結合解離エネルギー|C-H結合のBDE表で塩素化・臭素化の選択性を読む
「ラジカルの安定性は第三級 > 第二級 > 第一級 > メチル」——教科書に必ず出てくる順序です。ではなぜそう言えるのでしょうか。カルボカチオンと違って、ラジカルには電荷がありません。安定性を議論する根拠はどこにあるのでしょう。
答えは測定値にあります。結合解離エネルギー(BDE)という実測量が、ラジカルの安定性をそのまま数値で示してくれます。順序は理屈から導いたものではなく、測った結果です。
さらにBDEは、反応が発熱か吸熱かの見積もりにも使えます。この記事では、この数値の読み方と使い方に絞って扱います。ラジカルがどう生まれ、どう連鎖するかはラジカルを参照してください。
BDEとは——「均等に切る」ときのエネルギー
結合解離エネルギーとは、結合を均等開裂(ホモリシス)させるのに必要なエネルギーです。電子を1個ずつ分け合って、2つのラジカルにします。
均等開裂(ホモリシス) A–B → A· + ·B ← これがBDE 不均等開裂(ヘテロリシス) A–B → A+ + B− ← 別の量(イオン化)
C–H結合のBDEがラジカルの安定性を映す
いろいろな C–H 結合のBDEを測ると、次のようになります(単位 kJ/mol)。
| 切る結合 | BDE | できるラジカル | 安定性 |
|---|---|---|---|
| CH3–H | 439 | メチル | 最も不安定 |
| 第一級 C–H | 421 | 第一級 | |
| 第二級 C–H | 410 | 第二級 | |
| 第三級 C–H | 400 | 第三級 | 安定 |
| ベンジル C–H | 375 | ベンジル | 共鳴で安定 |
| アリル C–H | 369 | アリル | 最も安定 |
| ビニル C–H | 465 | ビニル | 非常に不安定 |
つまり「第三級ラジカルが安定」という順序は、400 < 410 < 421 < 439 という測定値そのものです。理屈で覚えるのではなく、数値の裏づけがあると理解しておくと、初見の構造でも判断できます。
BDEから反応熱を見積もる
BDEの本領はここです。切れる結合と、できる結合を引き算するだけで、反応のエンタルピー変化が概算できます。
ΔH ≈ (切れる結合のBDEの合計) − (できる結合のBDEの合計) 結合を切るにはエネルギーが要る(+) 結合ができるとエネルギーが出る(−)
計算例:メタンの塩素化
切れる: CH3–H 439 + Cl–Cl 243 = 682 できる: CH3–Cl 351 + H–Cl 431 = 782 ΔH = 682 − 782 = −100 kJ/mol → 発熱反応
この計算に必要なのは表を引く作業だけで、実験も難しい理論も要りません。合成を計画するとき、その変換が熱力学的に無理筋でないかを確かめる最初の道具になります。
選択性がBDEで説明できる——塩素化と臭素化
ラジカルハロゲン化では、塩素は水素をどこからでも引き抜くのに、臭素は第三級の水素を選んで引き抜きます。この違いもBDEから出てきます。
連鎖成長の第1段階、ハロゲンラジカルによる水素引き抜きだけを取り出して計算します。
| 引き抜く相手 | Cl·(H–Cl 431) | Br·(H–Br 366) |
|---|---|---|
| メチル C–H(439) | +8 kJ/mol | +73 kJ/mol |
| 第三級 C–H(400) | −31 kJ/mol | +34 kJ/mol |
| 性格 | ほぼ発熱=簡単 | どれも吸熱=難しい |
ここでハモンドの仮説が効きます。
反応が難しいほど選択性が高くなる——直感に反しますが、遷移状態がどちらに似るかで考えると必然です。
BDEでわからないこと
- 反応の速さは分からない。 BDEは熱力学量(ΔH)であって、活性化エネルギーではありません。発熱でも遅い反応はあります
- イオン反応には使えない。 均等開裂の値なので、極性反応の議論には向きません(そちらはpKaを使います)
- 溶液中の値ではない。 気相の測定値なので、溶媒和が効く系ではずれます
- エントロピーを含まない。 分子数が変わる反応では ΔG と乖離します
使いどころは明確で、ラジカル反応の熱力学的な当たりをつけるときです。イオン反応にはpKa、ラジカル反応にはBDE——道具を使い分けてください。
大学院入試での問われ方
- 「BDEの表を用いて次の反応のΔHを求めよ」……切れる合計 − できる合計
- 「ラジカルの安定性の順序をBDEの観点から説明せよ」……BDEが小さいほど安定
- 「臭素化が塩素化より選択的である理由を述べよ」……吸熱+ハモンド
- 「アリル位のC–H結合のBDEが小さい理由を述べよ」……共鳴による非局在化
まとめ
ラジカルの生成と連鎖反応はラジカル、カルボアニオン(カルバニオン)の安定性はカルボアニオンの安定性で扱っています。
よくある質問
結合電子を1個ずつ分け合う均等開裂、すなわちホモリシスを指します。生じるのは2つのラジカルです。片方が電子対を持ち去ってイオンになる不均等開裂は別の現象で、その値をBDEと呼ぶことはありません。そのためBDEはラジカル反応の議論には使えますが、イオン反応の有利不利を論じる目的には適しません。
どのC-H結合を切っても外れるのは同じ水素原子なので、BDEの差はすべて残された炭素側のラジカルの安定性の差を反映するからです。第三級のC-H結合が400kJ/molとメチルの439kJ/molより小さいのは、生じる第三級ラジカルのほうが安定でエネルギーが低いためです。アリル位が369kJ/molとさらに小さいのは、共鳴によって不対電子が非局在化するからです。
切れる結合のBDEをすべて足し、できる結合のBDEをすべて足して、前者から後者を引きます。結合を切るにはエネルギーが必要で、結合ができるとエネルギーが放出されるためです。たとえばメタンの塩素化では、切れる側が439と243で682、できる側が351と431で782となり、差し引き−100kJ/molの発熱反応と見積もれます。
臭素ラジカルによる水素引き抜きが吸熱的だからです。吸熱反応ではハモンドの仮説により遷移状態が生成物すなわちラジカルに似た構造をとるため、ラジカルの安定性の差がそのまま反応速度の差となって現れ、安定な第三級ラジカルを与える経路が選ばれます。塩素化は発熱的で遷移状態が反応物に似るため、安定性の差が速度に反映されず非選択的になります。
分かりません。BDEはエンタルピー変化を表す熱力学量であり、反応の速さを決める活性化エネルギーとは別の量だからです。発熱的な反応であっても活性化障壁が高ければ遅くなります。またBDEは気相での測定値なので、溶媒和が大きく効く溶液反応ではずれが生じ、分子数が変化する反応ではエントロピーを含まないぶん自由エネルギー変化とも乖離します。
