有機化学の授業では、最初に「メタンは sp3 混成だから正四面体」と習います。この説明がどの理論に立っているかを意識したことはあるでしょうか。実はこれは原子価結合法(Valence Bond theory, VB法)という考え方です。

この記事の答え
原子価結合法とは、化学結合を「2つの原子の軌道が重なり、そこに電子が対になって入ること」として説明する理論です。構造式の線1本=電子対1組を、量子力学の言葉で裏づけたものです。

一方で、共役ジエンの反応性やフロンティア軌道の話になると、急に分子軌道法(MO法)が出てきます。2つの理論が混在しているのに、どちらをいつ使うかは説明されないまま進みがちです——ここが混乱のもとです。

この記事では、VB法が何を説明するために作られ、どこまで説明でき、どこで限界が来るのかを整理します。軸にするのは「VB法は電子を結合に置き、MO法は電子を分子全体に置く」という1点です。違いはすべてここから出てきます。

この記事で学ぶこと
・原子価結合法とは何か(ルイスの電子対を量子力学で説明した理論)
・Heitler–London(1927)が水素分子で示したこと、なぜ電子は「対」になるのか
・ポーリングの混成軌道と共鳴が、VB法のどこから必要になったのか
・分子軌道法との違い(水素分子の波動関数で比べる・比較表)
・酸素分子とメタンの光電子スペクトルで、両者の説明がどう分かれるか

原子価結合法とは——電子は原子に属したまま

原子価結合法は、化学結合を「2つの原子軌道が重なって、そこに電子対が入ること」として説明する理論です。1927年にハイトラーとロンドンが水素分子に量子力学を適用して示し、ライナス・ポーリングが有機化合物へ展開しました。

この理論の最大の特徴は、電子が「どの原子のものか」という感覚を保っていることです。H–H 結合なら、左の水素の 1s 電子と右の水素の 1s 電子が、重なった領域で対を作る。ルイス構造式の「・・」を、そのまま軌道の言葉に翻訳したものだと考えると分かりやすくなります。

背景には、1916年に G. N. Lewis が提案した「共有結合は2原子が共有する電子対である」という考えがあります。ルイスの考えは多くの分子をうまく説明しましたが、なぜ電子が2個で対になると結合ができるのかには答えられませんでした。古典的に考えると、電気的に中性な水素原子どうしが強く引き合う理由が見当たらないからです。原子価結合法は、この「なぜ」に量子力学で答えた理論です。ルイス構造の書き方はLewis構造とKekulé構造で確認できます。

なぜ重なると安定になるのか
・軌道が重なると、2つの核の間に電子密度が集まる
・負電荷の電子が、正電荷の核2つを同時に引きつけるので安定化する
・重なりが大きいほど結合は強い(=結合エネルギーが大きい)

Heitler–London(1927)——水素分子で何が示されたか

ハイトラーとロンドンは、水素分子の2個の電子(電子1・電子2)を次のような波動関数で表しました。φA は水素原子 A の 1s 軌道、φB は水素原子 B の 1s 軌道です。

Heitler–London の水素分子の模式図。2つの水素原子の 1s 軌道が近づいて重なり、重なった領域(核間)に電子密度が集まる。電子1が A・電子2が B の第1項と、電子を入れ替えた第2項を足した ψVB = φA(1)φB(2) + φA(2)φB(1) が結合を与える

ポイントは第2項です。電子は区別できないので、「電子1が A、電子2が B」と「その逆」を両方含めなければなりません。この入れ替えの項を足したことで、2つの原子が近づいたときにエネルギーが下がり、ある核間距離で極小になる——つまり結合ができることが計算で示されました。安定化の大部分はこの入れ替えに由来する項(交換積分)から来ていて、古典的な静電気の引力だけでは出てこないものです。得られた結合エネルギーは実測値に届きませんでしたが、結合の原因を初めて量子力学から説明した点が画期的でした。

なぜ電子は「対」でなければならないのか

上の波動関数(入れ替えて足す形)が使えるのは、2個の電子のスピンが逆向きのときだけです。パウリの原理により、電子の入れ替えに対して全体の波動関数は符号が反転しなければならないからで、空間部分を「足す」形にするなら、スピン部分は逆向きの組(一重項)になります。

スピンが同じ向きの2電子では、空間部分は「引く」形になり、核と核の間の電子密度がかえって減ります。すると原子どうしは反発するだけです。ルイスの「電子対が結合をつくる」という経験則は、こうしてスピンを逆にそろえた2電子だけが核間に集まれるという量子力学の帰結として理解できます。He 原子どうしが結合しないのも、He には対を作れる不対電子が残っていないからだ、とVB法では説明します。

