1994年2月、Nature 誌に一報の論文が載った。タイトルはただ一言、“Total synthesis of taxol”。抗がん剤タキソールは、太平洋イチイの樹皮からしか採れず、患者ひとり分を作るのに樹齢100年の木が数本必要だと言われていた分子である。6員環・8員環・6員環が縮環し、そこに4員環のオキセタンが橋を架け、11個の不斉炭素が絡み合う。「この分子は合成できない」と、多くの化学者が半ば本気で口にしていた。

その論文の責任著者が K・C・ニコラウ(Kyriacos Costa Nicolaou)である。キプロスの小さな村に生まれ、18歳まで化学とほとんど縁がなかった青年は、やがてタキソール・カリケアマイシン・ブレベトキシンB・エポチロン・バンコマイシンという、当時の「合成不可能リスト」をひとつずつ消していく研究者になった。

だが彼を有機化学史に残したのは、標的の数だけではない。ニコラウは全合成を「登山」から「新しい反応と新しい薬をつくるための工学」へと定義し直した。エンジインがなぜDNAを切るのかを分子模型の距離から予言し、エポチロンのアナログを固相合成でライブラリ化し、そして『Classics in Total Synthesis』という本で、世界中の学生に全合成の読み方を教えた。この記事では、その仕事を反応機構のレベルまで降りて追いかける。

この記事で学ぶこと
・タキソールの 6-8-6+オキセタン骨格を、Shapiro反応とMcMurryカップリングでどう閉じたか
エンジインが Bergman 環化で 1,4-ベンゼンジイルジラジカルを生み、DNAを二本鎖切断する機構
・カリケアマイシンのトリスルフィド・トリガーと「cd距離」という設計原理
・ブレベトキシンBに代表されるラダーポリエーテル合成の考え方
・エポチロン合成で RCM・Suzukiカップリング・山口マクロラクトン化が果たした役割
・全合成は何の役に立つのか——ニコラウ自身の答え

生涯と略歴——キプロスの村から分子の極限へ

K・C・ニコラウは1946年7月5日、キプロス島北部のカラヴァスという小さな村に生まれた。18歳までキプロスで育ち、地元の学校に通っている。化学者になる兆しがあったわけではない。1964年に単身イギリスへ渡り、まず2年間を英語の習得と大学進学準備に費やしたという経歴が、彼の出発点を物語っている。

ロンドン大学ベッドフォード・カレッジで1969年に第一級優等の理学士号を取得。続いてユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の大学院に進み、1972年に F・ゾンドハイマー(Franz Sondheimer)と P・J・ギャラットの指導で博士号を取得した。ゾンドハイマーはアヌレン(環状共役ポリエン)とアセチレン化学の大家である。後年ニコラウが「三重結合が2つ並んだ分子」=エンジインの反応性に人並外れた嗅覚を発揮するのは、この師の下で不安定なアセチレン類を扱い続けた経験と無縁ではない。

1972年に渡米し、コロンビア大学(T・J・カッツ、1972–73)、次いでハーバード大学で E・J・コーリーのもとポスドクを務めた(1973–76)。コーリーは逆合成解析を体系化した人物であり、ニコラウはここで「複雑な分子を戦略的に切る」思考法を身につける。

1976年にペンシルベニア大学の教員となり、1989年にスクリプス研究所(カリフォルニア州ラホヤ)へ移籍、化学部門長・ダーリーン・シャイリー記念教授として、同時にカリフォルニア大学サンディエゴ校教授を兼任した。ここでタキソール・カリケアマイシン・ブレベトキシン・エポチロン・バンコマイシンという主要な仕事が生まれる。2013年にはライス大学へ移り、ハリー・C&オルガ・K・ワイス記念講座教授として現在も研究を続けている。

