有機化学の試験で「次の反応の生成物を書け」と出たとき、試薬欄に NaBH4 とあれば、多くの人は反射的に「C=O が CH–OH になる」と書きます。それ自体は正しいのですが、同じ分子にエステルがあったら? 共役エノンだったら? 溶媒が水だったら?——ここで手が止まる人が少なくありません。

NaBH4 は「何でも還元する強い試薬」ではなく、還元できる相手を選ぶ穏やかなヒドリド源です。どの官能基が還元され、どれが残るのか。なぜメタノール中で使えるのに、メタノールとゆっくり反応して水素を出すのか。その理由は、ホウ素と水素の電気陰性度の差と、カルボニル基の求電子性の序列から一続きに説明できます。

この記事の答え
水素化ホウ素ナトリウム(NaBH4)は、アルデヒド・ケトンをアルコールに還元するヒドリド還元剤です。B–H 結合の極性が小さく穏やかで、エステル・カルボン酸・アミドは通常還元しません。
この記事で学ぶこと
・NaBH4 が還元できる官能基/できない官能基(条件付きの例外を含む一覧表)
・ヒドリド移動の反応機構と、1分子で最大4回還元できる理由
・メタノール・水と反応して水素が出る理由と、溶媒の選び方
・Luche 還元(ルーシェ還元)・NaBH3CN など仲間の試薬、LiAlH4・DIBAL との使い分け
・後処理・取り扱いの注意と、試験での問われ方

水素化ホウ素ナトリウム(NaBH4)とは

水素化ホウ素ナトリウム(sodium borohydride、NaBH4)は、ナトリウムイオン Na+ と、ホウ素に4つの水素が正四面体形に結合したテトラヒドロホウ酸イオン BH4− からなる塩です。BH4− はメタン CH4 と等電子的で、形もメタンと同じ正四面体です。

1940年代に H. I. Schlesinger と H. C. Brown らが合成法を見いだし、1949年に S. W. Chaikin と W. G. Brown(H. C. Brown とは別人)がアルデヒド・ケトン・酸塩化物の還元剤として報告しました。白色の固体で、空気中で扱えて、アルコールや水を溶媒にできる——この「扱いやすさ」が、学生実験から医薬品の製造まで広く使われる理由です。

項目 内容
化学式 NaBH4(Na+ BH4−)。式量 37.83
別名 テトラヒドロホウ酸ナトリウム、ソジウムボロハイドライド
外観 白色の固体(粉末・顆粒)。吸湿性がある
よく使う溶媒 メタノール、エタノール、THF/水、ジグライム
溶けにくい溶媒 ジエチルエーテル、ヘキサン、ジクロロメタン(THF にもわずかしか溶けない)
主な用途 アルデヒド・ケトン → アルコール、イミン → アミン、酸塩化物 → 第一級アルコール

なぜ水素が「ヒドリド」として働くのか

ポーリングの電気陰性度はホウ素 2.04、水素 2.20 です。B–H 結合の電子対はわずかに水素側に偏るので、水素は負に分極したヒドリド性の水素になります。BH4− の負電荷は形式的にはホウ素に書きますが、求核剤として電子対ごと移っていくのは水素のほうです。

ただし偏りは小さいので、B–H 結合は共有結合性が高く、ヒドリドを「手放しにくい」。これが NaBH4 の穏やかさの正体です。アルミニウムの電気陰性度は 1.61 とずっと小さく、Al–H 結合は大きく分極しています。だから LiAlH4 は同じ「ヒドリド還元剤」でも反応がはるかに激しく、水と激しく反応します。

覚え方
・電気陰性度の差(H と金属の差)が大きいほど、H は H− らしくなる
・Al–H(差 0.59)> B–H(差 0.16)→ LiAlH4 > NaBH4
・「ホウ素は穏やか、アルミは激しい」と結び付けておくと、DIBAL や NaBH3CN の性格も推測できる

NaBH4 で還元できる官能基・できない官能基

試験でも実験でも、よく参照するのがこの表です。「○=通常の条件(メタノールやエタノール中、0 °C〜室温)で還元される」「×=通常の条件では還元されない」を基準にし、条件を変えると起こる例外は右の列に書き分けました。

