炭素の手は4本——そう習ってきたはずです。ところが手が2本しかない中性の炭素が存在します。カルベンです。

オクテット則を満たしていないので、当然ながら猛烈に反応します。しかしカルベンが面白いのは反応性の高さではなく、同じ分子式なのに電子の入り方が2通りあり、どちらで反応したかによって生成物の立体化学が変わる点にあります。

つまり生成物を見れば、目に見えないはずの中間体の電子状態が分かる。この記事では、そこまで読めるようにします。

この記事で学ぶこと
・一重項カルベンと三重項カルベンの電子配置と結合角
・置換基がスピン状態を決める仕組み
・生成物の立体化学からスピン状態を判定する方法
・生成法と、遊離カルベンではない「カルベノイド」との区別
・瓶に詰められる安定なカルベン(NHC)が成立する理由

カルベンとは——価電子6個の中性炭素

カルベンは、置換基を2つだけ持ち、価電子が6個しかない中性の炭素化学種です(:CR2)。炭素上に電子が2個余っていて、それがどう配置されるかが以後すべてを決めます。

カルボカチオン(価電子6・正電荷)やカルボアニオン(カルバニオンとも、価電子8・負電荷)と違い、カルベンは電荷を持たないまま価電子が足りていないのが特徴です。窒素で同じことが起きたものがナイトレンで、両者は等電子的な関係にあります。

一重項と三重項——余った2個の電子の置き方

余った2電子の入れ方には2通りあります。同じ軌道に対で入るか、別々の軌道に1個ずつ入るかです。

一重項カルベン 三重項カルベン
電子配置 sp2 軌道に2電子が対で。p 軌道は空 sp2 軌道と p 軌道に1個ずつ(平行スピン)
結合角(:CH2) 約 102° 約 136°(直線ではない)
性格 空の p 軌道を持つ求電子剤(かつ孤立電子対も持つ) ジラジカルのようにふるまう
反応の進み方 協奏的(1段階) 段階的(ジラジカル中間体を経る)
「三重項カルベンは直線・sp 混成」は誤り。三重項メチレンの結合角は約 136° で、直線の 180° とは明確に違います。一重項より広がるのは、p 軌道に入った不対電子どうしの反発が対電子ほど強くないためで、広がるだけで直線にはなりません。試験でこの誤りを書くと減点されます。

一重項カルベンではsp2軌道に電子対が入りp軌道が空であること、三重項カルベンではsp2軌道とp軌道に不対電子が1個ずつ平行スピンで入ることを軌道図で対比し、結合角102度と136度の違いもあわせて示す

メチレン :CH2 の基底状態は三重項で、一重項より約 38 kJ/mol 低い位置にあります。フント則がそのまま効いた結果です。

置換基がスピン状態を決める

ところが実験室で使うカルベンの多くは一重項です。置換基が電子状態をひっくり返すからです。

置換基 効き方 基底状態 例
孤立電子対を持つ
(N・O・ハロゲン)
空の p 軌道へ電子を流し込むので、p 軌道が持ち上がる → 2電子とも sp2 に落ち着く 一重項 :CCl2・:CBr2・NHC
孤立電子対を持たない
(H・アルキル・アリール)
p 軌道を持ち上げる働きがない → 2つの軌道が近いまま 三重項 :CH2・:CPh2

判断の軸は1つです。空の p 軌道に電子を供給できる置換基が付いているか。供給できるなら一重項、できないなら三重項——これで大半の設問に答えられます。共鳴による電子供与の考え方そのものは誘起効果と共鳴効果で扱っています。

立体化学がスピン状態を教えてくれる

ここが本題です。カルベンは単離できませんが、アルケンに付加させて生成物の立体を見れば、どちらのカルベンだったかが分かります。

cis-2-ブテンにカルベンを付加させる

 一重項 → 2本の結合が同時にできる(協奏的)
        → 回る暇がない → cis-ジメチルシクロプロパンのみ(立体特異的)

