論文や実験レポートに「(R)-体が得られた」と書くとき、その根拠は何でしょうか。

この問いは院試の口述試験で実際に出ます。そして「核磁気共鳴(NMR)で確認しました」という答えは、原理的に誤りです。エナンチオマーのNMRスペクトルは完全に同一で、区別できないからです。

立体配置の決定には、決まった順序があります。相対配置はNMRで決まり、絶対配置はNMRでは決まらない——この線引きを最初に押さえると、どの測定をいつ出すかが自動的に決まります。

この記事で学ぶこと
・相対配置と絶対配置は決め方がまったく違うこと
・カップリング定数 J が二面角を映すこと(Karplusの関係)
・NOE が距離を映すこと、J では届かない場面
・鏡像体過剰率(ee)の測り方と、96% ee が 96 : 4 ではない理由
・絶対配置を決める3つの道(X線・Mosher法・既知物との相関)

立体の問いは、2つに分かれている

平面構造(どの原子がどの原子とつながっているか)が決まったあとに残る問いは、実は2種類あります。

問い決める道具
相対配置2つの置換基は同じ側か、反対側か(cis/trans・syn/anti)NMR で決まる(J・NOE)
絶対配置その不斉中心は R か S かNMR では決まらない(X線・Mosher法・既知物との相関)

この2つを対応づけると、使う道具が自動的に決まります。相対配置はジアステレオマーの問題、絶対配置はエナンチオマーの問題です(分類の定義は四面体中心の立体化学、命名のしかたはR/S配置の決め方で扱っています)。

相対配置はJとNOEで決まり、絶対配置はX線・Mosher法・既知物との相関でしか決まらないことを2列に分けて示す道具の地図

なぜNMRでエナンチオマーは区別できないのか

(R)-2-ブタノールと (S)-2-ブタノールの 1H NMR は、シグナルの数・化学シフト・カップリング定数・積分がすべて一致します。

理由は測定環境です。ふつうのNMRはアキラルな溶媒(CDCl3 など)で測ります。アキラルな環境では、エナンチオマーどうしは物理的に完全に等価です。等価なものは同じスペクトルを与えます。

やってはいけない答え方
・「NMR で (R) 体だと確認した」→ 原理的に不可能
・「旋光度が (+) だから R 体」→ 符号と配置に一般的な対応はない
・「X線を撮ったから絶対配置が決まった」→ 条件つき(下記のとおり重原子か既知不斉部位が必要)

一方、ジアステレオマーは物理的性質が違うので、NMRではっきり区別できます。ここから、立体化学の測定を貫く1つの戦略が出てきます。

この分野の戦略は1つだけ
エナンチオマーの問題を、ジアステレオマーの問題に変換する。
・キラル固定相のカラムで分離する(キラルHPLC)
・キラルシフト試薬で相互作用させる
・キラル試薬で共有結合をつくる(Mosher法)

相対配置① カップリング定数は二面角を映す

カップリング定数 J は「隣り合っている証拠」として使われますが、もう1つの顔があります。J の大きさは、2つのC−H結合のなす二面角で決まります。

この関係を表したのが Karplusの関係です。式を覚える必要はなく、3点で足ります。

二面角J(Hz)軌道の重なり
180°(anti)最大(10–14)よく重なる
90°ほぼ 0直交して重ならない
0°(重なり形)中くらい(6–9)中くらい
90° で 0 になることの意味
「シグナルが割れていないから、隣に水素がない」と結論してはいけません。二面角が 90° 付近なら、隣に水素があっても割れません。配座が固定された環状化合物では、これが実際に起こります。

アルケンの cis/trans

trans(H が反対側・二面角 180°)   J = 12–18 Hz
cis  (H が同じ側・二面角 0°)     J = 6–12 Hz
同一炭素上(geminal)                J = 0–3 Hz

12 前後で範囲が重なるので、同じ分子の中で比較できるときは比較します。1,3-ジエンで2つの二重結合の J を比べれば、どちらが trans かは確実です。

シクロヘキサンのアキシアル判定(いちばん実用的)