「KCN」というサイン
K. C. Nicolaou のイニシャルは KCN——シアン化カリウムと同じ並びになる。研究室の通称も KCN Chemistry Group であり、化学者仲間のあいだでは古くからの持ちネタになっている。本人の署名にも “K. C. Nicolaou” が使われ、フルネームの Kyriacos Costa Nicolaou で論文を書くことはほとんどない。
出来事
1946キプロス・カラヴァスに生まれる(7月5日)
196418歳で渡英。2年間、英語と大学進学の準備に充てる
1969ロンドン大学ベッドフォード・カレッジ卒業(第一級優等)
1972UCLで博士号(指導:F・ゾンドハイマー、P・J・ギャラット)。渡米
1973–76ハーバード大学で E・J・コーリーのもとポスドク
1976ペンシルベニア大学に着任(のちロードス–トンプソン記念教授)
1988エンジインの「cd距離」仮説を提唱。設計エンジインでDNA切断を実証
1989スクリプス研究所/UCサンディエゴ校へ移籍
1992カリケアマイシン γ1I の全合成を達成
1994タキソール(パクリタキセル)の全合成Nature に報告
1995ブレベトキシンBの全合成(構想から12年)
1996Classics in Total Synthesis』刊行(E・J・ソレンセンと共著)
1997エポチロンA/Bの全合成と、固相法によるアナログライブラリ構築
1999バンコマイシンの全合成、CP分子群の全合成
2000年代IBXの新反応開発、チオストレプトン(2004)、プラテンシマイシン(2006)
2013ライス大学へ移籍(ワイス記念講座教授)
2016ウルフ賞(化学)受賞(S・シュライバーと共同)

タキソール全合成——6-8-6骨格をどう閉じるか

なぜタキソールが「不可能」と言われたのか

タキソール(一般名パクリタキセル)は、1971年に太平洋イチイ Taxus brevifolia の樹皮から単離されたジテルペンアルカロイドである。1979年にS・ホロヴィッツが、チューブリンの重合を促進して微小管を安定化し、細胞分裂を止めるという前例のない作用機序を明らかにしたことで一躍注目を集めた。

問題は供給だった。樹皮に含まれる量はごくわずかで、患者1人分を得るために樹齢100年級のイチイを数本伐採する必要があるとされた。イチイは成長が遅く、樹皮を剥げば木は枯れる。「薬はあるのに患者に届かない」という状況が、全合成競争の直接の動機になった。

だが構造は容易でない。

タキソールの構造上のハードル
6員環–8員環–6員環(A/B/C環)が縮環したタキサン骨格
・8員環は中員環で、エントロピー的にもひずみ的にも閉環がきわめて難しい
・C環に 4員環のオキセタン(D環)が縮環している
・不斉炭素が 11個、酸素官能基が多数
・C13位に N-ベンゾイル-(2R,3S)-3-フェニルイソセリン側鎖がエステル結合している(この側鎖がないと活性はほぼ消える)

ニコラウの戦略:両端から作って中央で閉じる

ニコラウが採った設計は徹底した収束的合成(convergent synthesis)である。難所の8員環B環を「最後に閉じる」と決め、そこから逆算してA環断片とC環断片を独立に作った。

【ニコラウ流タキソール合成の骨格戦略】

  A環断片(ヒドラゾン)      C環断片(アルデヒド)
        │                          │
        │  Diels–Alder 反応で構築    │  Diels–Alder 反応で構築
        └──────────┬───────────────┘
                   │
              Shapiro 反応
       (A環由来のビニルアニオンが
         C環アルデヒドに求核付加)
                   │
                   ▼
             A–C 連結体(鎖状)
                   │
             McMurry カップリング
       (ジアルデヒドをピナコール型に還元的二量化
         → C1–C2 ジオールとして 8員環 B環を閉環)
                   │
                   ▼
            6-8-6 タキサン三環性骨格
                   │
             オキセタン(D環)形成
                   │
             C13 側鎖のエステル化
                   │
                   ▼
                タキソール

2つの環をいずれも Diels–Alder反応で作っている点が、まず教育的である。Diels–Alder反応は一段階で環と立体中心を同時に作れるため、複雑な多環性天然物の「入口」として繰り返し登場する。