 三重項 → まず1本だけ結合してジラジカルになる
        → 環を閉じるにはスピンの向きをそろえる必要がある
        → その待ち時間に単結合が回ってしまう
        → cis と trans が混ざる

シス2-ブテンへのカルベン付加。一重項では2本の結合が同時にできて立体が保持され、三重項ではジラジカル中間体を経てスピン反転を待つあいだに単結合が回転し、シスとトランスが混ざることを対比して示す

なぜ三重項は待たされるのか
・三重項は2つの不対電子が平行スピン。そのままでは新しい結合(対になった電子2個)を作れない
・結合を完成させるには片方のスピンが反転する必要があり、これは遅い過程
・その間に C−C 単結合が回転してしまう → 立体情報が失われる
・つまり立体が保持されれば一重項、混ざれば三重項

この判定法は提案者の名前をとってスケルの規則と呼ばれます。シクロプロパン化という反応そのものはカルベンの付加とシクロプロパン合成で扱っています。

どうやって作るか

方法 具体例 メモ
α脱離 CHCl3 + KOH → :CCl2 同じ炭素から H と Cl が抜ける。β脱離との対比で問われる
ジアゾ化合物の分解 CH2N2 → :CH2 + N2 熱または光。窒素が抜ける駆動力が大きい
トシルヒドラゾンから バンフォード–スティーブンス反応 ケトンを出発点にできる
カルベノイド CH2I2 + Zn(Cu)(シモンズ–スミス) 遊離カルベンではない。金属に結合したまま働く
「カルベノイド」は遊離カルベンと区別する。シモンズ–スミス反応や金属触媒反応では、カルベンは金属から離れません。そのため常に立体特異的で、スケルの規則による判定の対象外です。答案で「三重項かもしれない」と書くと誤りになります。

何をするか——3つの型

カルベンの反応は、「空いている手を埋めに行く」の一言でまとめられます。

① π結合へ付加:アルケンに入ってシクロプロパンになる
② σ結合へ挿入:C−H 結合に割り込む。一重項なら協奏的で立体保持
③ 自分自身が転位する:α-ジアゾケトンから生じたカルベンはウォルフ転位でケテンになる(アーント–アイステルト合成の中核。カルボン酸を炭素1つ伸ばせる)

瓶に詰められるカルベン——NHC

カルベンは一瞬で消える中間体——長らくそう考えられていましたが、1991年に結晶として単離できるカルベンが報告されました。NHC(N-ヘテロ環式カルベン)です。

安定な理由は、両隣の窒素が2つの仕事を同時にしていることにあります。

窒素の二重の働き
・π供与:孤立電子対を空の p 軌道へ流し込み、電子不足を埋める
・σ吸引:電気陰性度で sp2 軌道の電子対を引きつけ、安定に保つ
・さらにかさ高い置換基がカルベンどうしの二量化を物理的に防ぐ
・結果として一重項が決定的に有利になり、取り出せるほど安定になる

NHCにおいて、両隣の窒素の孤立電子対が空のp軌道へ流れ込むパイ供与と、電気陰性度によるシグマ吸引という2つの働きが同時に効いて一重項カルベンが安定化されることを示す

NHC はいまや強力なσ供与配位子として、第2世代グラブス触媒をはじめとする多くの金属錯体に組み込まれています。加えて有機触媒としても働き、ベンゾイン縮合ではアルデヒドの極性を反転させる(極性転換)役割を担います。

金属カルベン——2つの型

金属に結合したカルベンは、金属の性質によって性格が正反対になります。

フィッシャー型 シュロック型
金属 後周期・低酸化数(Cr・Mo・W) 前周期・高酸化数(Ti・Ta・Ru)
カルベン炭素 求電子的(ヘテロ原子が付く) 求核的
代表的な用途 ダッツ反応などの合成 オレフィンメタセシス