官能基 通常の条件 生成物 条件付きの例外・注意
アルデヒド ○(速い) 第一級アルコール ケトンより速い。低温ではアルデヒドを優先して還元しやすい
ケトン ○ 第二級アルコール かさ高いケトンほど遅い
α,β-不飽和ケトン(エノン) △ アリルアルコールと1,4-還元体の混合物になりやすい CeCl3 を加える Luche 還元で 1,2-還元(アリルアルコール)に揃う
酸塩化物 ○ 第一級アルコール 途中のアルデヒドも NaBH4 で還元されるので、アルデヒドでは止まらない
イミン・イミニウムイオン ○ アミン ワンポットの還元的アミノ化では、カルボニルを残す NaBH3CN・NaBH(OAc)3 を使うことが多い
エステル・ラクトン ×(ごく遅い) — 大過剰・加熱(THF とメタノールの還流など)や、LiCl・CaCl2 の添加(系中で LiBH4 などができる)で第一級アルコールまで還元できる
カルボン酸 × (カルボン酸塩になる) 酸塩基反応で H2 が出てカルボキシラートになるだけ。NaBH4/I2 や NaBH4/BF3·OEt2 で系中にボランを作ると第一級アルコールまで還元できる
アミド × — アミン(C=O → CH2)にしたいなら LiAlH4 かボラン
ニトリル × — 遷移金属塩(CoCl2 など)を加えると還元される条件がある
孤立したアルケン・アルキン × — 極性の小さい C=C にはヒドリドが攻撃する求電子中心が無い
ニトロ基・エポキシド ×(通常) — 試験では「残る」と答えてよい。ニトロ基の還元には H2/Pd や Fe/HCl などを使う
よくある間違い
・「NaBH4 はエステルを絶対に還元しない」→ 通常の条件では還元しない、が正確。大過剰・加熱・添加剤で還元できる
・「NaBH4 で酸塩化物からアルデヒドが取れる」→ 取れない。アルデヒドはさらに還元される
・「カルボン酸も弱いながら還元される」→ 還元ではなく、まず酸塩基反応(H2 発生)が起きる

なぜエステル・カルボン酸・アミドは還元されにくいのか

ヒドリドが攻撃するのは、カルボニル炭素の正電荷(δ+)です。この δ+ を打ち消す要因が強いほど、穏やかな NaBH4 は攻撃できなくなります。

  • アルデヒド・ケトン:カルボニル炭素の隣は H か炭素だけ。δ+ を弱めるものが少なく、求電子性が高い。
  • エステル:アルコキシ基の酸素の孤立電子対が C=O に共鳴で流れ込み、δ+ が弱まる。
  • アミド:窒素は酸素より電気陰性度が小さく、孤立電子対をもっと強く供与する。δ+ はさらに弱く、カルボン酸誘導体の中で最も還元されにくい。
  • カルボン酸:まず O–H の酸性プロトンがヒドリドと反応して H2 が出て、カルボキシラート RCOO− になる。負電荷をもつカルボキシラートは、同じく負電荷をもつ BH4− を寄せ付けにくい。
  • 酸塩化物:塩素は孤立電子対を C=O にほとんど供与できず(3p 軌道と炭素の 2p 軌道の重なりが小さい)、誘起効果で電子を引くだけ。だからエステルと違って NaBH4 でも還元される。

この序列(酸塩化物 > アルデヒド > ケトン ≫ エステル > アミド)は、求核アシル置換の反応性の順と同じ根から来ています。NaBH4 はその途中、ケトンとエステルの間に「還元できる/できない」の線を引く試薬だと考えると整理できます。

NaBH4 の反応機構——ヒドリド移動とプロトン化

ケトンの還元を例に、電子対の動きを巻矢印で追います。反応は①ヒドリドの求核付加と②アルコキシドのプロトン化の2段階に分けて考えます。骨格はカルボニルへの求核付加そのもので、求核剤が「H−」になっただけです。

NaBH4によるケトン還元の反応機構。B–H結合の電子対がカルボニル炭素へ、C=OのπがOへ移る巻矢印で①ヒドリドの求核付加、アルコキシドが溶媒メタノールのHを受け取る②プロトン化を示す

