ナイトレンとは|三重項の構造と生成法・環拡大・転位が経由しない理由
窒素の手は3本。ところが手が1本しかない中性の窒素があります。ナイトレン(R−N:)です。
カルベンで起きていたことが、そのまま窒素で起きます。価電子は6個、電荷はゼロ、そして余った電子が4個。カルベンの完全な類似物と言ってよい化学種です。
ただし1つ、厄介な事情があります。教科書でナイトレンが最初に登場するのはホフマン転位やクルチウス転位の説明で、たいてい「ナイトレン中間体を経て」と書かれています。ところが現在の理解では、これらの反応は遊離のナイトレンを経由しません。この記事では、その食い違いにも決着をつけます。
カルベンとの対応で覚える
まず構造を並べます。置換基の数が1つ減って、余った電子が2個増える——それだけの違いです。
| カルベン :CR2 | ナイトレン R−N: | |
|---|---|---|
| 中心原子 | 炭素 | 窒素 |
| 置換基の数 | 2(二価) | 1(一価) |
| 価電子 | 6(オクテット不足) | 6(オクテット不足) |
| 結合に使わない電子 | 2個 | 4個(孤立電子対1組+2個) |
| 基底状態 | 置換基しだい(三重項も一重項も) | ほぼ常に三重項 |
なぜナイトレンは三重項に強く偏るのか
カルベンでは、置換基の性質しだいで一重項にも三重項にもなりました。ナイトレンにはその自由度がほとんどありません。
この差は実務に直結します。ナイトレンを使う反応では、立体化学が失われやすいのです。三重項が段階的に反応する事情はカルベンで扱ったとおりで、ナイトレンでも同じことが起こります。
どうやって作るか
| 方法 | 具体例 | メモ |
|---|---|---|
| アジドの熱分解・光分解 | R−N3 → R−N: + N2 | 最も一般的。窒素が抜ける駆動力が大きい |
| イミノヨージナンから | PhI=NTs + 金属触媒 | ヨードベンゼンが抜けて金属ナイトレンになる |
| スルホニルアジド+金属 | TsN3 + Rh・Fe・Cu 触媒 | 現代の C−H アミノ化の主流 |
| α脱離 | 窒素上の H と脱離基が同時に抜ける | カルベンの α脱離と同じ考え方 |
何をするか——窒素を直接入れる
ナイトレンの反応は、カルベンと一対一で対応します。
③ 自身の転位・環拡大
アリールナイトレンで起こる(後述)
①の意義は大きく、ふつうなら何の反応性もない C−H 結合に、直接アミノ基を打ち込めることを意味します。ロジウム二核錯体を用いた分子内 C−H アミノ化は、この考え方を実用レベルに引き上げた代表例です。
転位反応は本当にナイトレンを経由するのか
この記事でいちばん大事な節です。
ホフマン転位・クルチウス転位・ロッセン転位・シュミット転位は、いずれも電子不足の窒素へ炭素が 1,2-転位してイソシアネートになる反応です。多くの教科書は「ナイトレン中間体が生じ、そこへ R 基が移動する」と説明します。
ところが熱条件の反応には、そう考えると説明しにくい事実があります。
なお、転位する R 基が不斉中心を持つ場合、その立体配置は反応の前後で保持されます。ただしこれは協奏的であることの証拠にはなりません。R 基は結合電子対を抱えたまま分子内で隣の窒素へ移るので、仮に遊離のアシルナイトレンを経由したとしても立体配置は保持されるからです。立体保持は「移動する基が電子対を保ったまま分子内で移る」ことの帰結であって、経路を見分ける決め手は副生成物のほうにあります。
つまりこれらの転位では、ナイトレンは「通過点として想像される構造」であって、実在する中間体ではありません。脱離基が外れるのと R 基が窒素へ滑り込むのが同時に起こるため、窒素が電子不足で裸になる瞬間が存在しないのです。詳しい機構はホフマン転位・クルチウス転位で扱っています。
アリールナイトレンの落とし穴——環拡大
