エタノール CH3CH2OH の CH2 にある2つの水素は、構造式の上では区別がつきません。どちらも同じ炭素についた、ただの水素に見えます。

ところが酵母のアルコールデヒドロゲナーゼは、この2つのうち決まった片方だけを引き抜きます。同じに見える水素を、酵素は間違いなく見分けているのです。さらにNMRでは、分子の作りによってはこの2つの水素が別々のシグナルとして現れます。

「同じに見えるが実は別物」という状況を扱うのがプロキラリティーの考え方です。分子自体はまだキラルでなくても、その中にはすでに区別が存在している——これが分かると、酵素の立体選択性もNMRの不可解な分裂も同じ一枚の絵で説明できます。

この記事で学ぶこと
・ホモトピック・エナンチオトピック・ジアステレオトピックの見分け方
・pro-R と pro-S の決め方(置き換えてR/Sを見るだけ)
・sp2平面の re 面と si 面の判定
・ジアステレオトピックな水素がNMRで分裂するという実験的帰結

プロキラリティーとは

プロキラル(prochiral)とは、1回の置き換えでキラルになれる状態を指します。

たとえばエタノールの C1 は、H・H・CH3・OH の4つがついています。同じ基(H)が2つあるので不斉炭素ではありません。しかしそのうち片方の H を D(重水素)に替えるだけで、4つの基がすべて異なる不斉炭素になります。このような炭素をプロキラル中心と呼びます。

エタノールのCH2の水素の片方を重水素Dに置き換えると、プロキラル中心が4つの基がすべて異なるキラルな不斉炭素になることを示す構造式

つまりプロキラリティーとは、キラリティーの一歩手前を表す概念です。そして重要なのは、一歩手前の段階ですでに2つの同じ基が対等ではないことがある、という点です。

3つの関係——同一・鏡像・それ以外

分子内の「同じに見える2つの基」は、次の3つのどれかに分類されます。判定は片方を別の基に置き換えて、できた2つの分子の関係を見るだけです。

関係 置き換えてできる2分子 対称要素 区別されるか
ホモトピック まったく同じ分子 回転軸(Cn)で移り合う されない(本当に等価)
エナンチオトピック エナンチオマー 鏡面(σ)で移り合う キラルな環境でのみ
ジアステレオトピック ジアステレオマー どちらでも移り合わない 常にされる

それぞれの例

  • ホモトピック……メタン CH4 の4つの水素、ベンゼンの6つの水素。分子を回せば互いに重なります。
  • エナンチオトピック……エタノールの CH2 の2つの水素。片方をDにすると (R)体、もう片方をDにすると (S)体ができます。
  • ジアステレオトピック……分子内にすでに不斉中心があるときの CH2 の2つの水素。たとえば (S)-2-ブタノールの C3 の2つの水素は、片方を置き換えると (S,R)体、他方だと (S,S)体になり、両者はジアステレオマーです。

同じに見える2つの水素の一方をDに置き換え、できた2分子の関係(同一=ホモトピック/鏡像=エナンチオトピック/ジアステレオマー=ジアステレオトピック)を3列で比較し、それぞれの判定に使う対称要素と「区別されるか」を対応づけた判定フロー図

ジアステレオトピックはNMRで見える

この分類が机上の話でないのは、NMRにそのまま現れるからです。

NMRでの帰結
・ホモトピック……必ず等価。1本のシグナル
・エナンチオトピック……ふつうの(アキラルな)溶媒では等価。1本
・ジアステレオトピック……化学シフトが異なり、別々のシグナルになる

しかもジアステレオトピックな2つの水素は互いに結合(ジェミナルカップリング)するため、それぞれが二重線に分裂します。CH2 なのに2Hの単純なシグナルにならず、複雑な形になるのはこのためです。

実験でよく出会う例が、不斉中心の隣にあるイソプロピル基です。2つのメチル基が等価に見えるのに、NMRでは2本の二重線として現れる——これはメチル基どうしがジアステレオトピックだからです。「不純物が混ざった」と誤解しやすいところなので、構造から予測できるようにしておくと強力です。

覚えておくと速い見分け方
・分子内のどこかに不斉中心があるかを先に見る
・あれば、CH2 の2つのHや gem-ジメチルはジアステレオトピックを疑う
・不斉中心がなく、鏡面で移り合うならエナンチオトピック(NMRでは等価)

pro-R と pro-S の決め方

エナンチオトピックな2つの基を呼び分ける記号が pro-R / pro-S です。決め方は単純です。

判定の手順
・2つの同じ基のうち一方を「わずかに優先順位が高い」と仮に決める
・その状態で通常どおりR/S を判定する
・結果が R なら、いま優先した基が pro-R
・結果が S なら pro-S。もう片方が自動的に相手側になる

エタノールの C1 を例にすると、2つの水素のうち一方を優先して見たときに R 配置になれば、その水素が pro-R(HR)、残りが pro-S(HS)です。

この記法があるおかげで、「アルコールデヒドロゲナーゼはエタノールの pro-R 水素を引き抜く」というように、酵素の立体選択性を一意に記述できます。

re 面と si 面——平面のどちら側から攻めるか

プロキラリティーは炭素だけの話ではありません。カルボニルやアルケンのようなsp2平面にも、表と裏の区別があります。

re / si の判定
・sp2炭素についた3つの基にCIP順位則で順位をつける
・その面の側から見て 1 → 2 → 3 が時計回りなら re 面
・反時計回りなら si 面
・R/S の判定と同じ回り方の規則だが、最下位を奥に向ける操作は不要