Shapiro反応とMcMurryカップリング

Shapiro反応は、ケトンから作ったトリシルヒドラゾン(あるいはトシルヒドラゾン)を強塩基で処理し、窒素分子 N2 を脱離させてビニルリチウムを発生させる反応である。生じたビニルアニオンは求核剤として働き、C環側のアルデヒドを攻撃してA環とC環をつなぐ。ここで生じる新しい不斉中心はジアステレオ選択的に制御された。

【Shapiro 反応の要点】

  R2C=N–NH–SO2Ar  ──(2 eq. RLi)──>  ビニルリチウム  + N2 + ArSO2Li

  ・カルボニルの α 位から脱プロトン化 → ジアニオン
  ・スルフィニルアニオンの脱離、続いて N2 脱離
  ・生じたビニルアニオンが求電子剤(ここではアルデヒド)と反応

最大の山場が McMurryカップリングによる8員環閉環である。McMurry反応は低原子価チタン(TiCl3/Zn–Cu など)が2つのカルボニル基を一電子還元してケチルラジカルを生じ、それらが結合してピナコール型のジオールを与える反応である(さらに脱酸素すればアルケンになる)。ニコラウはこの反応を分子内で用い、ジアルデヒドから C1–C2 ジオールを作ることで、通常なら閉じない8員環を閉じた。

なぜ8員環にはラジカル的な閉環が効くのか
中員環(8〜11員)は、遷移状態でC–H同士が向かい合う「越し合いひずみ(transannular strain)」と、両端が出会う確率の低さの二重苦で閉じにくい。イオン反応では基質が分子間反応(重合)に逃げてしまうことが多いのに対し、Ti表面上でケチルラジカルが近接して生成するMcMurry条件は、実質的に「高希釈」と同じ効果を与える。中員環合成でMcMurry・ラジカル環化・閉環メタセシスが好まれるのはこの理由による。
よくある誤解:「タキソールを最初に全合成したのはニコラウ」?
実際には、フロリダ州立大学の R・A・ホルトンのグループとニコラウのグループがほぼ同時(1994年初頭)に全合成を報告している。受理・公表の日付ではホルトンがわずかに先行しており、「最初の全合成はホルトン、ほぼ同時にニコラウが独立の経路で達成」と記述するのが正確である。
なお両者の戦略はまったく異なり、ホルトンは直線的(linear)にA環からB環・C環へ拡張する経路、ニコラウは収束的(convergent)にA環とC環を作って中央で閉じる経路だった。院試や講義で「全合成の戦略」を問われたときの好対照な教材になる。

「合成できた」で終わらなかった話

ニコラウの合成は数十工程に及び、総収率は1%に遠く及ばない。したがってこの経路で薬を供給することは最初から不可能だった。それでもこの仕事が重要なのは、次の2点による。

第一に、実際の供給問題は半合成で解決した。ヨーロッパイチイ Taxus baccata葉(針葉)から採れる 10-デアセチルバッカチンIII は、タキサン骨格をすでに備えており、しかも葉は伐採せずに毎年収穫できる。ここに側鎖をエステル結合させれば薬になる——この「終盤の一手」を精密化する上で、全合成研究で蓄積された側鎖導入・保護基の知見が直接効いた。第二に、この全合成で試された数々の反応と保護基戦略は、その後の他の天然物合成の共有財産になった。

カリケアマイシンとエンジイン——分子がDNAを切る

「化学のミサイル」

1980年代後半、テキサス州の土壌から採取された放線菌 Micromonospora echinospora から、恐るべき化合物が単離された。カリケアマイシン γ1I である。抗腫瘍活性はアドリアマイシンの1000倍以上と報告され、しかもその作用はDNAを物理的に切断するという直接的なものだった。

