デレク・バートン完全解説|コンフォメーション解析の業績
1950年、デレク・バートンはわずか4ページの論文を発表した。その論文は有機化学の常識を塗り替え、のちに20世紀の有機化学において最も重要な論文のひとつと評されるようになる歴史的な一篇となった。テーマは「コンフォメーション」——分子の立体配座が化学反応性を決定するという、それまで誰も体系的に示していなかった概念だ。
シクロヘキサンのいす形配座において、置換基がアキシャル位にあるかエクアトリアル位にあるかで、反応の進行速度や立体選択性が劇的に変わる。バートンはこの事実を明確に示し、構造化学と反応化学を橋渡しする新しい視点を有機化学にもたらした。
生涯と略歴
デレク・ハロルド・リチャード・バートン(Derek Harold Richard Barton)は1918年9月8日、イギリス・ケント州グレイブセンドに生まれた。父親は大工であり、裕福ではない環境で育ったが、化学への興味は幼少期から際立っていた。
ロンドン大学インペリアル・カレッジで化学を学び、1942年に博士号を取得。第二次世界大戦中は軍の調査機関に従事した後、アカデミアへ戻り研究を本格化させた。1945年にはインペリアル・カレッジの講師となり、1949〜50年にはハーバード大学の客員講師を務めた。その後バークベック・カレッジ(Reader・教授)、グラスゴー大学(Regius教授)、インペリアル・カレッジの教授職を歴任した。1978年からはフランスのCNRS(国立科学研究センター)に拠点を移し、晩年の1986年以降はテキサスA&M大学で研究を続けた。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1918 | イギリス・ケント州グレイブセンドに誕生 |
| 1942 | ロンドン大学インペリアル・カレッジにて博士号取得 |
| 1945 | インペリアル・カレッジ講師に就任 |
| 1949–50 | ハーバード大学客員講師(この滞在中に1950年論文を着想) |
| 1950 | コンフォメーション解析の基礎論文を発表(Experientia誌) |
| 1950–55 | バークベック・カレッジ Reader、のち教授(1953) |
| 1955 | グラスゴー大学 教授(Regius Professor)に就任 |
| 1957 | インペリアル・カレッジ 有機化学教授に就任 |
| 1960 | バートン反応(ニトライト光分解)を報告 |
| 1969 | オッド・ハッセルとともにノーベル化学賞を受賞 |
| 1978 | フランスCNRS ジフ=シュル=イヴェット研究所長 |
| 1986 | テキサスA&M大学教授に就任 |
| 1998 | テキサス州カレッジステーションにて逝去(享年79) |
コンフォメーション解析の発見
1950年の歴史的論文
1950年以前、有機化学者はシクロヘキサンがいす形(chair form)とふね形(boat form)に変化できることを知っていた。しかしそれが「反応性にどう影響するか」を体系的に論じた研究者はいなかった。
バートンは当時ハーバード大学で行っていたステロイドの研究中に、異なるステロイド異性体が驚くほど異なる反応性を示すことに気づいた。彼はその観察を一般化し、シクロヘキサン環の置換基がアキシャル(axial)位にあるかエクアトリアル(equatorial)位にあるかが、反応の起きやすさを左右するという原理を提唱した。
シクロヘキサンのいす形配座:
エクアトリアル位(e) アキシャル位(a)
↑ |
e | e a
\ | / |
C -- C -- C |
/ | \ (立体反発あり)
e | e
a(アキシャル:環平面に対してほぼ垂直)
e(エクアトリアル:環平面に対してほぼ水平)
→ 大きな置換基はエクアトリアル位を好む(1,3-ジアキシャル反発を避けるため)
バートンはこの原理をステロイドの反応性データと照合し、観察事実を見事に説明した。4ページの短報にもかかわらず、この論文は有機化学の方向性を一変させた。
コンフォメーションが支配する反応性
バートンは、trans-デカリン(trans-decalin)とcis-デカリン(cis-decalin)のような二環式化合物でも、コンフォメーションが反応性を決定することを示した。
コンフォメーションと求核置換反応の例: アキシャル位の脱離基(OTs など) → SN2反応が困難(後ろからの攻撃に立体障害) → E2脱離では trans-ジアキシャル配置が必要 エクアトリアル位の脱離基 → SN2が比較的進行しやすい E2脱離の立体電子要件(アンチペリプラナー則): H と脱離基が trans-ジアキシャル(反平行)配置にあるとき E2 が最速
バートン反応(Barton Reaction)
ニトライト光分解による遠隔C-H官能基化
1960年、バートンは「バートン反応」と呼ばれる独創的な反応を報告した。アルコールをニトリットエステル(O–NO)に変換し、紫外線照射によってラジカル連鎖反応を起こすと、空間的に近接した(≈4Å以内の)C–H結合を選択的に官能基化できる。
Barton反応の概要:
1. ROH + NOCl → RONO(ニトリットエステル形成)
2. RONO -(hν)→ RO· + ·NO
(光照射でO-N結合が均等開裂)
3. RO· → 空間的に近い C-H を水素引き抜き(6員環遷移状態)
↓
炭素ラジカル(C·) + ·NO → C-NO(ニトロソ化合物)
4. C-NO → C=N-OH(オキシム)へ互変異性
→ 遠隔の(δ位)C-H結合をアルコール性OHから4ステップで官能基化!
この反応の画期的な点は、通常の試薬が到達できない「分子内の遠隔位」を官能基化できることだ。特にステロイド合成における選択的C-H変換に威力を発揮し、医薬品合成の強力なツールとなった。
ステロイド化学への貢献
バートンのコンフォメーション解析は、ステロイドという複雑な多環式化合物の反応性理解に革命をもたらした。ステロイド骨格(4つの縮合環)の各置換基がアキシャル/エクアトリアルのどちらにあるかで、反応性が数十倍以上変わることが明らかになった。
ステロイド骨格の基本コンフォメーション:
CH3 CH3
| |
A -- B -- C -- D (A〜D:4つの縮合環)
/ \
OH (各環がいす形を保つことで全体的な平面構造に近い)
trans-A/B 接合 → より平面的(安定)
cis-A/B 接合 → ひずみが大きく反応性が高い
1969年ノーベル化学賞
バートンは1969年、オッド・ハッセル(ノルウェー)と共同でノーベル化学賞を受賞した。ノーベル委員会は「有機分子のコンフォメーション概念の発展と、その化学への応用」を受賞理由として挙げた。
バートン自身は、「ハッセルの物理化学的知見を化学反応性の文脈に翻訳することが自分の役割だった」と語っている。
晩年の研究:ラジカル化学と触媒開発
バートンはノーベル賞受賞後も精力的に研究を続けた。フランスのCNRSでは有機ラジカル反応の開拓を続け、鉄触媒を用いた活性酸素種(Fenton様反応)による炭化水素の酸化にも取り組んだ。
テキサスA&M大学時代(1986–1998)には、80歳近くになっても年間数十本の論文を精力的に発表・指導した。生涯で発表した論文数は1000本を超える。
現代への影響
コンフォメーション解析はすべての有機反応の立体選択性理解に不可欠。医薬品の活性・選択性設計の基盤となっている。
ステロイド・テルペン・アルカロイドなど複雑な天然物の全合成において、コンフォメーション制御が合成戦略の核心を担う。
バートン反応はアルドステロンをはじめとする副腎皮質ホルモン類の合成に実用化され、製薬産業に貢献した。