フェニルナイトレンを狙って作っても、期待した反応が起きないことがあります。室温ですみやかに環拡大してしまうからです。
・六員環が七員環へ広がる ・こうなると C−H アミノ化もアジリジン化も起こらない ・求核剤に捕まって、目的外の生成物を与える
この性質は光親和性標識という手法で問題になりました。アリールアジドに光を当ててナイトレンを発生させ、近くのタンパク質に共有結合させたいのに、環拡大が競合してしまうのです。
解決策がペルフルオロフェニルアジドでした。環上のフッ素が環拡大を抑えるため、目的の挿入反応が優先します。「置換基で余計な経路を塞ぐ」という、有機化学らしい解き方です。
大学院入試での問われ方
「ナイトレンとカルベンの構造上の関係を述べよ」
→ 等電子的。どちらも価電子6の中性種。置換基が1つ少ないぶん
結合に使わない電子が2個多い
「ナイトレンが三重項になりやすい理由を述べよ」
→ 置換基が1つなので2つの p 軌道が縮退したまま残り、フント則が効く
「熱条件のクルチウス転位で遊離のナイトレンを経由しないと考える根拠は」
→ C−H 挿入やアルケンへの付加など、ナイトレン由来の副生成物が
出ないから(計算も協奏機構を支持)。立体保持は根拠にならない
(遊離ナイトレンを経ても R 基は電子対ごと移るので保持される)
「アジドに光を当てて C−H アミノ化を試みたが収率が低い。アリール基が
原因として考えられる理由を述べよ」
→ アリールナイトレンが七員環ケテンイミンへ環拡大するため
まとめ
カルベン・ナイトレン・ベンザイン——第10章で扱う活性種はどれも、オクテットを満たせないまま反応を待っているという共通点を持ちます。ベンザインについてはベンザイン機構で扱っています。
よくある質問
窒素に置換基が1つしか付いておらず、価電子が6個しかない中性の化学種です。カルベンの窒素版にあたり、オクテット則を満たしていないため反応性がきわめて高く、通常は単離できません。結合に使われない電子が4個あり、そのうち2個が縮退した2つのp軌道に1個ずつ入るため、ほとんどの場合で三重項が基底状態になります。
置換基が1つしかないため、窒素上に残る2つのp軌道が縮退したまま残るからです。エネルギーの等しい軌道に電子を2個入れる場合はフント則にしたがって平行スピンで別々に入るほうが安定なので、三重項が基底状態になります。カルベンは置換基が2つあって軌道に差が生じるため一重項にもなりえますが、ナイトレンではその自由度がほとんどありません。
熱条件では経由しません。脱離基が外れる過程と炭素が窒素へ1,2-転位する過程が協奏的に進むため、窒素が電子不足のまま裸で存在する瞬間がないからです。根拠は、遊離のナイトレンなら起こすはずの C−H 結合への挿入やアルケンへの付加の副生成物が、熱条件では見つかっていないことで、計算も協奏機構を支持しています。なお転位する基の立体配置は保持されますが、これは基が結合電子対ごと分子内で移ることの帰結で、協奏か段階的かを区別する根拠にはなりません。ただし光照射によるクルチウス転位では遊離のアシルナイトレンが捕捉されています。
ナイトレンが炭素水素結合に割り込んで、そこを直接炭素窒素結合へ変える反応です。カルベンの炭素水素挿入反応に対応します。通常は何の反応性も持たない炭素水素結合にアミノ基を打ち込めるため、合成の段階数を大きく減らせます。遊離のナイトレンでは三重項になって立体が混ざるので、実際にはロジウムなどの金属に結合させた金属ナイトレンとして用い、立体選択性を確保します。
フェニルナイトレンは室温ですみやかに環拡大し、七員環のケテンイミンへ変わってしまうためです。こうなると目的の挿入反応や付加反応は起こらず、求核剤に捕まって別の生成物を与えます。光親和性標識でこの副反応が問題になった際の解決策が、環上をフッ素で置換したペルフルオロフェニルアジドを使うことでした。フッ素が環拡大を抑えるため、目的の反応が優先するようになります。