分子は3つのパートからなる。

カリケアマイシンの三部構造
アリールテトラサッカリド部:糖と芳香環が並んだ「腕」。DNAの副溝(minor groove)に特定配列(TCCT など)で結合する——照準装置
トリスルフィド(–S–S–S–):外部の求核剤(細胞内グルタチオンなど)で切断される——安全装置つき信管
エンジインコア:ビシクロ[7.3.1]骨格に埋め込まれた「二重結合を挟んだ2つの三重結合」——弾頭

Bergman環化の機構

エンジイン(ene-diyne)とは、C≡C–C=C–C≡C のように二重結合の両側に三重結合が並んだ構造である。この構造は加熱すると、両端の三重結合の炭素どうしが結合して芳香環を作りながら、1,4-ベンゼンジイル(p-ベンザイン)ジラジカルを生じる。これが Bergman環化(Bergman cycloaromatization)である。

【Bergman 環化】

        c                     ・
     ///                    /  \
    ‖      →  (環化)  ‖    ‖      → (H・を2つ引き抜く)→  ベンゼン
     \\\                    \  /
        d                     ・

   エンジイン        1,4-ベンゼンジイルジラジカル
                    (p-ベンザイン、きわめて反応性が高い)

  ・環化は熱的に許容。芳香族化による安定化が駆動力
  ・生じたジラジカルは、近くの C–H から水素原子を引き抜いて安定化する
  ・引き抜かれた側は炭素ラジカルとなり、O2 と反応して主鎖切断へ

DNAの副溝に潜り込んだ状態でジラジカルが発生すると、標的はデオキシリボースのC4′位やC5′位の水素である。ジラジカルは2つのラジカル中心をもつため、相補鎖の両方から同時に水素を引き抜ける。結果として生じるのがDNA二本鎖切断——細胞にとって修復が最も困難な損傷である。カリケアマイシンの猛烈な細胞毒性の正体はここにある。

「cd距離」という設計原理

ここでニコラウの理論的貢献が効いてくる。エンジインが室温で勝手に環化してしまえば、天然物として存在できない。逆に環化しなければ薬理活性はない。両者を分けるものは何か。

ニコラウは1988年、反応して結合を作る2つのアセチレン末端炭素(c位とd位)の距離が鍵だと提唱した。この cd距離が約 3.2–3.3 Å より短くなると Bergman 環化が室温付近で自発的に進行し、それより長ければ分子は安定に存在できる、という経験則である。

カリケアマイシンはこの原理を巧妙に使っている。

【カリケアマイシンのトリガー機構】

  (1) 糖部が DNA 副溝に結合し、分子が標的上に固定される

  (2) グルタチオンなどのチオラートが トリスルフィド の中央 S を攻撃
        R–S–S–S–R'  +  GS   →   R–S  + GS–S–R'

  (3) 生じたチオラートが分子内 Michael 付加で
      橋頭位の α,β-不飽和ケトンに付加

  (4) 橋頭炭素が sp2 → sp3 に変化
        → 環のひずみが変わり、cd 距離が一気に縮む

  (5) Bergman 環化が室温で進行 → ジラジカル発生 → DNA 二本鎖切断

つまりこの分子は、「標的に結合してから、化学的な鍵で信管を外し、幾何学的な変形によって起爆する」という多段階の安全設計をもっている。ニコラウのグループは1992年にこの分子の全合成を達成しただけでなく、その前段階で人工設計したエンジインが実際にDNAを切ることを実証して、上の仮説を検証してみせた。

現代への直結:抗体薬物複合体(ADC)
カリケアマイシンは毒性が強すぎてそのままでは薬にならない。しかしがん細胞表面の抗原を認識する抗体に化学リンカーでつなげば、腫瘍だけに弾頭を届けられる。この発想で生まれたのが、急性骨髄性白血病用のゲムツズマブ・オゾガマイシン(抗CD33)と、急性リンパ性白血病用のイノツズマブ・オゾガマイシン(抗CD22)である。天然物合成の基礎研究が、そのまま実用薬の設計図になった好例といえる。