大学院入試での問われ方

「cis-2-ブテンから cis 体のみが得られた。カルベンの状態を述べよ」
      → 一重項。協奏的付加で回転する暇がないため

「生成物が cis と trans の混合物だった理由を述べよ」
      → 三重項。ジラジカル中間体でスピン反転を待つ間に単結合が回転する

「:CCl2 が一重項である理由を述べよ」
      → 塩素の孤立電子対が空の p 軌道へ供与し、p 軌道が持ち上がるため

「三重項メチレンの構造を答えよ」
      → 約136° の折れ線。直線ではない

「シモンズ—スミス反応が常に立体特異的な理由を述べよ」
      → 遊離カルベンではなくカルベノイド(亜鉛に結合したまま反応)だから

まとめ

この記事のまとめ
・カルベンは価電子6個・中性・二価の炭素。余った2電子の置き方で性格が決まる
・一重項=sp2 に電子対+空の p、約102°、協奏的
・三重項=不対電子2個、約136°の折れ線(直線ではない)、ジラジカル的
・孤立電子対を持つ置換基が付けば一重項(:CCl2・NHC)、なければ三重項
・立体が保持されれば一重項、混ざれば三重項(スケルの規則)
・カルベノイドは遊離カルベンではないので、常に立体特異的
・NHC は窒素のπ供与とσ吸引で安定化され、単離できるうえ配位子・有機触媒として働く

同じ論理が窒素でも成り立ちます。手が1本しかない中性の窒素——ナイトレンへ続きます。

よくある質問

カルベンとは何ですか?

置換基を2つだけ持ち、価電子が6個しかない中性の炭素化学種です。オクテット則を満たしていないため反応性がきわめて高く、単離できない反応中間体として扱われます。炭素上に余った2個の電子が同じ軌道に対で入る一重項と、別々の軌道に1個ずつ入る三重項の2つの状態があり、どちらであるかで反応の進み方が変わります。

一重項カルベンと三重項カルベンはどう違いますか?

一重項ではsp2軌道に2電子が対で入り、p軌道が空のまま残るため、求電子剤として協奏的に反応します。結合角は約102度です。三重項ではsp2軌道とp軌道に不対電子が1個ずつ平行スピンで入り、ジラジカルのようにふるまって段階的に反応します。結合角は約136度で、直線ではない点に注意してください。

生成物の立体化学からカルベンの状態が分かるのはなぜですか?

三重項カルベンは2つの不対電子のスピンが平行なので、そのままでは結合を完成できず、片方のスピンが反転するのを待つ必要があるからです。この待ち時間のあいだに単結合が回転してしまい、立体情報が失われます。一重項では2本の結合が同時にできて回転する余地がないため立体が保持されます。したがって立体が保たれていれば一重項、混ざっていれば三重項と判定できます。

ジクロロカルベンが一重項になるのはなぜですか?

塩素が持つ孤立電子対が、カルベン炭素の空のp軌道へ電子を供与するためです。p軌道にいくらか電子が入ることでそのエネルギーが持ち上がり、2つの軌道の差が開きます。すると余った2電子は低いsp2軌道に対で収まるほうが有利になり、一重項が基底状態になります。窒素や酸素が置換した場合も同じ理由で一重項になります。

NHCが瓶に詰められるほど安定なのはなぜですか?

両隣の窒素が2つの働きを同時にしているためです。窒素の孤立電子対が空のp軌道へ流れ込んで電子不足を埋め、同時に電気陰性度によってsp2軌道の電子対を引きつけて安定に保ちます。さらにかさ高い置換基がカルベンどうしの二量化を物理的に妨げます。その結果、一重項が決定的に有利となり、結晶として単離できるほど安定になります。

カズ塾有機化学 第1巻「基礎編」第10章 そのほかの活性種
・この章のほかの記事:ベンザイン機構/ナイトレン
・← 前の章:第9章 炭素の反応中間体 / 次の章:第11章 配座 — 結合は回る →
・第1巻の目次をすべて見る