エノラートをヨウ化メチルと反応させると炭素がメチル化されるのに、クロロトリメチルシランと反応させると酸素がシリル化される。同じ求核剤なのに、反応する原子が相手によって入れ替わります。あるいは、α,β-不飽和ケトンにGrignard試薬を加えるとカルボニル炭素を攻撃するのに、Gilman試薬(有機銅試薬)を加えると離れたβ炭素を攻撃する。

こうした「どちらに反応するか」は、丸暗記の対象になりがちです。しかし、これらはすべて1つの原理で説明できます。それがHSAB則(Hard and Soft Acids and Bases、硬い・柔らかい酸と塩基の原理)です。

HSAB則は、酸と塩基を「強い・弱い」とは別の軸——硬い・柔らかい——で分類し、似た者どうしが結びつきやすいと述べるだけの、きわめて単純な原理です。それだけで、上に挙げた選択性がまとめて予測できるようになります。

この記事で学ぶこと
・「硬い/柔らかい」が何を指しているのか(静電的か、軌道的か)
・硬い酸・柔らかい酸、硬い塩基・柔らかい塩基の分類
・二座求核剤がどちらの原子で反応するかの予測
・Gilman試薬が1,4-付加する理由とSN2での求核性の序列

HSAB則とは——強さとは別の「相性」の軸

HSAB則は1963年にR. G. Pearsonが提唱した経験則で、次の一文に尽きます。

HSAB則
・硬い酸は硬い塩基と、柔らかい酸は柔らかい塩基と、速く・強く結合する
・硬いものと柔らかいものの組み合わせは相対的に不利になる
・「強い・弱い」(pKaの軸)とは独立した別の軸である

ここで言う酸・塩基はルイスの定義によるもの、つまり酸=電子対の受け手(求電子剤)/塩基=電子対の出し手(求核剤)です。したがってHSAB則は、実質的に求核剤と求電子剤の相性の法則として働きます。

重要なのは、これが強さの軸とは別物だという点です。水酸化物イオン OH− とチオラートイオン RS− を比べると、塩基としての強さ(共役酸のpKa)は OH− のほうが強い。しかし SN2 反応の求核剤としては RS− のほうがはるかに速い。強さでは説明できないこの逆転を説明するのが、硬さ・柔らかさの軸です。

「硬い」「柔らかい」の正体

硬い・柔らかいは、電子雲がどれだけ変形しやすいか(分極しやすさ)を指します。

  硬い(hard) 柔らかい(soft)
原子・イオンの大きさ 小さい 大きい
電荷密度 高い 低い
分極のしやすさ しにくい しやすい
電気陰性度 大きい傾向 小さい傾向
HOMO−LUMOの位置 塩基のHOMOが低い/酸のLUMOが高い 塩基のHOMOが高い/酸のLUMOが低い

そして、硬い組み合わせと柔らかい組み合わせでは、結合が安定化する仕組みそのものが違います。

  • 硬い酸+硬い塩基……小さく電荷が濃いものどうしが静電的に引き合う。イオン結合性の相互作用で、電荷が大きく距離が近いほど得をする。
  • 柔らかい酸+柔らかい塩基……塩基の高いHOMOと酸の低いLUMOが軌道として重なる。共有結合性の相互作用で、HOMO−LUMOギャップが小さいほど得をする。

つまりHSAB則は「似た者どうしが仲良くなる」という情緒的な話ではなく、安定化の稼ぎ方が2種類あり、それぞれ得意な相手が違うという話です。硬い塩基のHOMOは低いので柔らかい酸の低いLUMOと重ねても軌道的な得が少なく、電荷も薄い相手なので静電的な得も少ない——だから中途半端な組み合わせは不利になります。

混同しやすい点
・「硬い=強い」ではない。F− は硬いが塩基としては弱い
・「柔らかい=弱い」でもない。RS− は柔らかいが求核剤としては強力
・硬さ・柔らかさは相対的な尺度で、絶対的な境界線はない

酸(求電子剤)の分類

有機化学でよく出会う酸を硬さで並べると次のようになります。中間(borderline)は文脈によってどちらにも振る舞います。

分類 代表例 有機化学での顔
硬い酸 H+、Li+、Na+、Mg2+、Al3+、BF3、AlCl3、Ti4+、R3Si+ プロトン、シリル化剤、ルイス酸触媒、カルボニル炭素
中間 Fe2+、Cu2+、Zn2+、Sn2+、R3C+ カルボカチオン、遷移金属塩
柔らかい酸 Cu+、Ag+、Au+、Hg2+、Pd2+、Pt2+、I2、Br2 遷移金属触媒、ハロゲン、アルキルハライドのsp3炭素、共役系のβ炭素

重要なのは最後の2つです。アルキルハライドの反応点となるsp3炭素は柔らかい酸であり、α,β-不飽和カルボニルのβ炭素も柔らかい酸です。一方でカルボニル炭素そのものは硬い酸です。この3つを区別できると、後半の予測がすべてつながります。

