ラセミ体の光学分割|塩法・HPLC・酵素分割と収率50%の壁を超える方法
アキラルな原料からアキラルな試薬で合成すると、生成物は必ずラセミ体になります。2つのエナンチオマーが等量できてしまう。ところがこの2つは、融点も溶解度もクロマトグラフィーでの動きも完全に同じで、ふつうの方法ではどうやっても分けられません。
1848年、パスツールはこの問題に初めて答えを出しました。酒石酸塩の結晶をルーペで観察し、鏡像関係にある2種類の結晶をピンセットで手作業により選り分けたのです。もちろん現代の合成でピンセットは使いません。しかし発想は今も同じで、分けられない相手を、分けられる形に変換するという一点に尽きます。
この記事では、ラセミ体を実際に分ける手段を、原理と限界つきで整理します。なぜ分けられないのかという前提はエナンチオマーの性質で扱っています。
ラセミ体とは——3つのタイプがある
ラセミ体とは、2つのエナンチオマーが等量(1:1)で混ざったものです。旋光が打ち消し合うため旋光度はゼロになり、(±) または (RS) と表記します。
見落とされがちですが、「ラセミ体」は固体になるときに3つの異なる形をとります。どれになるかで、結晶による分割ができるかどうかが決まります。
| タイプ | 結晶の中身 | 割合 | 結晶で分けられるか |
|---|---|---|---|
| ラセミ化合物 | 1つの結晶の中に両方が1:1で規則的に並ぶ | 約90% | できない |
| ラセミ混合物(集合体) | 片方だけの結晶が2種類でき、混ざっている | 約5∼10% | できる(パスツール法・優先晶析) |
| ラセミ固溶体 | 両方がランダムに混ざって結晶化 | まれ | できない |
方法1:ジアステレオマー塩法——最も標準的
エナンチオマーは分けられないが、ジアステレオマーなら融点も溶解度も違うので分けられる。ならばいったんジアステレオマーに変えてしまえばよい——これが光学分割の中心的な発想です。
① ラセミ体のカルボン酸 (R)-A + (S)-A
+ 光学活性な塩基 (R)-B ← キラルな相手を持ち込む
↓
② 2つの塩 (R)-A·(R)-B と (S)-A·(R)-B
↑ この2つはジアステレオマー=溶解度が違う
↓
③ 分別再結晶 → 片方の塩だけが先に析出
↓
④ 酸で処理して塩基を外す → 光学的に純粋な (R)-A
ポイントは②です。(R)-A と (S)-A は鏡像どうしでしたが、同じ (R)-B と組ませると、できた塩はもはや鏡像関係ではありません(一方は R,R、他方は S,R)。鏡像でない立体異性体=ジアステレオマーなので、溶解度に差が生まれ、再結晶で分かれます。
よく使われる分割剤
| 分けたいもの | 使う分割剤 |
|---|---|
| ラセミのカルボン酸 | 光学活性なアミン=ブルシン、シンコニジン、(R)-1-フェニルエチルアミン |
| ラセミのアミン | 光学活性な酸=酒石酸、ジベンゾイル酒石酸、マンデル酸、カンファースルホン酸 |
| ラセミのアルコール | 塩をつくれないので、キラルな酸とエステル化して共有結合のジアステレオマーにする |
方法2:キラルHPLC——環境そのものをキラルにする
固定相にキラルな分子(シクロデキストリン、セルロース誘導体、キラルなアミド類など)を結合させたカラムを使う方法です。エナンチオマーと固定相の相互作用がジアステレオマー的な関係になるため、保持時間に差が生まれて分かれます。
- 長所:化学変換が不要で、分析にもそのまま使える。ee の測定は現在これが標準
- 短所:カラムが高価で、処理量が限られる。大量合成には向かない
方法3:酵素を使う——速度論的分割
リパーゼなどの酵素は、片方のエナンチオマーだけを速く反応させます。たとえばラセミのアルコールに酵素とアシル化剤を作用させると、片方だけがエステルになり、もう片方は未反応のアルコールとして残ります。エステルとアルコールは官能基が違うので、ふつうのカラムで分離できます。
