速度論支配と熱力学支配とは|ブタジエン付加とDiels-Alderのendo/exo
同じ原料、同じ試薬。なのに、反応を 0 °C で行うと生成物Aが、40 °C で行うと生成物Bが主になる——有機化学にはこうした反応があります。温度を変えただけで、まるで別の反応のように結果が変わるのです。
読み解くカギが速度論支配と熱力学支配です。「速くできる生成物」と「安定な生成物」が食い違うとき、どちらが勝つかを決める考え方で、主生成物を予測する力がそのまま得点になります。
そして本当の主役は温度ではありません。反応が後戻りできるかどうかです。ここを掴むと、条件を見ただけで答えが決まるようになります。
2つの生成物——「速い」と「安定」は別物
ある原料から生成物Aと生成物Bができるとします。次の2つは、必ずしも一致しません。
速度論生成物(kinetic product)は活性化エネルギーが低く速くできるほう、熱力学生成物(thermodynamic product)はより安定なほうです。この2つが独立に決まることは反応速度と化学平衡の違いで扱いました。本記事はその独立性が目に見える形で現れる場面を扱います。
反応座標図で見る
原料から2つの生成物へ分岐する図を思い浮かべてください。速度論生成物へ向かう山は低いが、できた谷は浅い。熱力学生成物へ向かう山は高いが、谷は深い。山の高さと谷の深さが逆転しているのが、この問題の構図です。
勝敗を決めているのは可逆性
「低温なら速度論、高温なら熱力学」と覚えている人は多いのですが、温度は原因ではなく手段です。本当のスイッチは可逆性にあります。
| 条件 | 起きていること | 主生成物 |
|---|---|---|
| 低温・短時間 | 低い山しか越えられず、生成物は戻れない | 速度論生成物 |
| 高温・長時間 | 逆反応も進み、系が平衡に達する | 熱力学生成物 |
低温では越えられるのが低い山だけで、いったんできた生成物は谷から出られません。先に着いたものが、そのまま残るのです。高温になると逆反応も起こり、生成物と原料を行き来しながら、系全体がいちばん深い谷へ落ち着いていきます。
実例①——共役ジエンへのHX付加
最も有名な例です。1,3-ブタジエンに HBr を1分子付加させると、共通のアリルカチオン中間体を経て、1,2-付加体と1,4-付加体に分かれます。
| 温度 | 1,2-付加体 | 1,4-付加体 | 支配 |
|---|---|---|---|
| 0 °C | 71 % | 29 % | 速度論 |
| 40 °C | 15 % | 85 % | 熱力学 |
数値は McMurry, Organic Chemistry 9th Ed. §14.3 によります(教科書によって挙げる温度と比の値は少し異なりますが、低温で1,2-付加体、高温で1,4-付加体という向きは共通です)。
なぜ 1,2-付加体のほうが速くできるのか。アリルカチオンの正電荷は2つの炭素に非局在化していますが、臭化物イオンは生まれた場所のすぐ隣にいます。距離が近いぶん、そちらへの結合形成が速いのです。
一方、安定なのは 1,4-付加体です。二重結合がより多置換になるためで、これはアルケンの安定性の一般則どおりです。低温では戻れないので速いほうが残り、高温では C−Br 結合が切れてアリルカチオンへ戻れるようになるため、安定なほうへ集まります。
実例②——エノラートの位置選択
合成で日常的に使われるのがこちらです。非対称なケトン(たとえば 2-メチルシクロヘキサノン)には、脱プロトンできる α位が2か所あります。どちらのエノラートを作るかを、条件だけで選び分けられます。
| 条件 | できるエノラート | 理由 |
|---|---|---|
| LDA / THF / −78 °C (強く、かさ高い塩基を1当量) |
置換基の少ない側(速度論的エノラート) | 混んでいない水素のほうが引き抜きやすい。脱プロトンが不可逆 |
| NaOEt / EtOH / 室温 (弱い塩基を触媒量) |
置換基の多い側(熱力学的エノラート) | 脱プロトンが可逆。より多置換の C=C が安定 |