ブレベトキシンB——12年かけた「はしご」

フロリダ沿岸で赤潮が発生すると、魚が大量死し、貝を食べた人が神経症状を起こす。原因生物は渦鞭毛藻 Karenia brevis、原因物質がブレベトキシンBである。

この分子の構造は異様だ。6員環から8員環までの環状エーテルが11個、すべてトランス縮環で一列につながっている。梯子(ラダー)のように見えることから ラダーポリエーテルと呼ばれる。剛直な棒状分子が電位依存性 Na+ チャネルの特定部位に結合し、チャネルを開いたままにしてしまうことが神経毒性の原因である。

ニコラウのグループは1980年代前半にこの標的に着手し、1995年、12年越しで全合成を完成させた。この長い挑戦から生まれたのは分子そのものより、中員環エーテル(オキソカン・オキセパン)をどう作るかという方法論だった。

ラダーポリエーテル合成の主な考え方
ヒドロキシジチオケタールの環化:分子内の水酸基がチオニウムイオンを攻撃して中員環エーテルを作る。銀塩などのチオフィル試薬で活性化する
エポキシドの分子内開環:どちらの炭素を攻撃させるか(exoendo か)を置換基で制御する。天然のポリエーテルは endo 選択的な開環でできると考えられている
大断片どうしの連結:ブレベトキシンBでは Wittig反応で左右の巨大フラグメントを結合し、そのあとで残る環を閉じた
・全体で80工程を超える長大な合成となり、「収束的に設計しないと物質量が残らない」ことを身をもって示す例になった

なお同じラダーポリエーテル分野では、マイトトキシン(非タンパク質天然物として最大級、環32個)という究極の標的があり、ニコラウらもその部分構造合成に取り組んだ。野崎–檜山–岸(NHK)反応のように、この分野の難所を突破するために開発された反応が、いまでは一般的な合成手法として教科書に載っている。

エポチロン——全合成が「創薬」に変わった瞬間

タキソールと同じ的を射る別の矢

エポチロンは粘液細菌 Sorangium cellulosum が作る16員環マクロラクトンで、側鎖にチアゾール環をもつ。驚くべきことに、タキソールとは構造がまったく違うにもかかわらず、微小管を安定化するという同じ作用機序を示す。しかも水溶性が高く、P糖タンパク質による多剤耐性がんにも効くという、臨床上の利点まで備えていた。

3つのカップリング法を並べて試す

1997年、ニコラウのグループはエポチロンA・Bの全合成を複数の経路で報告する。ここで使われた手法は、現代の複雑分子合成の「定番」がそのまま並んでいる。

手法どこで使ったか学ぶべき点
閉環メタセシス(RCM)C12–C13 の二重結合を作りながら16員環を閉じる大環状化には強力だが、E/Z 選択性が出ずほぼ1:1になった。RCMの立体制御の難しさを示す代表例
マクロラクトン化アルドール反応で炭素骨格を作り、最後に山口法でエステル環化環化点をC–C結合ではなくC–O結合に置くと、立体の心配が減る
Suzuki–宮浦カップリングエポチロンBの合成で断片を連結官能基許容性が高く、多官能基基質でも使えるクロスカップリングの威力
エポキシ化(DMDO)エポチロンC → エポチロンA の最終変換終盤で官能基を導入する「late-stage functionalization」の発想

RCMで E/Z 混合物ができてしまった件は、失敗談として片づけられがちだが、教育的にはむしろ重要である。オレフィンメタセシスは「つなぐ」能力が飛び抜けている一方、生成するアルケンの幾何を制御する手段は当時ほとんどなかった。この課題意識が、のちの立体選択的メタセシス触媒(Z選択的Ru触媒、Mo/W系触媒)の開発を駆り立てることになる。Suzuki–宮浦カップリング山口エステル化が全合成の終盤に登場するのも、まさにこの「官能基を壊さず、狙った位置だけをつなぐ」という要求に応えるためである。