いす形シクロヘキサンでは、隣接する水素の二面角が関係によって決まっています(いす形そのものはシクロヘキサンの立体化学を参照)。

ax−ax(両方アキシアル・約 180°)  J = 10–13 Hz  ← 大きい
ax−eq                (約 60°)  J = 2–5 Hz
eq−eq                (約 60°)  J = 2–5 Hz

大きい J(10 以上)が見えたら、そこは ax−ax です。水素が両方アキシアルということは、置換基は両方エカトリアル——すなわち trans-1,2-二置換体だと決まります。

糖のアノマー判定はこの1つの数値で決まる
・β-グルコース:アノマー位の H が隣の H と ax−ax → J = 7–8 Hz
・α-グルコース:ax−eq → J = 3–4 Hz
・この判定が成立するのは、ピラノース環がいす形をとって置換基が ax か eq に定まっているから。環が平面なら差は出ない

いす形シクロヘキサンで ax-ax(二面角180度・J大)と ax-eq(60度・J小)の違いを、実際のスペクトルの割れ幅つきで示す図

相対配置② NOEは距離を映す

J は結合を介した情報なので、結合でつながっていない2つの原子の関係は分かりません。そこを埋めるのが核オーバーハウザー効果(NOE)です。2次元で測る場合は NOESY と呼びます(二次元NMRも参照)。

NOE の3つの性質
・およそ 5 Å 以内で効く。結合の数には関係しない
・強度は距離の6乗に反比例する(2倍遠いと64分の1)
・したがって近いか遠いかの判定は鋭いが、距離を数値で出すのは難しい
知りたいことNOE の見方
環の置換基が cis か trans かcis なら、2つの置換基の水素どうしに相関が出る
四置換アルケンの E/Z二重結合上に水素がなく J が使えない。同じ側にある基の水素どうしの相関で決める
どの配座が優勢かその配座でだけ近づく2か所に相関が出る

J と NOE は相補的です。J は結合を通して近い関係、NOE は空間的に近い関係——この2つがそろって、相対配置は決まります。

NOE でも絶対配置は決まらない
NOE は分子内の距離を見ています。鏡像体では分子内の距離関係がまったく同じなので、NOEのパターンも同一になります。

光学純度を測る——旋光度と鏡像体過剰率

旋光度は「測れるが、予測はできない」

キラルな化合物の溶液に直線偏光を通すと偏光面が回転します。これを規格化したものが比旋光度です(測定の意味は鏡像異性体と光学活性で扱っています)。

[α]DT = α観測 / ( l × c )

   α:観測された回転角(°)    l:光路長(dm)    c:濃度(g/mL)
   D:ナトリウム D 線(589 nm)    T:温度(°C)

ここが最も誤解されるところです。符号(+か−か)から R/S を予測することはできません。

(R) 体が必ず (+) になるという規則は存在しません。旋光度の符号は分子全体の電子分布で決まるので、同じ R 配置でも置換基が変われば符号が逆になります。溶媒・濃度・温度・波長でも変わり、波長を変えて符号が反転することさえあります。

旋光度の使い道は2つだけ
・光学活性があることの確認(0 でなければ、単一エナンチオマーが過剰にある)
・文献値と比べて ee と絶対配置を推定する(既知化合物にかぎる)

鏡像体過剰率(ee)は「差」である

不斉合成をしたら、どれだけ片方に偏ったかを測ります。

ee = | R の割合 − S の割合 |(%)