ステップ1:B–H 結合の電子対がカルボニル炭素を攻撃する

1本目の巻矢印は B–H 結合の真ん中から始まり、カルボニル炭素に向かいます。これは「B–H 結合の電子対が H ごとカルボニル炭素へ移り、新しい C–H 結合になる」ことを表します。同時に2本目の巻矢印が C=O の π 結合から酸素へ伸び、酸素は負電荷をもつアルコキシドになります。

ここでカルボニル酸素は、溶媒のメタノールから水素結合を受けたり、Na+ に配位したりして、わずかに電子を引かれています。これがカルボニル炭素の δ+ を強め、穏やかなヒドリドでも攻撃できる状態を作ります。NaBH4 がプロトン性溶媒中でよく働く理由の一つです。なお上の式で BH3 を遊離した形で書いたのは電子の動きを見やすくするためで、実際には溶媒やアルコキシドとすぐに結合した状態にあります。

ステップ2:アルコキシドが溶媒からプロトンを受け取る

生じたアルコキシド R2CH–O− は、溶媒のメタノールやエタノールから H+ を受け取ってアルコールになります(一部はホウ素に結合したアルコキシボレートとして残り、後処理で遊離します)。C に付く H はホウ素から、O に付く H は溶媒(または後処理の水・酸)から——この区別が、後で扱う重水素標識の問題の鍵です。

1分子の NaBH4 で最大4回還元できる

1回ヒドリドを渡すと、ホウ素は H を3つ残したアルコキシボロヒドリド(RO–BH3−)になります。これもまだヒドリド源なので、次のケトンを還元できます。4つの H を順に使い切ると、最終的にテトラアルコキシボレート B(OR)4− になります。

  4 R2C=O  +  NaBH4   →   Na+ [B(OCHR2)4]−
  [B(OCHR2)4]−  →(後処理:水・酸)→  4 R2CH–OH  +  ホウ酸/ホウ酸塩

これは溶媒の関与を省いた形式的な量論式です。メタノール中ではホウ素上のアルコキシ基は溶媒と交換し、生成物の多くは反応中にアルコールとして遊離します。

つまり理論上は、ケトン 1 mol に NaBH4 0.25 mol で足ります。ただし実際には溶媒との反応(次の節)でヒドリドが目減りするので、理論量より多めに使うのが普通です。試験で「最低何 mol の NaBH4 が必要か」と聞かれたら、ヒドリド4個分で数えます。

溶媒の選び方——メタノール・水と反応して水素が出る理由

NaBH4 はプロトン性溶媒中で使える珍しいヒドリド還元剤ですが、プロトン性溶媒と「反応しない」わけではありません。ゆっくり反応して水素を出す、というのが正確な言い方です。

  メタノールとの反応:     NaBH4  +  4 CH3OH   →   NaB(OCH3)4  +  4 H2
  水との反応(加水分解):  NaBH4  +  2 H2O     →   NaBO2  +  4 H2

ヒドリド H− と溶媒の酸性プロトン H+ が出会うと、H2 になります。これは酸塩基反応で、カルボニルへの付加と競合しています。それでも NaBH4 がメタノール中で使えるのは、B–H 結合が穏やかで、溶媒との反応がカルボニルの還元より十分に遅いからです。LiAlH4 ではこの関係が逆転し、溶媒との反応が圧倒的に速いので、アルコールや水は溶媒にできません。

溶媒と分解の速さの関係

条件 NaBH4 の分解(H2 発生) 理由
酸性の水 速い(激しく泡立つ) ヒドリドと反応する H+(H3O+)が多い
メタノール 比較的速い(室温で泡が出る。カルボニルの還元よりは遅いので冷却して使う) アルコールの中では酸性度が高く、立体的にも小さい
エタノール・2-プロパノール メタノールより遅い アルキル基が大きいほど酸性度が下がり、かさ高くなる
塩基性の水(NaOH 水溶液) 遅い(安定化する) H+ が少ない。NaBH4 を NaOH 水溶液にした市販品があるのはこのため