固相合成によるアナログライブラリ

ニコラウの真骨頂は、ここからだった。エポチロンの合成経路を固相担体(樹脂)上に移植し、断片を組み替えることで数十種類のアナログを一気に合成してみせたのである(1997年、Nature)。天然物レベルの複雑分子を固相コンビナトリアル合成の対象にしたのは、これが初めてに近い。

これにより、「どの部分構造が活性に必須か」という構造活性相関(SAR)を系統的に調べることが可能になった。全合成が「自然の分子を再現する行為」から「自然にない分子を設計して医薬候補を出す行為」へと踏み出した瞬間である。実際、エポチロンB由来のラクタム誘導体であるイキサベピロンは2007年に抗がん剤として承認されている。

バンコマイシンとIBX——方法論をつくる化学者

バンコマイシン:アトロプ異性との戦い

バンコマイシンはMRSAに対する「最後の切り札」として知られるグリコペプチド系抗生物質で、細菌の細胞壁前駆体末端の D-Ala-D-Ala に水素結合で結合し、細胞壁合成を止める。

合成上の難所は、ビアリールエーテル2つとビアリール1つで作られた3つの大環状構造にある。これらの環は回転障壁が高く、アトロプ異性(軸不斉)を生じる。すなわち、原子のつながり方が同じでも「ねじれの向き」が違う異性体ができてしまい、しかもそのうち1つしか天然型ではない。

ニコラウのグループは1999年に全合成を完成させたが、その過程でトリアゼンを鍵中間体とするビアリールエーテル合成法を新たに開発している。さらに、望まないアトロプ異性体を加熱によって熱平衡化させて天然型へ寄せるという手も使った。「目的の分子を作るために反応を作る」という、全合成研究のもうひとつの顔がここに現れている。

IBX:古い試薬の新しい顔

2000年前後、ニコラウは意外な方向に舵を切った。o-ヨードキシ安息香酸(IBX)——Dess–Martinペルヨージナン(DMP)の前駆体として知られる超原子価ヨウ素試薬——が、単なるアルコール酸化剤にとどまらないことを次々に見つけ出したのである。

ニコラウが開拓したIBXの反応
ケトン → エノンへの直接脱水素化(一電子移動を含む機構で α,β-不飽和カルボニルを一段階で作る)
・ベンジル位・アリル位の C–H 酸化
・アミンからのイミン生成、環化反応への応用
既存の Dess–Martin酸化IBX酸化を「アルコール → カルボニル」の道具としてだけ覚えていると、この広がりを見落とす。試薬の反応性は、条件(溶媒・温度・添加剤)を変えるだけで大きく顔を変える。

教育者としてのニコラウ——『Classics in Total Synthesis』

ニコラウの影響力を語るとき、論文と同じかそれ以上に挙げられるのが著書である。

1996年、E・J・ソレンセンとの共著で刊行された『Classics in Total Synthesis』は、有機合成の教科書のあり方を変えた。それまで全合成は「原著論文を読める人だけのもの」だったが、この本は1つの標的につき1章を割き、逆合成の考え方・鍵反応の機構・当時の時代背景・失敗した経路までを図解した。学生が「なぜこの結合を切ったのか」を追体験できる形式である。

続編は II(2003年、S・A・スナイダーと共著)III(2011年、J・S・チェンと共著)、そして IV(2025年)と刊行され、いまや世界中の合成化学系研究室の書架に並ぶ標準的な副読本になっている。一般向けの『Molecules That Changed the World』(2008年)では、アスピリンからタキソールまで、分子が歴史を動かした物語を語った。

学部生・院生への実践的な使い方
『Classics in Total Synthesis』は最初から通読する本ではない。自分が講義で習った反応が、実際の全合成のどこで使われているかを索引から引くのが効率的な使い方である。「Diels–Alder反応をひとつの章で追う」よりも、「Diels–Alderが登場する5つの合成を横断して読む」ほうが、条件と適用範囲の感覚が育つ。当ブログの反応機構まとめで機構を押さえてから、実例として本書に当たる順序を勧めたい。