σ結合とπ結合——重なり方の違いがすべて

VB法で便利なのは、結合の種類を「どう重なったか」で区別できることです。

  σ結合 π結合
重なり方 結合軸に沿って正面から 結合軸の上下で側面から
重なりの大きさ 大きい → 強い 小さい → 弱い
結合軸まわりの回転 自由に回れる 回せない(回すと重なりが消える)
化学的な意味 骨格を作る 反応する側(アルケンのπ結合は求核剤として働く)

π結合が回せないという一点から、アルケンの cis/trans 異性が出てきます。π結合が弱いという一点から、二重結合が求電子剤に攻撃される理由が出てきます。VB法の説明力がよく効くのは、こうした場面です。σ結合とπ結合の違いそのものはσ結合とπ結合の違いでも扱っています。

混成軌道——素のままの原子軌道では形が合わない

VB法には最初から1つ困った点がありました。炭素の基底状態の電子配置は 1s2 2s2 2p2 で、不対電子は2個しかありません。そのままでは結合は2本しか作れず、メタン CH4 が説明できないのです。しかも 2p 軌道どうしは直交しているので、結合角は90°になってしまいます。

ここで導入されたのが混成軌道です。まず 2s の電子1個を空いている 2p へ昇位(プロモーション)させて 2s1 2p3 とし、不対電子を4個にしてから軌道を混ぜます。1931年にポーリング(と、独立にスレーター)が、2s と 2p を混ぜて特定の方向に大きく張り出した軌道を作れば、相手の軌道との重なりが大きくなり、結合が強くなることを示しました。VB法では「重なりが大きいほど結合が強い」ので、結合は重なりが最大になる向きに伸びる——これが混成で結合の向き(角度)が決まる理由です。本数と角度の両方が実測に合います。

混成 形と結合角 例
sp3 正四面体・109.5° メタン、アルカン
sp2 平面三角形・120°(+π結合1本) エチレン、カルボニル、ベンゼン
sp 直線・180°(+π結合2本) アセチレン、ニトリル

混成は実験事実に合わせるために導入された記述の道具であって、炭素が反応前に「混成する」という物理的な過程があるわけではありません。ここは誤解されやすい点です。sp3・sp2・sp の見分け方や s性の効き方は混成軌道の記事で扱っています。

共鳴——1枚の絵で足りないときの補正

VB法では「どの電子対がどの2原子の間にあるか」を決めて描きます。ところがベンゼンやカルボキシラートのように、電子が特定の2原子に収まっていない分子があります。

VB法はこれを共鳴で扱います。複数の構造式を書き、実際の分子はその重ね合わせ(共鳴混成体)だとする方法です。1本1本の線にこだわる理論だからこそ、はみ出す分を複数の絵で補う必要が出てきます。

ここで「重ね合わせ」は比喩ではありません。Heitler–London の波動関数が「電子1が A・電子2が B」と「その逆」を足したものだったのと同じく、ベンゼンの VB 波動関数は2つのケクレ構造に対応する波動関数を足したもの(さらに寄与の小さいデュワー構造なども加える)として組み立てられます。足し合わせた状態のエネルギーはどちらの構造単独よりも低くなり、その差が共鳴エネルギーです。ベンゼンが異常に安定な理由をVB法はこう説明します。水素化熱から共鳴エネルギーを見積もる方法はベンゼンの共鳴エネルギーとπ分子軌道にあります。

ポーリングはこの考え方をイオン性にも広げ、共有結合の構造とイオン結合の構造(H–Cl と H+Cl−)の重ね合わせとして極性結合を扱いました。そこから生まれたのが電気陰性度の尺度です。有機化学で毎日使う電気陰性度も、VB法の産物だということになります。

共鳴構造は「行ったり来たり」ではない
・ベンゼンは2つのケクレ構造の間を往復しているのではない
・どちらでもない、1つの状態が常にある(それを2枚の絵で近似している)
・くわしくは共鳴の記事へ

分子軌道法との違い

分子軌道法は、はじめから分子全体に広がる軌道を考えます。電子は特定の2原子の間ではなく、分子全体に属します。1920年代後半にフントとマリケンらが発展させ、1931年にはヒュッケルがベンゼンなどのπ電子系に応用しました。マリケンは分子軌道法の業績で1966年に、ポーリングは化学結合の本性の研究で1954年に、それぞれノーベル化学賞を受けています。

水素分子で比べると違いがはっきりする

同じ水素分子を、MO法では「2つの 1s を足した結合性軌道 σ に、電子2個を入れる」と考えます。この波動関数を展開すると、VB法との違いが式の上で見えます。

水素分子のVB法とMO法の波動関数の比較図。VB法は共有結合の2項だけ、MO法は展開すると共有結合の2項とイオンの2項(H−H+ と H+H−)を同じ重みで含む。結合を引き離すと、VB法は中性の2原子になるが、単純なMO法は半分が H+ と H− のイオン対になるという誤りを含む