実際の操作では、この競合を前提に条件を組みます。基質をメタノールかエタノールに溶かして0 °C に冷やし、NaBH4 を少しずつ加えるのが基本です。冷やすことで溶媒との反応を抑え、少しずつ加えることで水素の発生と発熱を穏やかにします。反応の遅い基質にメタノールを使うと、NaBH4 が還元に使われる前に溶媒に消費されてしまうので、エタノールや 2-プロパノール、THF との混合溶媒に替えることがあります。

「水との反応」で押さえること
・NaBH4 は水と反応して可燃性の水素を出す(禁水性の物質として扱う)
・酸があると速く、塩基性だと遅い
・水中で使えるのは「反応が遅いから」であって「反応しないから」ではない

立体選択性——どちらの面からヒドリドが入るか

シクロヘキサノン:小さいヒドリドはアキシアル側から

4-tert-ブチルシクロヘキサノンは、tert-ブチル基がエクアトリアルに固定された椅子形配座をとります。NaBH4 で還元すると、OH がエクアトリアルの trans-4-tert-ブチルシクロヘキサノールが主生成物になります。これは、ヒドリドがアキシアル側から攻撃した(H がアキシアルに入った)ことを意味します。

アキシアル側からの攻撃は、3位と5位のアキシアル水素の近くを通るので立体的には不利に見えます。それでも小さな BH4− がアキシアル側を選ぶのは、エクアトリアル側から近づくと、生じかけの C–H 結合が隣の C2・C6 のアキシアル C–H 結合と重なり形に近づいてねじれひずみが大きくなるからです。一方、L-Selectride(水素化トリ-sec-ブチルホウ素リチウム)のようにかさ高いヒドリドでは 3,5-ジアキシアル水素との立体反発が勝ち、エクアトリアル側から攻撃して OH がアキシアルの cis 体が主になります。

4-tert-ブチルシクロヘキサノンへのヒドリド攻撃。NaBH4(小さいヒドリド)はアキシアル攻撃でOHがエクアトリアルのtrans体、L-Selectride(かさ高い)はエクアトリアル攻撃でOHがアキシアルのcis体を与える椅子形の比較図

α 位に不斉中心があるケトン

カルボニルの隣に不斉炭素があるときは、どちらの面から攻撃するかで2つのジアステレオマーができます。どちらが主になるかは Felkin–Anh モデルで予測します。NaBH4 は「小さい求核剤」の代表例として、このモデルの演習によく登場します。

化学選択性を使い分ける——Luche 還元と仲間の試薬

エノンの 1,2-還元と 1,4-還元

α,β-不飽和ケトンには、ヒドリドが攻撃できる求電子中心が2つあります。カルボニル炭素(1,2-還元 → アリルアルコール)と β 炭素(1,4-還元 → 飽和ケトン)です。NaBH4 単独では両方が起こり、混合物になりやすい。

ここに塩化セリウム(III)七水和物 CeCl3·7H2O を加えるのが Luche 還元です。Ce3+ がメタノールと NaBH4 の反応(メタノリシス)を促して、よりハードなアルコキシボロヒドリドを生じさせ、ハードな求電子中心であるカルボニル炭素への 1,2-付加が選ばれます。この選択性は HSAB 則の枠組みで説明できます。

ケトエステル:ケトンだけを還元する

ケトンとエステルを両方もつ分子に NaBH4 を使うと、ケトンだけが還元されてヒドロキシエステルになります。LiAlH4 を使えば両方が還元されてジオールになります。「エステルを残してケトンだけ」は NaBH4 の代表的な使い道で、試験でもよく出ます。

ケトエステル4-オキソペンタン酸エチルの還元の比較。NaBH4はケトンだけを還元してヒドロキシエステル、LiAlH4はケトンとエステルの両方を還元してジオールを与える

なお、この例の生成物は γ-ヒドロキシエステルなので、条件によっては分子内でエステル交換を起こして γ-ラクトン(γ-バレロラクトン)になることがあります。生成物を問われたら、この可能性にも目を配ってください。