    98 − 2 = 96   →  96% ee   ✔
    96 − 4 = 92   →  これは 92% ee
最頻出の計算ミス
96% ee は 96 : 4 ではありません。98 : 2 です。ee は差であって割合ではありません。キラルHPLCのピーク面積比から ee を出す問題で、ここを間違えると確実に落とします。

ee の測り方

方法やること注意
キラルHPLC・GCキラル固定相で2つを分離し、面積比を出す現在の標準。どちらのピークがどちらかは別に決める必要がある
キラルシフト試薬・キラル溶媒キラルな環境でジアステレオマー的に振る舞わせ、NMRで分けるアキラルな溶媒では絶対に分かれない
旋光度との比較実測の [α] を文献の最大値で割る文献値の信頼性に依存する。微量の不純物で大きくずれる

絶対配置① X線結晶構造解析

波長 0.15 nm 程度のX線は、C−C結合長(0.154 nm)と同程度です。だから結晶中の原子の位置を回折パターンから決められます。X線を使う理由は「ものさしの目盛りを原子の大きさに合わせる」ことで、可視光(数百 nm)では長すぎて分子が見えません。

手順は4段階——①結晶化、②回折データの収集、③電子密度マップの計算、④構造の決定。最難関は ①です。結晶が育たなければ何も始まりません。

通常のX線回折では、絶対配置は決まらない
ふつうの回折測定では鏡像の区別がつきません。決めるには次のどちらかが必要です。
・重原子(Br・I など)を導入して異常分散を測る
・絶対配置が既知の部位(不斉補助基・糖など)を分子内に入れておく

絶対配置② Mosher法——誘導体化してNMRで読む

結晶が得られないときの定番です。油状の化合物でも使えます。

Mosher法の手順
①光学的に純粋な (R)-MTPA(Mosher酸)で、目的のアルコールをエステル化する
②同じ基質を (S)-MTPA でもエステル化する(試料を2つ作る)
③2つの 1H NMR を測り、対応するプロトンごとに Δδ = δ(S) − δ(R) を計算する
④Δδ の符号を不斉中心の左右に分けて並べ、どちらの側に何があるかを決める

原理はこうです。得られた2つのエステルはジアステレオマーなのでNMRが違います。MTPAのフェニル基が、優先配座において不斉中心の片側の置換基だけを遮蔽するため、Δδ の符号が左右で系統的に分かれます。

この方法の思想は、この記事の冒頭で述べた戦略そのもの——エナンチオマーの問題をジアステレオマーに変換して、ふつうのNMRで見るです。アミンにも適用できます。

Mosher法で(R)-MTPAエステルと(S)-MTPAエステルを作り、Δδの符号が不斉中心の左右で分かれることを示す模式図

絶対配置③ 既知化合物との相関

立体を壊さない反応で既知の化合物へ変換し、旋光度やX線で決まっている構造と突き合わせます。

条件は1つだけです。保持か反転かが確実に分かっている反応しか使えません。たとえばアルコールのトシル化はC−O結合に触れないので立体配置が保持され、その後のSN2では1回だけ反転する——このように各段の立体の行方が確定している経路を選びます。

立体を決める5手順

実際の作業は安い順に進みます。J と NOE はふつうのNMRで測れるのでほぼ無条件に使えますが、X線は単結晶が要ります。

1  不斉中心の数と、ジアステレオマーの数を数える(2n が上限)
2  J を読んで相対配置と配座を決める(10 以上なら anti/ax−ax)
3  NOE で、J では届かない関係を埋める(四置換アルケン・環をまたぐ関係)
4  旋光度で光学活性の有無を確認し、キラルHPLCで ee を測る
5  絶対配置が必要なら、X線(重原子・異常分散)か Mosher法へ
2と3で止めてよい場面が多い
反応の立体選択性(syn か anti か)を議論するだけなら相対配置で足ります。絶対配置まで必要になるのは、不斉合成の成果を主張するときと、生物活性を論じるときです。

大学院入試での問われ方

「エナンチオマーを 1H NMR で区別できない理由を述べよ」
      → アキラルな環境では2つが物理的に等価。キラルな環境が必要

「J = 11 Hz から、シクロヘキサン環の立体を述べよ」
      → ax−ax(二面角 180°)。置換基は両方エカトリアル=trans

「隣接する水素があるのに分裂が見えない。理由を述べよ」
      → 二面角が 90° 付近で J がほぼ 0

「四置換アルケンの E/Z をどう決めるか」
      → J が使えないので NOE

「キラルHPLCで面積比 98 : 2。ee はいくらか」
      → 96% ee(ee は差)