単純なMO法は、2個の電子が同じ原子に集まった「イオンの構造」を、共有結合の構造と同じ重みで含んでいます。一方、単純なVB法はイオンの構造をまったく含みません。

この差がはっきり出るのは、結合を引き伸ばして切るときです。水素分子を引き離せば、2個の中性の水素原子になるはずです。VB法の波動関数はその通りになりますが、単純なMO法の波動関数は、引き離しても半分は H+ と H− のイオン対になるという誤った答えを出します。逆に平衡距離付近では、実際の分子にもイオンの構造がいくらか混ざっているので、イオンの項をまったく持たない単純VB法もそのままでは不十分です。

どちらも改良できます。VB法にイオンの構造を適当な重みで加える、MO法に別の電子配置を混ぜる(配置間相互作用)——こうして近似を上げていくと、2つの理論は同じ答えに近づきます。VB法とMO法は「どちらが正しいか」を争う理論ではなく、同じ真の波動関数に、別の出発点から近づく2つの近似なのです。

  原子価結合法(VB法) 分子軌道法(MO法)
電子の居場所 2原子の間(局在) 分子全体(非局在)
出発点 原子の軌道と電子対(ルイス構造) 原子軌道の線形結合(LCAO)でできる分子軌道
水素分子の単純な波動関数 共有結合の項のみ 共有結合の項+イオンの項(同じ重み)
結合を切ったとき 正しく中性原子2個になる 単純な形ではイオン対が半分混ざる
非局在の扱い 共鳴(複数の構造の重ね合わせ) 最初から非局在した軌道として扱う
得意なこと 形・結合角・立体の説明 反応性・スペクトル・非局在の説明
構造式との相性 よい(線=電子対) 悪い(線に対応しない)
有機化学での使われ方 混成・立体配座・巻矢印 HOMO/LUMO・ペリ環状反応

どちらが正しいかという問いは立ちません。どちらも近似であり、同じ分子の別の側面を切り取っています。有機化学者が両方を使い分けるのは、場面ごとに「安く正しい答えが出る方」を選んでいるからです。MO法の組み立て方(LCAO・結合次数)は分子軌道法の記事で扱っています。

VB法の限界——酸素分子で外す

VB法の限界としてよく挙げられるのが酸素分子 O2 です。

ルイス構造式では O=O と書き、すべての電子が対になっています。ルイス構造をそのまま軌道に置き換える単純なVB法の描像でも、電子はすべて対になります。ところが実際の酸素分子は常磁性——磁石に引きつけられます。これは不対電子が2個あることを意味し、この描像と矛盾します。

分子軌道法では、2つの縮退したπ*軌道に電子が1個ずつ入る(フントの規則)と自然に説明できます。非局在した軌道を最初から考える理論なら、特別な工夫なしに出てくる——これがMO法が必要とされる理由です。なお、VB法でも構造の取り方を工夫すれば酸素の三重項状態は扱えます。「VB法では原理的に不可能」というより、「電子を対にして描く素朴なVB法では見落とす」と理解するのが正確です。

メタンの光電子スペクトル——「4本の等価な結合」はどこへ行ったか

もう1つの有名な例がメタンです。混成軌道の描像では、メタンには等価な sp3–1s 結合が4本あります。ところが、メタンから電子を1個たたき出すのに必要なエネルギーを測る光電子スペクトルでは、イオン化エネルギーが4本同じ1種類ではなく、2種類観測されます。

MO法ではこれが自然に出てきます。メタンの結合性分子軌道は、炭素の 2s から主にできた1つの軌道と、2p からできた3つの等エネルギーの軌道に分かれるからです。では混成軌道は間違いかというと、そうではありません。MO法の占有軌道を組み替えて局在化させると、4本の等価なC–H結合軌道が得られ、全体のエネルギーや電子密度は変わりません。「分子全体の性質」はどちらで書いても同じ、「電子を1個取り出す」ような1電子の性質は非局在した軌道で見るほうが合う——両者の役割分担がよく分かる例です。

使い分けの目安
・形を考えるとき(結合角・立体配座・不斉)→ VB法(混成軌道)
・反応性を考えるとき(求核剤と求電子剤・環化付加)→ MO法(フロンティア軌道)
・非局在が本質のとき(芳香族性・共役)→ MO法

院試・定期試験での問われ方

原子価結合法は、有機化学だけでなく物理化学・量子化学の科目でも扱われるテーマです。出題の型は次のように分けられます。

・水素分子の波動関数:VB法とMO法の波動関数を書き、展開してイオンの項の有無を比べさせる。解離極限での振る舞いの違いまで問われることがある。
・酸素分子の磁性:ルイス構造(単純なVB描像)とMO法で説明がどう違うかを答えさせる。分子軌道法の記事の結合次数とあわせて押さえておくとよい。
・混成と分子の形:メタン・エチレン・アセチレンの結合を、混成軌道とσ・π結合の言葉で説明させる。
・共鳴:ベンゼンやカルボキシラートの安定性を、VB法(共鳴)とMO法(非局在軌道)の両方で説明させる。