ホウ素の置換基を変えた仲間の試薬

BH4− の H を別の基に置き換えると、ヒドリドの「出しやすさ」とかさ高さが変わります。電子求引性の基(CN、OAc)を付けると B–H 結合の電子が引かれてヒドリド性が下がり、より穏やかになります。アルキル基を付けると電子供与で反応性が上がり、かさ高ければ立体選択性も高まります。

試薬 NaBH4 との違い 主な用途
NaBH3CN(シアノ水素化ホウ素ナトリウム) CN の電子求引で穏やか。弱酸性でも分解しにくい 還元的アミノ化(カルボニルは残しイミニウムイオンだけ還元)
NaBH(OAc)3(トリアセトキシ水素化ホウ素ナトリウム) アセトキシ基3つで穏やか。シアン化物を含まない 還元的アミノ化、ケトン共存下でのアルデヒドの選択的還元
LiBH4(水素化ホウ素リチウム) Li+ が Na+ より強いルイス酸としてカルボニル酸素を活性化する エステル → 第一級アルコール(アミドは残しやすい)
L-Selectride かさ高い sec-ブチル基3つ。反応性も高い 環状ケトンの立体選択的還元(アキシアル OH)
NaBH4/CeCl3(Luche 条件) Ce3+ がメタノリシスを促し、ハードなヒドリド源にする エノンの 1,2-還元

LiAlH4・DIBAL との使い分け

試験でよく問われるのが、3つのヒドリド還元剤のどれを選ぶかです。基準は「どこまで還元したいか」と「何を残したいか」の2つです。

項目 NaBH4 LiAlH4 DIBAL
還元力 穏やか 非常に強い 強い(低温で制御できる)
アルデヒド・ケトン アルコール アルコール アルコール
エステル 通常は還元しない 第一級アルコール −78 °C でアルデヒド/過剰・昇温でアルコール
カルボン酸 還元しない(塩になる) 第一級アルコール 反応しにくい
アミド 還元しない アミン 条件によりアルデヒドまたはアミン
ニトリル 還元しない 第一級アミン アルデヒド(加水分解後)
溶媒 MeOH、EtOH、THF/水 無水 THF、無水 Et2O 無水トルエン、THF、CH2Cl2
水・アルコール ゆっくり反応(溶媒にできる) 激しく反応(H2 発生・発火の危険) 激しく反応(無水条件が必要)
後処理 希酸か飽和 NH4Cl 水溶液で分解 → 抽出 Fieser 法などでアルミニウム塩を沈殿させてろ過 ロッシェル塩水溶液でゲルを防ぐ
選び方の目安
・アルデヒド・ケトンだけを還元したい(エステル・アミドは残す)→ NaBH4
・エステル・カルボン酸・アミドまで還元したい → LiAlH4
・エステルをアルデヒドで止めたい → DIBAL(−78 °C)
・エノンを 1,2-還元したい → NaBH4/CeCl3(Luche 還元)

LiAlH4 の機構と Fieser 後処理は水素化アルミニウムリチウム(LiAlH4)の解説で、DIBAL の部分還元が低温で止まる理由はDIBAL 還元の機構で扱っています。酸化と還元を酸化数で整理したい場合は有機酸化還元反応の解説も参考にしてください。

後処理(ワークアップ)のしかた

反応が終わった時点で、生成物の一部はホウ素に結合したアルコキシボレートとして存在し、未反応の NaBH4 も残っています。後処理の目的は、①残ったヒドリドを安全に分解し、②ホウ素から生成物のアルコールを切り離し、③ホウ素化合物を除くことです。

  1. 冷却したまま分解する:0 °C で希塩酸や飽和 NH4Cl 水溶液を少しずつ加える。残ったヒドリドが H+ と反応して水素が出るので、泡立ちが収まるのを見ながら加える。生成物が酸に弱い(アセタールなどをもつ)ときは、強い酸を避けて NH4Cl 水溶液か水を使うか、アセトンを先に加えて余ったヒドリドを消費させる。
  2. 溶媒を減らして抽出する:メタノールやエタノールは水と混ざって分液を妨げるので、必要に応じて減圧で除いてから、酢酸エチルなどで抽出する。
  3. ホウ素を除く:ホウ酸やホウ酸エステルが生成物に残るときは、メタノールを加えて濃縮する操作を繰り返す。ホウ素は揮発性のホウ酸トリメチル B(OCH3)3 として抜けていく。
なぜ酸を加えるのか
・酸の H+ が残ったヒドリドを速やかに水素に変える(塩基性だと分解が遅い)
・B–O 結合の加水分解を進め、生成物のアルコールを遊離させる
・LiAlH4 のようなゲル状の沈殿が生じにくく、後処理は比較的簡単