現代への影響

創薬への橋渡し

カリケアマイシンはADC(抗体薬物複合体)の弾頭として実用化され、エポチロン誘導体イキサベピロンは抗がん剤として承認された。全合成は「標的の量産」ではなくアナログ供給と作用機序解明で創薬に貢献するという道筋を示した。

方法論の駆動力

難関標的に挑む過程で、トリアゼン法によるビアリールエーテル合成、IBXの新反応、中員環エーテル構築法などが生まれた。全合成は新反応開発の最も厳しい試験場であり続けている。
→ オレフィンメタセシス

合成教育の標準化

『Classics in Total Synthesis』シリーズにより、全合成の読み方が世界共通の教養になった。逆合成解析を「見て学ぶ」教材が整備され、院試・学部講義での扱い方も変わった。
→ 有機化学者列伝

院試・定期試験での狙われ方

問われ方答えの骨子
Bergman環化の機構と生成中間体を示せエンジインの両末端アセチレン炭素が結合して芳香環を形成し、1,4-ベンゼンジイル(p-ベンザイン)ジラジカルを生じる。芳香族化が駆動力。生じたジラジカルは基質のC–Hから水素を引き抜いてベンゼンになる
カリケアマイシンがDNAを二本鎖切断できる理由糖部が副溝に配列選択的に結合して分子を固定し、ジラジカルが2つのラジカル中心で相補鎖両方のデオキシリボースから水素を引き抜くため
トリスルフィドが「トリガー」として働く仕組みチオラートが中央のSを攻撃して切断 → 生じたチオラートが分子内Michael付加 → 橋頭炭素が sp2 から sp3 へ → cd距離が短縮して環化が室温で進行
収束的合成が直線的合成より有利な理由各工程の収率を y、工程数を n とすると直線的合成の総収率は yn で急減する。断片を並行して作り終盤で連結すれば、最長直線工程数が短くなり総収率が保たれる。タキソールのA環/C環分割がその実例
Shapiro反応の生成物と用途スルホニルヒドラゾンを2当量の有機リチウムで処理し、N2とスルフィナートを脱離させてビニルリチウムを発生させる。求電子剤(アルデヒド等)と反応させてアリルアルコール類を得る
中員環(8員環)が作りにくい理由遷移状態での越し合いひずみ(transannular strain)とねじれひずみに加え、両末端が出会う確率が低くエントロピー的に不利。高希釈条件、テンプレート、McMurryやRCMなど反応点を近接させる手法で克服する
減点されやすい書き方
・Bergman環化の中間体を「ベンザイン」とだけ書く(通常のベンザインは o-ベンザインで三重結合型。ここでは1,4型のジラジカルであることを明示する)
・エンジインの反応性を「三重結合が2つあるから反応性が高い」で済ませる(幾何学的な距離芳香族化による安定化の2点で説明する)
・McMurryカップリングを常に「アルケン生成」と書く(条件によりピナコール型ジオールで止められる。タキソール合成はこちら)
・タキソールの活性に側鎖が不要だと誤認する(C13側鎖を失ったバッカチンIII自体はほぼ不活性

まとめ

この記事の要点
K・C・ニコラウ(1946–)はキプロス出身の有機化学者。ゾンドハイマー門下でアセチレン化学を、コーリー門下で逆合成解析を学び、ペンシルベニア大学・スクリプス研究所・ライス大学で研究を率いた
タキソールの全合成(1994)では、A環とC環を Diels–Alder反応で別々に作り、Shapiro反応で連結、McMurryカップリングで8員環B環を閉じる収束的経路を採った
・タキソールの初の全合成はホルトンとほぼ同時であり、両者は直線的/収束的という対照的な戦略をとった
カリケアマイシン γ1I は、糖部(照準)+トリスルフィド(信管)+エンジイン(弾頭)の三部構造をもち、Bergman環化で生じる1,4-ベンゼンジイルジラジカルがDNAを二本鎖切断する
・エンジインの安定性と反応性はcd距離(約3.2–3.3 Å)で説明できる——ニコラウの理論的貢献
ブレベトキシンB(1995、12年がかり)はラダーポリエーテル合成の方法論を生み、中員環エーテル構築法を確立した
エポチロン合成では RCM・Suzukiカップリング・山口マクロラクトン化を比較検証し、さらに固相コンビナトリアル合成でアナログライブラリを作って創薬へ橋渡しした
バンコマイシン(1999)ではアトロプ異性の制御とトリアゼン法によるビアリールエーテル合成を開発。IBXの新反応も開拓した
・『Classics in Total Synthesis』シリーズにより、全合成の読み方が世界の合成化学教育の共通言語になった