動的速度論的分割(DKR)——壁を越える
50%の壁を破る方法があります。反応していないほうを、系中で絶えずラセミ化させ続けるのです。
反応しないほうが常にラセミ化して供給され続けるので、原理的にはすべてを目的のエナンチオマーに変換できます。ラセミ化の速度が酵素反応より十分速いことが成立条件です。
方法4:そもそもラセミ体を作らない——不斉合成
分けるのではなく、最初から片方だけを作るという戦略です。分割が「作ってから半分捨てる」のに対し、こちらは無駄が出ません。
考え方の全体像はエナンチオ選択的合成でもまとめています。
| 手法 | 考え方 |
|---|---|
| キラルプール | 天然の光学活性体(アミノ酸・糖・テルペン)を出発物に使う |
| 不斉補助基 | キラルな基を一時的に付けて立体を制御し、あとで外す |
| 不斉触媒 | キラルな触媒を少量使い、大量の基質を片方へ導く。最も効率がよい |
方法の選び方
| 目的 | 向いている方法 |
|---|---|
| ee を測りたい(分析) | キラルHPLC・キラルGC |
| 研究室で数百 mg 欲しい | キラルHPLC分取、酵素的分割 |
| キロ単位で作りたい | ジアステレオマー塩法、DKR |
| 無駄なく作りたい | 不斉触媒による合成 |
大学院入試での問われ方
- 「ラセミ体のカルボン酸を光学分割する方法を、反応式とともに説明せよ」……塩法の4段階を書く
- 「なぜジアステレオマーにすると分離できるのかを述べよ」……物性が異なるから
- 「速度論的分割の理論収率が50%を超えない理由と、それを超える方法を述べよ」
- 「パスツールの方法が一般に適用できない理由を説明せよ」……ラセミ混合物は約1割
記述では、「エナンチオマー=分けられない/ジアステレオマー=分けられる」という対比を明示してから手順に入ると、論理が通って高得点になります。
まとめ
旋光度から ee を計算する手順は比旋光度の求め方、キラリティーの判定そのものはキラリティーの基本で扱っています。
よくある質問
ラセミ体の約9割はラセミ化合物と呼ばれるタイプで、1つの結晶格子の中に両方のエナンチオマーが1対1で規則的に組み込まれているためです。この場合、結晶そのものが両者を含むので、何度再結晶しても分かれません。結晶で分けられるのは、それぞれのエナンチオマーが別々の結晶をつくるラセミ混合物の場合だけで、これは全体の1割程度しかありません。
ラセミ体に光学活性な相手を1種類だけ加えると、生じる2つの塩が鏡像関係ではなくなるからです。たとえばR体とS体の酸に同じR体の塩基を作用させると、R,Rの塩とS,Rの塩ができます。この2つはジアステレオマーであり、溶解度や融点が異なるため分別再結晶で分けられます。分離後に酸や塩基で処理すれば、塩基を外して純粋なエナンチオマーが得られます。
出発物のラセミ体には目的のエナンチオマーが半分しか含まれておらず、酵素などの触媒はその半分だけを選択的に反応させるからです。残り半分は反応しないまま残るため、目的物として取り出せるのは最大でも全体の50%になります。反応しなかったほうを系中で絶えずラセミ化させる動的速度論的分割を用いれば、この制限を超えて理論上100%まで変換できます。
同じとは限りません。エナンチオマーどうしの融点は互いに等しくなりますが、ラセミ体は結晶格子の組み方が純粋なエナンチオマーと異なるため、融点も溶解度も別の値になります。ラセミ化合物では純エナンチオマーより融点が高くなる場合も低くなる場合もあります。エナンチオマー間で物性が同一であることと、ラセミ体の物性が純品と同じであることは別の話です。
必要な量と目的によります。分析用に少量のエナンチオマーを分けたいだけならキラルHPLCが手軽で、工業規模で安価に作るならジアステレオマー塩法が現在も主力です。一方、光学分割は原理的に半分を捨てることになるため、大量生産で無駄を避けたい場合は不斉触媒による合成が有利です。実際の製造では、基質の入手性とコストを見て使い分けられています。