取り扱い上の注意と危険性

NaBH4 は LiAlH4 よりはるかに扱いやすい試薬ですが、安全な試薬ではありません。一般的な注意点は次のとおりです。具体的な区分や数値は、使う製品の SDS(安全データシート)で必ず確認してください。

  • 水・酸と接触すると水素を発生する:水素は可燃性のガスです。禁水性の物質として扱い、乾燥した場所で密閉保存します。
  • 密閉した容器の中で反応・分解させない:水素で圧力が上がります。後処理は換気の良いドラフト内で、少しずつ行います。
  • 強酸やルイス酸と不用意に混ぜない:水素が一気に出るうえ、毒性のあるジボラン(B2H6)が生じるおそれがあります。
  • 皮膚・眼に対して腐食性があり、飲み込むと有毒:手袋と保護眼鏡を着用し、粉じんを吸い込まないようにします。供給元の SDS には生殖毒性の区分も記載されています。
  • 廃液に試薬を残さない:残ったヒドリドは後処理で分解してから廃液に出します。

試験での問われ方

パターン1:生成物を書く(残る官能基を見抜く)

問:次の化合物を NaBH4(EtOH, 0 °C)で処理したときの主生成物を答えよ。
  (a) 4-ホルミル安息香酸メチル(OHC–C6H4–COOCH3)
  (b) 4-オキソペンタンアミド(CH3COCH2CH2CONH2)

→ (a) HOCH2–C6H4–COOCH3(アルデヒドのみ還元。エステルは残る)
   (b) CH3CH(OH)CH2CH2CONH2(ケトンのみ還元。アミドは残る)

ポイントは、エステル・アミドが「残る」と言い切れる理由を書けることです。アルコキシ基・アミノ基の孤立電子対がカルボニル炭素の δ+ を弱めるため、穏やかな NaBH4 では攻撃できません。

パターン2:重水素はどこに入るか

問:シクロヘキサノンを次の条件で還元した(後処理で水は加えないものとする)。
    生成物のどこに D が入るか答えよ。
  (a) NaBD4 / CH3OH      (b) NaBH4 / CH3OD

→ (a) C1 に D、ヒドロキシ基は O–H(C–D と O–H)
   (b) C1 は H、ヒドロキシ基は O–D(C–H と O–D)
   理由:炭素に付く水素はホウ素から(ヒドリド)、
         酸素に付く水素は溶媒から(プロトン)来るため

(b) の O–D は、後処理を H2O で行えば速やかに交換されて O–H に戻ります。C–D は交換しないので、標識が残るのは炭素側だけです。機構を2段階に分けて理解していれば、この問題は暗記なしで解けます。

パターン3:試薬を選ぶ

問:次の変換に適した試薬を選べ。
  (1) 2-シクロヘキセン-1-オン → 2-シクロヘキセン-1-オール
  (2) 安息香酸エチル → ベンジルアルコール
  (3) 安息香酸エチル → ベンズアルデヒド
  選択肢:ア NaBH4/CeCl3・MeOH イ LiAlH4/THF ウ DIBAL/トルエン, −78 °C

→ (1) ア(Luche 還元で 1,2-還元)
   (2) イ(エステルの完全還元)
   (3) ウ(低温で四面体中間体が壊れず、アルデヒドで止まる)

パターン4:立体化学を問う

「4-tert-ブチルシクロヘキサノンを NaBH4 と L-Selectride で還元したときの主生成物の立体を答え、理由を述べよ」という形で出ます。NaBH4 はアキシアル攻撃で trans 体(エクアトリアル OH)、L-Selectride はエクアトリアル攻撃で cis 体(アキシアル OH)。理由は「小さいヒドリドはねじれひずみを避けてアキシアル側から、かさ高いヒドリドは 3,5-ジアキシアル水素との立体反発を避けてエクアトリアル側から」です。

