同じ原料、同じ試薬。なのに、反応を 0 °C で行うと生成物Aが、40 °C で行うと生成物Bが主になる——有機化学にはこうした反応があります。温度を変えただけで、まるで別の反応のように結果が変わるのです。

読み解くカギが速度論支配と熱力学支配です。「速くできる生成物」と「安定な生成物」が食い違うとき、どちらが勝つかを決める考え方で、主生成物を予測する力がそのまま得点になります。

そして本当の主役は温度ではありません。反応が後戻りできるかどうかです。ここを掴むと、条件を見ただけで答えが決まるようになります。

この記事で学ぶこと
・速度論生成物と熱力学生成物という2つの軸
・可逆性こそが支配のスイッチであること
・ブタジエンへのHX付加・エノラートの位置選択・スルホン化の実例
・条件を見て主生成物を決める4つの手順

2つの生成物——「速い」と「安定」は別物

ある原料から生成物Aと生成物Bができるとします。次の2つは、必ずしも一致しません。

生成物を分ける2つの軸
・できる速さ=そこへ至る遷移状態の高さ(ΔG‡ の低さ)
・安定さ=生成物そのもののエネルギーの低さ(ΔG° の低さ)
・この2つが別の生成物を指すときに、支配の問題が生じる

速度論生成物(kinetic product)は活性化エネルギーが低く速くできるほう、熱力学生成物(thermodynamic product)はより安定なほうです。この2つが独立に決まることは反応速度と化学平衡の違いで扱いました。本記事はその独立性が目に見える形で現れる場面を扱います。

反応座標図で見る

原料から2つの生成物へ分岐する図を思い浮かべてください。速度論生成物へ向かう山は低いが、できた谷は浅い。熱力学生成物へ向かう山は高いが、谷は深い。山の高さと谷の深さが逆転しているのが、この問題の構図です。

共通の原料から2本の経路が分岐する反応座標図。低い山の先に浅い谷(速度論生成物)、高い山の先に深い谷(熱力学生成物)を描き、温度と可逆性で主生成物が入れ替わることを示す

勝敗を決めているのは可逆性

「低温なら速度論、高温なら熱力学」と覚えている人は多いのですが、温度は原因ではなく手段です。本当のスイッチは可逆性にあります。

条件 起きていること 主生成物
低温・短時間 低い山しか越えられず、生成物は戻れない 速度論生成物
高温・長時間 逆反応も進み、系が平衡に達する 熱力学生成物

低温では越えられるのが低い山だけで、いったんできた生成物は谷から出られません。先に着いたものが、そのまま残るのです。高温になると逆反応も起こり、生成物と原料を行き来しながら、系全体がいちばん深い谷へ落ち着いていきます。

ここを外すと全部間違える
・不可逆な反応では、どんなに加熱しても熱力学支配にならない。戻れないのだから並べ替えが起こらない
・逆に、室温でも十分に可逆な反応(プロトン移動・アセタール化)は最初から熱力学支配
・×「熱力学生成物=いつも主生成物」
・×「速度論生成物=不安定だからできにくい」……できるのは速い。安定さとは別の話

実例①——共役ジエンへのHX付加

最も有名な例です。1,3-ブタジエンに HBr を1分子付加させると、共通のアリルカチオン中間体を経て、1,2-付加体と1,4-付加体に分かれます。

温度 1,2-付加体 1,4-付加体 支配
0 °C 71 % 29 % 速度論
40 °C 15 % 85 % 熱力学

数値は McMurry, Organic Chemistry 9th Ed. §14.3 によります(教科書によって挙げる温度と比の値は少し異なりますが、低温で1,2-付加体、高温で1,4-付加体という向きは共通です)。

なぜ 1,2-付加体のほうが速くできるのか。アリルカチオンの正電荷は2つの炭素に非局在化していますが、臭化物イオンは生まれた場所のすぐ隣にいます。距離が近いぶん、そちらへの結合形成が速いのです。

一方、安定なのは 1,4-付加体です。二重結合がより多置換になるためで、これはアルケンの安定性の一般則どおりです。低温では戻れないので速いほうが残り、高温では C−Br 結合が切れてアリルカチオンへ戻れるようになるため、安定なほうへ集まります。

1,3-ブタジエンへのHBr付加。共通のアリルカチオン中間体から1,2-付加体(速度論生成物・低温で優勢)と1,4-付加体(熱力学生成物・高温で優勢)へ分岐する経路を示す

実例②——エノラートの位置選択

合成で日常的に使われるのがこちらです。非対称なケトン(たとえば 2-メチルシクロヘキサノン)には、脱プロトンできる α位が2か所あります。どちらのエノラートを作るかを、条件だけで選び分けられます。

条件 できるエノラート 理由
LDA / THF / −78 °C
(強く、かさ高い塩基を1当量)
置換基の少ない側(速度論的エノラート) 混んでいない水素のほうが引き抜きやすい。脱プロトンが不可逆
NaOEt / EtOH / 室温
(弱い塩基を触媒量)
置換基の多い側(熱力学的エノラート) 脱プロトンが可逆。より多置換の C=C が安定

ここでも決め手は可逆性です。LDA はケトンより圧倒的に強い塩基なので、引き抜いたプロトンを返しません。だから「速く抜けたほう」が固定されます。アルコキシドは塩基性が近いため脱プロトンが行き来し、平衡が安定なエノラートへ寄ります。エノラートそのものについてはケト-エノール互変異性で扱っています。