例題:水素分子のVB波動関数とMO波動関数の違いを、結合を引き伸ばしたときの振る舞いから説明せよ

VB法(Heitler–London)の波動関数は φA(1)φB(2) + φA(2)φB(1) で、各原子に電子が1個ずついる共有結合の配置だけを含みます。MO法の波動関数 [φA(1)+φB(1)][φA(2)+φB(2)] を展開すると、この共有結合の項に加えて、2電子が同じ原子に乗ったイオンの項 φA(1)φA(2) + φB(1)φB(2) が同じ重みで含まれます。
結合を引き伸ばして無限に離すと、実際には中性の水素原子2個になります。VB法はこれを正しく再現しますが、単純なMO法ではイオン対 H++H− が半分混ざった誤った状態になります。どちらも、イオンの項の重みを調整する(VB法)、別の電子配置を混ぜる(MO法)ことで改良でき、改良すると同じ答えに近づきます。

まとめ

原子価結合法のまとめ
・考え方:結合=2つの原子軌道が重なり、そこに電子対が入る
・Heitler–London:電子の入れ替えの項が結合をつくり、スピンを逆にした対だけが結合できる
・混成軌道と共鳴:結合の向きと、1枚で書けない非局在を補うためのポーリングの道具
・MO法との違い:単純VBはイオンの項なし、単純MOはイオンの項を等しく含む。改良すれば同じ答えに近づく
・限界:酸素分子の常磁性や光電子スペクトルなど、非局在が本質の現象は素朴なVB法では見落とす

有機化学で日常的に使う「混成」「巻矢印」「共鳴」は、すべてVB法の言葉です。その土台を知っておくと、なぜ途中からMO法が出てくるのか、そしてどちらの言葉で考えるべきかが判断できるようになります。

参考文献

  • G. N. Lewis, J. Am. Chem. Soc. 1916, 38, 762–785.
  • W. Heitler, F. London, Z. Phys. 1927, 44, 455–472.
  • L. Pauling, J. Am. Chem. Soc. 1931, 53, 1367–1400.
  • L. Pauling, The Nature of the Chemical Bond, Cornell University Press, 1939.
  • P. Atkins, J. de Paula, Atkins’ Physical Chemistry, Oxford University Press(原子価結合法・分子軌道法の章).

よくある質問

原子価結合法と分子軌道法はどちらが正しいのですか?

どちらも近似であり、正しさを競って比べるものではありません。原子価結合法は電子対を2原子の間に局在させて考えるため、結合角や立体構造の説明に向きます。分子軌道法は分子全体に広がる軌道を考えるため、非局在・反応性・スペクトルの説明に向きます。どちらも近似を上げていくと同じ答えに近づき、有機化学では場面に応じて両方を使い分けます。

なぜ混成軌道という考えが必要なのですか?

炭素の基底状態の電子配置では不対電子が2個しかなく、結合を4本作れないからです。さらに 2p 軌道どうしは直交しているため、そのままでは結合角が90度になり、メタンの109.5度と合いません。そこで 2s の電子1個を 2p へ昇位(プロモーション)させて不対電子を4個にし、2s と 2p を混ぜた等価な軌道を考えることで、結合の本数と角度の両方が実測と一致します。

σ結合とπ結合はどちらが強いのですか?

σ結合のほうが強くなります。σ結合は結合軸に沿って軌道が正面から重なるため重なりが大きく、π結合は軸の上下で側面から重なるため重なりが小さいからです。二重結合が単結合の2倍の強さにならないのはこのためで、π結合が弱いことが、アルケンが求電子剤に攻撃されやすい理由にもなっています。

酸素分子で原子価結合法が合わないのはなぜですか?

実際の酸素分子は常磁性で、不対電子を2個もっています。しかしルイス構造をそのまま軌道に置き換えた単純な原子価結合法では O=O と書き、すべての電子が対になっている描像になるため、この磁性を説明できません。分子軌道法では、縮退した2つの反結合性π軌道に電子が1個ずつ入ると考えることで、常磁性が自然に導かれます。

有機化学ではどちらを使えばよいですか?

形を考えるときは原子価結合法、反応性を考えるときは分子軌道法が目安です。立体配座・結合角・不斉中心の議論では混成軌道の言葉が有効で、求核剤と求電子剤の組み合わせやペリ環状反応ではHOMOとLUMOの言葉が必要になります。巻矢印は原子価結合法の言葉ですが、その背景にある軌道の重なりはMO法で理解すると深まります。