アセトアルデヒド CH3CHO のカルボニル炭素は sp2 で平面です。この平面に求核剤が上から近づくか下から近づくかで、生成するアルコールの立体が変わります。re 面を攻撃すればS体、si 面ならR体というように、どちらの面を選ぶかが生成物の絶対配置を決めます。

不斉合成とは、つきつめればどちらの面を攻撃させるかを制御する技術です。キラルな触媒や補助基は、片方の面を覆い隠して、もう一方からしか攻撃できないようにしています。

生体はプロキラリティーを見分けている

クエン酸とアコニターゼ

クエン酸は左右対称に見える分子で、中心炭素から同じ CH2COOH の腕が2本出ています。ところがアコニターゼはそのうち決まった片方だけを反応させます。

この一見不思議な事実は、1948年にOgstonが3点結合で説明しました。酵素が基質を3か所で捉えると、2本の腕は酵素の上で別々の位置に来ます。分子そのものは対称でも、非対称な酵素の上では対等でなくなるのです。これはエナンチオトピックな基が「キラルな環境でのみ区別される」ことの、そのままの実例です。

NADH の水素

補酵素NADHがヒドリドを渡すとき、C4位にある2つの水素のうちどちらを渡すかは酵素ごとに決まっています。pro-R を渡す酵素と pro-S を渡す酵素があり、重水素で標識した実験によって区別されました。生体反応の立体化学を追跡する研究は、この記法なしには成立しません。

大学院入試での問われ方

  • 「次の化合物の CH2 の2つの水素は、ホモトピック・エナンチオトピック・ジアステレオトピックのどれか」
  • 「ジアステレオトピックな2つのプロトンがNMRで別のシグナルとして観測される理由を述べよ」
  • 「pro-R水素を図中で示せ」
  • 「カルボニル平面の re 面への求核攻撃で生じる生成物の絶対配置を答えよ」

判定問題は「片方を置き換えて、できた2分子の関係を見る」という手順を機械的に踏めば必ず解けます。頭の中だけで済ませず、実際に置き換えた2つの構造を書き出すのが確実です。

アキラルな分子からキラルな生成物が生まれるとき、ふつうは両方の鏡像が等量できます。これを片方だけにしてしまう反応が硤合反応です。硤合反応の機構でその仕組みを解説しています。

まとめ

この記事のまとめ
・プロキラル=1回の置き換えでキラルになれる状態
・判定は片方を置き換えて、できた2分子の関係を見るだけ
・同じ=ホモトピック/鏡像=エナンチオトピック/ジアステレオマー=ジアステレオトピック
・ジアステレオトピックな水素はNMRで別シグナルになる(不斉中心が近くにあるとき)
・sp2平面には re 面と si 面があり、どちらを攻撃するかが絶対配置を決める

キラリティーそのものの判定はキラリティーの基本、エナンチオマーがキラルな環境でのみ区別されるという原則はエナンチオマーの性質で扱っています。

よくある質問

プロキラルとキラルはどう違いますか?

キラルは分子そのものが鏡像と重ね合わせられない状態を指し、プロキラルはまだキラルではないが1回の置き換えでキラルになれる状態を指します。たとえばエタノールの1位の炭素は水素を2つ持つため不斉炭素ではありませんが、片方の水素を重水素に替えるだけで4つの基がすべて異なる不斉炭素になります。このような炭素をプロキラル中心と呼びます。

エナンチオトピックとジアステレオトピックはどう見分けますか?

2つの同じ基のうち片方を別の基に置き換え、できた2つの分子の関係を調べます。互いに鏡像関係のエナンチオマーになればエナンチオトピック、鏡像ではないジアステレオマーになればジアステレオトピックです。実務上の目安として、分子内にすでに不斉中心がある場合はジアステレオトピックになることが多く、不斉中心がなく鏡面で移り合う場合はエナンチオトピックです。

同じCH2の2つの水素がNMRで別のシグナルになるのはなぜですか?

その2つの水素がジアステレオトピックだからです。ジアステレオトピックな核は化学的に等価ではなく、置かれた立体的・電子的環境が異なるため化学シフトが違います。さらに両者は互いにジェミナルカップリングするので、それぞれが分裂して複雑な形になります。分子内に不斉中心があるときに起こりやすく、不純物の混入と誤解しやすい現象です。

pro-Rとpro-Sはどうやって決めますか?

2つの同じ基のうち一方を仮に優先順位が高いものとみなし、その状態で通常どおりR/S判定を行います。結果がR配置になれば、いま優先させた基がpro-Rであり、もう一方がpro-Sです。結果がS配置ならその逆になります。仮の優先順位をつけて判定するだけなので、CIP順位則を使ったR/S判定ができれば特別な手順は必要ありません。

re面とsi面はどのように判定しますか?

sp2炭素についた3つの基にCIP順位則で優先順位をつけ、判定したい側の面から見て順位1から3へたどります。時計回りに見えればre面、反時計回りならsi面です。R/S判定と同じ回り方の規則を使いますが、最下位の基を奥へ向ける操作は不要です。どちらの面を求核剤が攻撃するかで生成物の絶対配置が決まるため、不斉合成では面の制御が中心的な課題になります。

カズ塾有機化学 第1巻「基礎編」第13章 光学活性と不斉
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