よくある質問

タキソールを最初に全合成したのは誰ですか

R・A・ホルトン(フロリダ州立大学)のグループと K・C・ニコラウ(スクリプス研究所)のグループが、1994年初頭にほぼ同時に報告しました。論文の受理・公表の時期ではホルトンがわずかに先行しており、「初の全合成はホルトン、独立にほぼ同時期にニコラウも達成」と記述するのが正確です。両者の経路はまったく異なり、ホルトンはA環から順に環を拡張する直線的な経路、ニコラウはA環とC環を別々に作って中央の8員環を最後に閉じる収束的な経路を採りました。

Bergman環化で生じるのは、ベンザインと同じものですか

異なります。通常「ベンザイン」と呼ばれるのは o-ベンザイン(1,2-ジデヒドロベンゼン)で、形式的にひずんだ三重結合をもつ閉殻の化学種です。Bergman環化で生じるのは p-ベンザイン、すなわち 1,4-ベンゼンジイルジラジカルで、ベンゼン環の1位と4位に不対電子が1つずつ存在します。ラジカル中心が2つあることが、DNAの相補鎖両方から水素を引き抜いて二本鎖切断を起こせる理由です。試験では「1,4型のジラジカル」であることを明示してください。

なぜ8員環は作りにくいのですか

3つの要因が重なります。第一に、環内で向かい合う水素どうしが接近する越し合いひずみ(transannular strain)が生じ、環自体のエネルギーが高くなります。第二に、すべての結合をねじれ形に保てないためねじれひずみが残ります。第三に、鎖の両端が出会う確率が低く、分子内環化より分子間反応(重合)が優先しやすいというエントロピー的な不利があります。対策として、高希釈条件、テンプレートによる末端の固定、そしてMcMurryカップリングや閉環メタセシスのように反応点を金属上や触媒上で近接させる手法が使われます。

全合成は、薬を大量に作るために行うのですか

ほとんどの場合そうではありません。タキソールの全合成は数十工程で総収率が1%に遠く及ばず、この経路で薬を供給することは不可能でした。実際の供給は、イチイの葉から得られる10-デアセチルバッカチンIIIを出発点とする半合成で解決しています。それでも全合成が行われるのは、(1) 難関標的に挑む過程で新しい反応・試薬・戦略が生まれる、(2) 天然にはないアナログを設計・合成して構造活性相関を調べられる、(3) 提唱された構造が正しいかを最終的に証明できる、(4) 高度な実験技術をもつ人材が育つ、といった価値があるためです。ニコラウのエポチロン研究は、とくに(2)を実証した例として重要です。

『Classics in Total Synthesis』は学部生でも読めますか

3年次で有機化学の基礎(反応機構・立体化学・保護基)を一通り終えていれば読めます。ただし通読には向きません。講義で習った反応名から索引を引き、その反応が実際の全合成のどの局面で、どんな条件で使われているかを確認する読み方が効率的です。1つの反応が複数の合成でどう使い分けられているかを横断的に見ると、条件設定の感覚が身につきます。日本語で機構を確認したい場合は、まず反応ごとの解説で基礎を固めてから本書に当たるとよいでしょう。
他の化学者の歩みは有機化学者列伝まとめページから、全合成を支える個々の反応は有機化学の反応機構まとめから確認できます。全合成という営みを最初に体系化した先駆者については、R・B・ウッドワードの記事も併せてお読みください。