ここでも決め手は可逆性です。LDA はケトンより圧倒的に強い塩基なので、引き抜いたプロトンを返しません。だから「速く抜けたほう」が固定されます。アルコキシドは塩基性が近いため脱プロトンが行き来し、平衡が安定なエノラートへ寄ります。エノラートそのものについてはケト-エノール互変異性で扱っています。
実例③——スルホン化の可逆性を道具にする
芳香族求電子置換のうち、スルホン化だけは容易に可逆です。濃硫酸・加熱で入り、希硫酸・水蒸気で外れます。
この性質はブロッキング基として使われます。パラ位を一時的にスルホ基で塞いでおけば、次の置換をオルト位へ誘導できます。用が済んだら加水分解で外す——可逆性を弱点ではなく道具にした代表例です。他の求電子置換(ニトロ化・ハロゲン化)が事実上不可逆で、この芸当ができないことと対比してください。
実例④——Diels–Alder の endo/exo
シクロペンタジエンと無水マレイン酸の反応では、低温で endo 体が優先します。二次軌道相互作用によって遷移状態が安定化されるためで、これは速度論生成物です。
ところが立体的には exo 体のほうが空いていて安定です。高温で長時間加熱すると逆 Diels–Alder が起こり、exo 体へ移ります。「endo 則は速度論の話であって、安定性の話ではない」——ここが院試で問われる勘どころです。
判定の手順
手順4がすべてです。低温・短時間・強い塩基・不可逆な出口(気体の発生・沈殿・芳香族化)があれば速度論支配、高温・長時間・触媒量の塩基・可逆な結合形成なら熱力学支配と判断します。
大学院入試での問われ方
「0 °C と 40 °C で主生成物が異なる理由を述べよ」
→ 低温では逆反応が起こらず速く生成した側が残る。高温では平衡に達する
「LDA を用いる理由を述べよ」
→ かさ高く強い塩基で脱プロトンが不可逆。速度論的エノラートを固定できる
「この反応を加熱しても生成物比が変わらなかった。なぜか」
→ 反応が不可逆だから。熱力学支配には可逆性が必要
「endo 体が主生成物である理由は endo 体が安定だからか」
→ 違う。遷移状態が二次軌道相互作用で安定化されるため(速度論生成物)
まとめ
ここで見た「速くできる」がどう測られるのかは律速段階と反応次数、遷移状態が何に似るかの予測はハモンドの仮説で扱っています。
よくある質問
速度論生成物は活性化エネルギーが低く、速くできるほうの生成物です。熱力学生成物は生成物自体のエネルギーが低い、より安定なほうの生成物です。山の高さと谷の深さは独立に決まるため、この2つはしばしば別の化合物を指します。両者が食い違うときに、条件によって主生成物が入れ替わる現象が起こります。
なりません。熱力学支配が成立するのは反応が可逆になった場合だけです。生成物から原料へ戻れなければ、いくら加熱しても並べ替えは起こらず、速く生成した側がそのまま残ります。加熱しても生成物比が変わらない反応に出会ったときは、その反応が不可逆であると判断してください。温度は可逆性を開くための手段にすぎません。
共通のアリルカチオン中間体から1,2-付加体と1,4-付加体が分岐するためです。臭化物イオンは正電荷が生じた場所のすぐ隣にいるので1,2-付加が速く、低温では逆反応が起こらないためこちらが主になります。40 °C 付近では炭素臭素結合が切れて中間体へ戻れるようになり、二重結合がより多置換で安定な1,4-付加体へ集まります。
かさ高い塩基は混み合っていないα水素のほうを速く引き抜くためです。さらにLDAはケトンよりはるかに強い塩基なので、いったん引き抜いたプロトンを返さず、脱プロトンが不可逆になります。速く生成したエノラートがそのまま固定されるので、速度論的エノラートが得られます。アルコキシドのような弱い塩基では平衡が成立し、より多置換で安定なエノラートが優勢になります。
違います。endo体が優先するのは、遷移状態が二次軌道相互作用によって安定化され、endo体へ至る経路の活性化エネルギーが低くなるためです。立体的にはexo体のほうが空いていて安定なので、高温で長時間加熱すると逆Diels–Alder反応を経てexo体へ移ります。endo則はあくまで速度論支配のもとで成り立つ規則です。
