコール(−CH2OH)
[CH3CH=OH]+45第2級アルコール(−CH(OH)CH3)
[CH2=NH2]+30第1級アミン(−CH2NH2)
[CH2=OCH3]+45メチルエーテル

ケトンでも α開裂が起こり、アシリウムイオン(R−C≡O+)が残ります。この使い方が強力です——どちら側が切れたかで、カルボニルの位置が決まります。

2-ペンタノン  CH3CO−CH2CH2CH3   →  m/z 43(CH3CO+)が強い
3-ペンタノン  CH3CH2CO−CH2CH3   →  m/z 57(C2H5CO+)が強い

 → 分子量が同じ(86)でも、MS だけで区別できる

McLafferty 転位——6員環でだけ起こる

カルボニル化合物には、もう1つ特徴的な開裂があります。McLafferty 転位です。

条件は1つだけ——γ位に水素があること。その水素がカルボニル酸素へ移り、同時に Cβ−Cγ が切れて中性のアルケンが抜けます。

      H ······ O
      /     ||
 Cγ−−Cβ    C
      \     /
      Cα−−−−

 O・C・Cα・Cβ・Cγ・H の6つで環になる(数えると分かる)
 → Cβ−Cγ が切れ、M − 28(C2H4)などが出る
γ位に水素がなければ起こらない
6員環の遷移状態を組めないからです。逆に、M−28 などのアルケン脱離が見えたら「γ位に水素がある」と読めます——これは鎖の長さの情報です。
なお、ラジカルカチオンの反応なので巻矢印は片羽(電子が1個ずつ動く)です。

芳香族は3つの数字で分かる

ベンゼン環があると、ほぼ必ず次のどれかが出ます。

m/zイオン示す構造
91C7H7+(トロピリウム)ベンジル位がある(Ar−CH2−R)
105C6H5CO+(ベンゾイル)芳香族ケトン・安息香酸誘導体
77C6H5+(フェニル)ベンゼン環が直接つながっている

m/z 91 が飛び抜けて強いのは、生じたベンジルカチオンがトロピリウムイオン(7員環・6π の芳香族カチオン)へ転位するためです。芳香族性がフラグメンテーションの行き先を決めている例で、第1巻の Hückel 則がそのまま効いています。

フラグメントの同位体パターンは「位置」を教える

ハロゲンを含む分子では、M と M+2 が一対で見えます。

Cl M : M+2 = 3 : 1
Br M : M+2 = 1 : 1

 → 間隔は 2(1 ではない)。同位体の質量差が 2 だから

この記事で重要なのは、フラグメントの側でこの一対が残っているかを見るという使い方です。

1-ブロモヘキサンなら、m/z 135 と 137 が 1:1 で見えればそのフラグメントにはまだ Br がついている、m/z 85 が1本だけなら Br を失っている。これは「どの断片にハロゲンが付いていたか」という位置の情報で、分子式を超えて構造に踏み込む最初の一歩になります。

よくある誤り:間隔を 1 と書く
同位体のピークは M と M+2 です。79Br と 81Br の質量差が 2 だからで、隣り合った m/z には出ません。M+1 は主に 13C による別のピークです。

開裂の2つの型——どちらの電子が残るか

結合の切れ方には2つあり、どちらも MS では起こります。

型電子の動き出るもの
ホモリシス
(均等開裂)
結合電子が1個ずつ分かれる(片羽の矢印)カチオン + 中性ラジカル
α開裂はこちら
ヘテロリシス
(不均等開裂)
結合電子が2個とも片側へ動くカチオン + 中性分子
脱水(M−18)はこちら

見分け方は簡単です。失われたものがラジカル(•OH・CH3•)ならホモリシス、中性分子(H2O・C2H4)ならヘテロリシスか転位です。

読む手順は4つ

① 分子イオンから各ピークを引き、失われた中性種を同定する
② ベースピークがなぜ安定かを言う(第3級/ベンジル/オキソニウム/アシリウム)
③ 官能基に特有の開裂があるかを確認する
  (31・45=α開裂/M−18=アルコール/M−28=McLafferty/91・105・77=芳香族)
④ 断片の質量を足して分子式に一致するかを検算する

④を飛ばさないでください。断片を足して分子式に戻らなければ、どこかの帰属が誤っています。構造決定は推理ではなく会計で、帳尻が合うまで候補を消していく作業です。

まとめ

この記事の要点
・正電荷は安定なカチオンに残る。ベースピークが何かを言えれば、そこに何があるか分かる
・まず M から引く。15・17・18・28・29・31・43・45 は覚える価値がある
・m/z 31 があれば第1級アルコール、30 なら第1級アミン(α開裂)
・ケトンの α開裂はカルボニルの位置を決める(2-ペンタノン 43/3-ペンタノン 57)
・McLafferty 転位は γ位に水素があるときだけ。6員環が組めるかで決まる
・91・105・77 は芳香族の指紋。91 はトロピリウムへの転位で強くなる
・ハロゲンの同位体は M と M+2(間隔 2)。フラグメント側で見れば位置が分かる
・最後に断片の和が分子式に戻るかを検算する

よくある質問

分子イオンピークが見えないことがあるのはなぜですか?

分子イオンが不安定で、生成した瞬間に壊れてしまうためです。第3級アルコールや高度に分岐したアルカンで起こりやすく、スペクトルにはフラグメントしか現れません。この場合は化学イオン化(CI)のような穏やかなイオン化法に切り替えると、分子イオン(または M+1)が見えるようになります。逆に「分子イオンが弱い」こと自体が、分岐の多い構造を示す手がかりにもなります。

窒素則はフラグメントにも使えますか?

使えません。窒素則(窒素を奇数個含む分子の公称分子量は奇数)は分子イオンについてだけ成り立ちます。開裂して生じたフラグメントイオンはラジカルを失っているので、偶奇の関係が反転します。実際、トリエチルアミン(MW 101、奇数)のベースピークは m/z 86(偶数)ですが、窒素は依然として1個入っています。「偶数だから窒素がない」とフラグメントに対して言うのは誤りです。

M−28 が CO なのか C2H4 なのか、どう見分けますか?

先に決めた分子式で切り分けます。分子式に酸素がなければ CO の脱離はあり得ないので、C2H4(McLafferty)と決まります。酸素がある場合は、γ位に水素があるかどうか(=鎖が3炭素以上あるか)を構造候補ごとに確認します。環状ケトンや芳香族アルデヒドでは CO の脱離が典型的です。

m/z 91 と 92 の両方が見えるのはなぜですか?

m/z 91 はベンジル位の開裂によるトロピリウムイオン(C7H7+)です。m/z 92 が一緒に見える場合は、水素移動をともなう開裂(トルエンなどの中性分子が生じる経路)が並行して起こっています。どちらも「ベンジル位がある」ことを示す点では同じで、強度比は側鎖の長さで変わります。

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