塩基(求核剤)の分類

分類 代表例
硬い塩基 F−、OH−、RO−、H2O、ROH、NH3、RNH2、RCOO−、CO32−、NO3−
中間 Br−、N3−、NO2−、ピリジン、アニリン
柔らかい塩基 RS−、RSH、I−、CN−、R3P、CO、H−、アルケンやベンゼンのπ電子、R2Cu−
見分けの目安
・周期表で下へ行くほど柔らかい(F < Cl < Br < I、O < S < Se)
・負電荷が非局在化しているほど柔らかい(酢酸イオンより硫黄アニオン)
・第2周期の電気陰性な原子(N・O・F)に電荷があれば、まず硬いと考えてよい

硬い酸・塩基/柔らかい酸・塩基を2軸マップに配置し、硬い-硬い(静電的)と柔らかい-柔らかい(軌道的)の2種類の安定化の仕組みを対比した図

使いどころ1:二座求核剤はどちらの原子で反応するか

反応できる原子を2か所もつ求核剤を二座求核剤(ambident nucleophile)と呼びます。HSAB則が最も鮮やかに効くのがこの場面です。硬い原子は硬い求電子剤と、柔らかい原子は柔らかい求電子剤と反応します。

エノラートイオン——OかCか

エノラートは負電荷が酸素とα炭素に非局在化しています。電気陰性度の高い酸素に電荷が多く乗るため酸素側が硬く、炭素側が柔らかいという性質をもちます。

柔らかい求電子剤(CH3I など)  →  C-アルキル化(炭素で反応)
硬い求電子剤(R3SiCl、H+、アシル化剤)  →  O-置換(酸素で反応)

ヨウ化メチルは脱離基のヨウ化物イオンが柔らかく、反応点のsp3炭素も柔らかい求電子剤です。だから柔らかい炭素側と反応してC-アルキル化が進みます。一方、クロロトリメチルシランのケイ素は硬い求電子剤なので、硬い酸素側を選んでシリルエノールエーテルを与えます。同じエノラートから狙って作り分けられるのは、この違いを利用しているからです。

チオシアン酸イオン SCN−——SかNか

硫黄が柔らかく、窒素が硬い二座求核剤です。

  • アルキルハライド(柔らかい求電子剤)と反応 → 硫黄で攻撃してチオシアナート R–SCN
  • 硬い金属イオン Ag+ が硫黄を掴んだ状態で反応 → 窒素で攻撃してイソチオシアナート R–NCS

シアン化物イオン CN−——CかNか

炭素が柔らかく、窒素が硬い。アルキルハライドと反応させれば炭素で攻撃してニトリル R–CN を与えますが、シアン化銀 AgCN のように硬い環境に置くと窒素で攻撃してイソシアニド R–NC が主生成物になります。

使いどころ2:1,2-付加と1,4-付加の分かれ道

α,β-不飽和カルボニル化合物には、求核剤が攻撃できる場所が2つあります。

攻撃点 硬さ 起こる反応 これを選ぶ試薬
カルボニル炭素 硬い(電荷が濃い) 1,2-付加 RMgX、RLi、LiAlH4(硬い求核剤)
β炭素 柔らかい(LUMOの係数が大きい) 1,4-付加(共役付加) R2CuLi、RSH、R2NH、エノラート(柔らかい求核剤)

Grignard試薬の炭素アニオンは電荷が濃く硬いため、硬いカルボニル炭素を掴みます。これに対しGilman試薬(R2CuLi)は銅という柔らかい金属に電子が預けられているぶん柔らかい求核剤になっており、柔らかいβ炭素を選びます。「Gilman試薬は1,4-付加」という暗記事項は、柔らかいものは柔らかいものと反応するという一般則の一例にすぎません。

同じ理屈で、チオール RSH やアミンのような柔らかい求核剤もβ炭素を攻撃します。これがMichael付加が成立する理由です。

α,β-不飽和ケトンに対し、硬い求核剤(RMgX)がカルボニル炭素へ1,2-付加、柔らかい求核剤(R2CuLi)がβ炭素へ1,4-付加する分岐を巻矢印つきで対比した図

使いどころ3:SN2での求核性の序列

SN2反応の反応点はsp3炭素、つまり柔らかい求電子剤です。したがって柔らかい求核剤ほど速くなります。

SN2での求核性  RS− > I− > CN− > RO− > OH− > F−
                    ←← 柔らかい          硬い →→

塩基の強さ(共役酸のpKa)  RO− > OH− > CN− > RS− > F− > I−

2つの序列がほぼ逆向きであることに注目してください。求核性(SN2の速さ)と塩基性(プロトンを取る強さ)は別物で、前者は柔らかさ、後者は強さの軸で決まります。プロトンは硬い酸なので硬い塩基が有利、sp3炭素は柔らかい酸なので柔らかい求核剤が有利——同じHSAB則から両方が出てきます。

ただし溶媒の影響も無視できません。プロトン性溶媒中では小さく硬い陰イオンが水素結合で強く囲まれて動けなくなるため、柔らかい求核剤の優位がさらに強調されます。詳細はプロトン性・非プロトン性溶媒を参照してください。