非対称ケトンの2か所のアルファ位から、かさ高い強塩基を低温で使うと置換基の少ない側の速度論的エノラート、弱い塩基で平衡にすると置換基の多い側の熱力学的エノラートが得られることを対比して示す

実例③——スルホン化の可逆性を道具にする

芳香族求電子置換のうち、スルホン化だけは容易に可逆です。濃硫酸・加熱で入り、希硫酸・水蒸気で外れます。

この性質はブロッキング基として使われます。パラ位を一時的にスルホ基で塞いでおけば、次の置換をオルト位へ誘導できます。用が済んだら加水分解で外す——可逆性を弱点ではなく道具にした代表例です。他の求電子置換(ニトロ化・ハロゲン化)が事実上不可逆で、この芸当ができないことと対比してください。

実例④——Diels–Alder の endo/exo

シクロペンタジエンと無水マレイン酸の反応では、低温で endo 体が優先します。二次軌道相互作用によって遷移状態が安定化されるためで、これは速度論生成物です。

ところが立体的には exo 体のほうが空いていて安定です。高温で長時間加熱すると逆 Diels–Alder が起こり、exo 体へ移ります。「endo 則は速度論の話であって、安定性の話ではない」——ここが院試で問われる勘どころです。

判定の手順

問題を見たらこの順で考える
1. 2つの生成物を書き出す(共通中間体からの分岐か、別々の経路か)
2. どちらが速くできるかを考える(近い・混んでいない・遷移状態が安定)
3. どちらが安定かを考える(多置換アルケン・共役・立体障害が小さい)
4. 条件が逆反応を許すかを見る → 許すなら3の答え、許さないなら2の答え

手順4がすべてです。低温・短時間・強い塩基・不可逆な出口(気体の発生・沈殿・芳香族化)があれば速度論支配、高温・長時間・触媒量の塩基・可逆な結合形成なら熱力学支配と判断します。

大学院入試での問われ方

「0 °C と 40 °C で主生成物が異なる理由を述べよ」
      → 低温では逆反応が起こらず速く生成した側が残る。高温では平衡に達する

「LDA を用いる理由を述べよ」
      → かさ高く強い塩基で脱プロトンが不可逆。速度論的エノラートを固定できる

「この反応を加熱しても生成物比が変わらなかった。なぜか」
      → 反応が不可逆だから。熱力学支配には可逆性が必要

「endo 体が主生成物である理由は endo 体が安定だからか」
      → 違う。遷移状態が二次軌道相互作用で安定化されるため(速度論生成物)

まとめ

この記事のまとめ
・速度論生成物=速くできる(山が低い)、熱力学生成物=安定(谷が深い)
・勝敗を決めるのは可逆性。温度と時間はそれを開け閉めする手段
・不可逆な反応は、加熱しても熱力学支配にならない
・ブタジエン+HBr:低温で1,2-付加、高温で1,4-付加
・LDA・低温=速度論的エノラート、弱塩基・平衡条件=熱力学的エノラート
・endo 則は速度論の話。加熱すれば exo へ移りうる

ここで見た「速くできる」がどう測られるのかは律速段階と反応次数、遷移状態が何に似るかの予測はハモンドの仮説で扱っています。

よくある質問

速度論生成物と熱力学生成物はどう違いますか?

速度論生成物は活性化エネルギーが低く、速くできるほうの生成物です。熱力学生成物は生成物自体のエネルギーが低い、より安定なほうの生成物です。山の高さと谷の深さは独立に決まるため、この2つはしばしば別の化合物を指します。両者が食い違うときに、条件によって主生成物が入れ替わる現象が起こります。

温度を上げれば必ず熱力学生成物が主になりますか?

なりません。熱力学支配が成立するのは反応が可逆になった場合だけです。生成物から原料へ戻れなければ、いくら加熱しても並べ替えは起こらず、速く生成した側がそのまま残ります。加熱しても生成物比が変わらない反応に出会ったときは、その反応が不可逆であると判断してください。温度は可逆性を開くための手段にすぎません。

1,3-ブタジエンへのHBr付加で主生成物が変わるのはなぜですか?

共通のアリルカチオン中間体から1,2-付加体と1,4-付加体が分岐するためです。臭化物イオンは正電荷が生じた場所のすぐ隣にいるので1,2-付加が速く、低温では逆反応が起こらないためこちらが主になります。40 °C 付近では炭素臭素結合が切れて中間体へ戻れるようになり、二重結合がより多置換で安定な1,4-付加体へ集まります。

LDAを使うと置換基の少ない側のエノラートができるのはなぜですか?

かさ高い塩基は混み合っていないα水素のほうを速く引き抜くためです。さらにLDAはケトンよりはるかに強い塩基なので、いったん引き抜いたプロトンを返さず、脱プロトンが不可逆になります。速く生成したエノラートがそのまま固定されるので、速度論的エノラートが得られます。アルコキシドのような弱い塩基では平衡が成立し、より多置換で安定なエノラートが優勢になります。

endo則は熱力学的に有利だからですか?

違います。endo体が優先するのは、遷移状態が二次軌道相互作用によって安定化され、endo体へ至る経路の活性化エネルギーが低くなるためです。立体的にはexo体のほうが空いていて安定なので、高温で長時間加熱すると逆Diels–Alder反応を経てexo体へ移ります。endo則はあくまで速度論支配のもとで成り立つ規則です。

カズ塾有機化学 第1巻「基礎編」第16章 速度を決めるもの
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