まとめ

NaBH4 のまとめ
・アルデヒド・ケトン・酸塩化物・イミンを還元し、エステル・カルボン酸・アミド・ニトリルは通常の条件では残す
・穏やかさの理由は B–H 結合の極性の小ささ。境界線はケトンとエステルの間
・機構はヒドリドの求核付加 → 溶媒からのプロトン化。1分子で最大4回還元できる
・メタノール・水とはゆっくり反応して水素を出す(酸で速く、塩基で遅く)
・エノンは Luche 還元、エステルの完全還元は LiAlH4、エステル → アルデヒドは DIBAL

試薬の全体像は有機化学の試薬を選ぶ基準で、カルボニル化合物の反応のまとめはアルデヒドとケトン:求核付加反応で確認できます。

参考文献

  • S. W. Chaikin, W. G. Brown, J. Am. Chem. Soc. 1949, 71, 122–125.(NaBH4 によるアルデヒド・ケトン・酸塩化物の還元)
  • H. I. Schlesinger, H. C. Brown ほか, J. Am. Chem. Soc. 1953, 75, 186 以下の連報.(NaBH4 の合成・加水分解と還元剤としての利用)
  • J.-L. Luche, J. Am. Chem. Soc. 1978, 100, 2226–2227.(Luche 還元)
  • J. Clayden, N. Greeves, S. Warren, Organic Chemistry, 2nd ed., Oxford University Press, 2012.

よくある質問

NaBH4でエステルは還元できますか?

通常の条件(メタノールやエタノール中、0 °C〜室温)ではほとんど還元されません。エステルのアルコキシ基の孤立電子対が共鳴でカルボニル炭素の正電荷を弱めるため、穏やかな NaBH4 のヒドリドでは攻撃しにくいからです。ただし大過剰の NaBH4 を加熱条件で使う方法や、LiCl・CaCl2 を加える方法では第一級アルコールまで還元できます。試験で特に条件が書かれていなければ「エステルは残る」と答えます。

NaBH4は水と反応しますか?

反応します。NaBH4 のヒドリドが水のプロトンと反応して水素(可燃性ガス)を発生し、ホウ酸塩になります。ただし B–H 結合の反応性が穏やかなので、中性〜塩基性の水やアルコールとの反応はゆっくりで、カルボニルの還元のほうが先に進みます。酸性では分解が速く、塩基性では遅くなります。水中で使えるのは「反応しないから」ではなく「反応が遅いから」です。

NaBH4とLiAlH4の違いは何ですか?

最大の違いは還元力と使える溶媒です。LiAlH4 は Al–H 結合の極性が大きく、エステル・カルボン酸・アミド・ニトリルまで還元しますが、水やアルコールと激しく反応するので無水のエーテル系溶媒でしか使えません。NaBH4 は B–H 結合の極性が小さく、アルデヒド・ケトンを中心に還元し、メタノールやエタノールを溶媒にできます。「エステルを残してケトンだけ還元したい」ときは NaBH4 を選びます。

NaBH4の還元でメタノールやエタノールを溶媒に使うのはなぜですか?

第一に、NaBH4 がよく溶けるからです(ジエチルエーテルやヘキサンにはほとんど溶けません)。第二に、アルコールの水素結合がカルボニル酸素を活性化し、ヒドリドの攻撃を助けるからです。第三に、生じたアルコキシドにプロトンを渡してアルコールにする役割も担います。メタノールは NaBH4 との反応も速いので、反応の遅い基質ではエタノールや 2-プロパノールを使うことがあります。

NaBH4は1分子で何分子のケトンを還元できますか?

理論上は4分子です。BH4− は4つの B–H 結合をもち、ヒドリドを1つ渡すたびにアルコキシボロヒドリドとなって、残りのヒドリドも次のケトンの還元に使えるからです。そのためケトン 1 mol に対して NaBH4 は理論上 0.25 mol で足ります。実際の実験では溶媒との反応でヒドリドが消費されるので、理論量より多めに使います。