HSAB則の限界

強力な経験則ですが、万能ではありません。使う前に限界を知っておくべきです。

HSAB則で説明できないこと
・定量的な予測はできない。どちらが有利かは言えても、生成比までは出せない
・溶媒効果に負けることがある。特にプロトン性溶媒中の陰イオンは溶媒和で性質が変わる
・立体障害を考慮しない。かさ高い求核剤は硬さ・柔らかさ以前に近づけない
・硬さの定義自体が循環的だという批判もある(「よく結合するから硬い」になりかねない)

実務上の使い方としては、まずHSAB則で当たりをつけ、立体障害・溶媒・熱力学的安定性で補正するという順序が現実的です。とくに二座求核剤の選択性では、速度論支配か熱力学支配かによって結果が入れ替わることがあります(速度論支配と熱力学支配)。

大学院入試での問われ方

HSAB則そのものを説明させる問題より、選択性の理由を説明させる問題として出ます。

  • 「エノラートに対しヨウ化メチルとクロロトリメチルシランで生成物が異なる理由を説明せよ」
  • 「シクロヘキセノンに対し、CH3MgBr と (CH3)2CuLi を作用させたときの主生成物をそれぞれ示せ」
  • 「OH− より弱い塩基である RS− のほうが SN2 で速い理由を述べよ」

いずれも「硬い/柔らかい」という語を使い、どちらの原子(炭素)が硬く、どちらの試薬が柔らかいかを明示して書けば得点になります。静電的な相互作用か軌道的な相互作用かにまで触れられれば十分です。

まとめ

この記事のまとめ
・HSAB則=硬い酸は硬い塩基と、柔らかい酸は柔らかい塩基と結合しやすい。強弱とは別の軸
・硬い組み合わせは静電的に、柔らかい組み合わせは軌道的に安定化する
・カルボニル炭素は硬く、sp3炭素とβ炭素は柔らかい——この区別が予測の起点
・二座求核剤の選択性、1,2-付加と1,4-付加、SN2の求核性序列がこれ1つで説明できる
・定量性・溶媒効果・立体障害は扱えないので、当たりをつける道具として使う

酸と塩基の強さそのものについては酸と塩基の基本で、電子がどちらへ流れるかという見方は求核剤と求電子剤で扱っています。

1,4-付加を実際に担う試薬そのもの(調製法・3つの用途・有機リチウムやグリニャールとの使い分け)はギルマン試薬で扱っています。

よくある質問

HSAB則の「硬い」「柔らかい」とは何が硬いのですか?

電子雲の変形しやすさ(分極のしやすさ)を指します。硬いとは、原子やイオンが小さく電荷密度が高く、外部の電場によって電子雲が変形しにくい状態です。柔らかいとは、大きくて電荷が薄く、電子雲が容易に変形する状態です。結合の硬さや化合物の物理的な硬さとは無関係です。

酸や塩基の「強さ」と「硬さ」はどう違いますか?

強さは電子対をどれだけ強く求めるか、あるいはプロトンをどれだけ強く受け取るかという量の尺度で、pKaで測れます。硬さは相手との相性を決める質の尺度で、結合が静電的に安定化するか軌道的に安定化するかを表します。両者は独立しており、弱いが柔らかい塩基(ヨウ化物イオン)も、強いが硬い塩基(アルコキシドイオン)も存在します。

Gilman試薬が1,4-付加し、Grignard試薬が1,2-付加するのはなぜですか?

α,β-不飽和カルボニル化合物では、カルボニル炭素が硬い求電子剤、β炭素が柔らかい求電子剤として働きます。Grignard試薬の炭素は電荷が濃く硬い求核剤なので硬いカルボニル炭素を攻撃して1,2-付加になります。Gilman試薬は柔らかい銅に電子が預けられた柔らかい求核剤なので、柔らかいβ炭素を攻撃して1,4-付加になります。

エノラートが炭素で反応したり酸素で反応したりするのはなぜですか?

エノラートは酸素とα炭素の両方に負電荷が非局在化した二座求核剤で、電気陰性度の高い酸素側が硬く、炭素側が柔らかくなっています。ヨウ化メチルのような柔らかい求電子剤に対しては柔らかい炭素側が反応してC-アルキル化が起こり、クロロトリメチルシランやプロトンのような硬い求電子剤に対しては硬い酸素側が反応します。

HSAB則はどこまで信用してよいですか?

どちらの経路が有利かという定性的な予測には有効ですが、生成比などの定量的な予測はできません。また、立体障害を考慮しない、プロトン性溶媒中では溶媒和の影響に結果が左右される、といった限界があります。まずHSAB則で当たりをつけ、立体障害・溶媒・速度論支配か熱力学支配かで補正するという使い方が実際的です。

カズ塾有機化学 第1巻「基礎編」第8章 酸と塩基 — 有機化学最強の物差し
・この章のほかの記事:酸と塩基/pKa表の使い方/ルイス酸とルイス塩基
・← 前の章:第7章 分子軌道とフロンティア軌道 / 次の章:第9章 炭素の反応中間体 →
・第1巻の目次をすべて見る