「(+) 体は R か S か」
      → 決められない。符号と配置に一般的な対応はない

「Mosher法の原理を述べよ」
      → キラルなMTPAの両エナンチオマーで誘導体化し、
        ジアステレオマーの Δδ の符号から左右を決める

まとめ

この記事のまとめ
・立体の問いは2つ——相対配置はNMRで決まり、絶対配置はNMRでは決まらない
・J は二面角を映す(Karplus)。180° で最大(10–14)、90° でほぼ 0
・シクロヘキサンで J が 10 以上なら ax−ax=置換基は両方エカトリアル=trans
・NOE は距離(5 Å 以内・6乗に反比例)を映す。四置換アルケンの E/Z はこれで決める
・旋光度の符号から R/S は予測できない。使い道は光学活性の確認と文献値との比較
・96% ee は 98 : 2。ee は差であって割合ではない
・共通する戦略はエナンチオマーをジアステレオマーに変換すること
・X線は最終的な証拠だが、単結晶と、重原子の異常分散か既知の不斉部位が必要

よくある質問

核磁気共鳴で絶対配置を決められないのはなぜですか?

通常の核磁気共鳴はアキラルな溶媒中で測定するため、鏡像異性体どうしが物理的に完全に等価になり、スペクトルが一致するからです。シグナルの数も化学シフトもカップリング定数も積分も同じになります。絶対配置を決めるには、キラルな環境を持ち込んで鏡像異性体をジアステレオマーの関係に変換するか、X線結晶構造解析で異常分散を測る必要があります。

カップリング定数から何が分かりますか?

二面角が分かります。2つの炭素-水素結合のなす角度が180度に近いとカップリング定数は10から14ヘルツと大きくなり、90度付近ではほぼ0になります。この関係をKarplusの関係と呼びます。シクロヘキサン環で10ヘルツ以上の値が見えれば両方の水素がアキシアルであり、したがって置換基は両方エカトリアルでトランスの関係にあると決まります。

NOEはどのような場面で必要になりますか?

結合を介さない空間的な近さを知りたい場面です。カップリング定数は結合を通した情報なので、二重結合上に水素がない四置換アルケンではE/Zを決められません。このときNOEで、同じ側にある置換基の水素どうしに相関が出るかを見ます。環をまたいだ置換基の関係や、優勢な配座の決定にも使われます。強度は距離の6乗に反比例します。

96パーセントの鏡像体過剰率は何対何の比ですか?

98対2です。鏡像体過剰率は2つの鏡像異性体の割合の差として定義されるため、98から2を引いた96が鏡像体過剰率になります。96対4だと差が92になるので92パーセントの鏡像体過剰率です。キラルHPLCのピーク面積比から計算する問題で最も多い誤りがここなので、割合ではなく差であることを必ず確認してください。

旋光度が正の値なら R 配置だと言えますか?

言えません。旋光度の符号と R/S 配置のあいだに一般的な対応関係は存在しません。符号は分子全体の電子分布で決まるため、同じ R 配置でも置換基が変われば逆の符号になることがあり、溶媒や濃度、温度、測定波長によっても変化します。旋光度の使い道は、光学活性があることの確認と、文献値との比較による推定の2つに限られます。

Mosher法ではなぜ試料を2つ作るのですか?

化学シフトの差の符号を読むために、比較対象が必要だからです。光学的に純粋なMosher酸のR体とS体でそれぞれエステル化すると、2つのジアステレオマーが得られます。対応するプロトンごとに化学シフトの差を計算し、その符号が不斉中心の左右どちらに偏っているかを見ることで絶対配置が決まります。1つだけ作っても、基準がないので符号を判定できません。