野依良治完全解説|BINAP不斉水素化とノーベル化学賞2001年
たった1個の触媒分子が、数万個もの原料分子を次々と「右手型」あるいは「左手型」へと選り分けていく——まるで一人の職人が流れ作業の全工程を目にも留まらぬ速さでさばくように。この触媒的不斉合成という魔法のような技術を、実用の域にまで磨き上げたのが野依良治だ。
野依が設計した軸不斉配位子BINAP(バイナップ)は、金属に配位して極めて高い光学純度を叩き出す「不斉触媒の傑作」として知られる。BINAPを担ったルテニウム触媒やロジウム触媒は、香料のL-メントールや医薬品中間体の大量生産を支え、1個の触媒が100万個の基質を変換するほどの効率(高い触媒回転数)を実現した。
2001年、野依はウィリアム・ノウルズ・K・B・シャープレスとともにノーベル化学賞を受賞する。日本人化学者として不斉触媒の頂点に立った人物だ。この記事では、院試でも頻出のBINAP不斉水素化のしくみを、軸不斉という考え方とメントール合成を軸にたどりながら、野依の生涯と業績を紹介する。
生涯と略歴——日本から世界の不斉触媒化学を率いた研究者
野依良治は1938年9月3日、兵庫県芦屋市に生まれた。京都大学工学部を卒業後、同大学院で野崎一のもとで有機化学を学び、1967年に工学博士号を取得する。若き日にはハーバード大学のE・J・コーリー(1990年ノーベル化学賞)の研究室に留学し、精緻な全合成化学の最前線を経験した。野崎研で芽生えた不斉合成への関心と、コーリー研で磨いた合成の技が、その後の触媒設計に生きている。
1968年、名古屋大学に移り、以後この地を拠点に不斉触媒の研究を展開する。1980年、共同研究者の高谷秀正らとともに軸不斉配位子BINAPを開発。これをロジウムやルテニウムと組み合わせた触媒が、それまで難しかったケトンやオレフィンの高選択的な不斉水素化を可能にした。とりわけRu–BINAP触媒は幅広い基質に高い光学純度を与え、不斉合成の「万能鍵」と呼ばれるほど汎用性が高かった。
これらの成果により、野依は2001年にノーベル化学賞を受賞。その後は理化学研究所理事長などを務め、日本の科学行政や研究環境づくりにも大きく貢献した。「化学は物質を通じて人類に貢献する学問である」という信念のもと、後進の育成にも情熱を注いだ人物である。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1938 | 兵庫県芦屋市に生まれる |
| 1961 | 京都大学工学部を卒業(のち同大学院へ) |
| 1966 | キラル銅錯体による不斉シクロプロパン化を報告(不斉触媒研究の出発点) |
| 1968 | 名古屋大学へ移る(助教授就任)。翌1969年からハーバード大学コーリー研に留学(–1970) |
| 1980 | 高谷秀正らと軸不斉配位子BINAPを開発 |
| 1983頃 | Rh–BINAP触媒によるL-メントール合成(高砂プロセス)が工業化 |
| 1986 | Ru–BINAP触媒を開発、ケトンなど幅広い基質の不斉水素化に成功 |
| 2001 | ノウルズ・シャープレスとノーベル化学賞を共同受賞 |
| 2003 | 理化学研究所理事長に就任(–2015) |
軸不斉とは——不斉中心がなくても分子はキラルになる
キラリティ(掌性)と聞くと、四つの異なる基が結合した不斉炭素を思い浮かべる人が多いだろう。しかしキラリティは不斉中心(点不斉)だけで生まれるものではない。二つの環が単結合でつながり、その単結合まわりの回転が立体的に妨げられていると、分子は右巻き・左巻きの二種類の立体配座で固定される。これが軸不斉(アトロプ異性)だ。
BINAPの骨格であるビナフチル(1,1’位で結合した2つのナフタレン環)は、まさにこの軸不斉をもつ。2位・2’位に大きな置換基(ジフェニルホスフィノ基)があるため、二つのナフタレン環は同一平面になれず、決まったねじれ角で固定される。その結果、鏡像関係にある (R)-BINAP と (S)-BINAP が別々の化合物として単離できるのである。
BINAP配位子——高い光学純度を生む設計
BINAPは正式には 2,2′-ビス(ジフェニルホスフィノ)-1,1′-ビナフチルという。ビナフチル骨格の両端に位置する2つのリン原子(ジフェニルホスフィノ基のP)が、金属に同時に配位する二座(キレート)配位子である。
ここが重要なポイントだ。ノウルズのDIPAMPはリン原子上に不斉(P-キラル)をもっていたが、BINAPのリンはアキラルで、キラリティはビナフチル軸にある。二つのリンが金属に配位して大きな七員のキレート環をつくると、軸不斉に由来するねじれがフェニル基の空間配置を決め、金属まわりにC2対称の非対称な立体環境が生まれる。基質が近づける向きが強く制限されるため、水素はいつも決まった面から付加し、生成物は片方の鏡像体に大きく偏る。
Rh–BINAPとRu–BINAP——金属で守備範囲が変わる
BINAPの威力は、組み合わせる金属を変えることで還元できる基質の種類が広がった点にある。同じ配位子でも中心金属が違えば触媒の性格が変わる、という有機金属化学の妙が凝縮されている。
【BINAP錯体の使い分け(模式)】
Rh-BINAP触媒
エナミン・アリルアミンなど → 不斉水素化・不斉異性化(高 ee)
(高砂のL-メントール合成の心臓部)
Ru-BINAP触媒
β-ケトエステル・官能基化ケトンなど → カルボニルの不斉水素化(高 ee)
(適用範囲が非常に広い「万能触媒」)
とくにRu–BINAPは、それまで難しかったケトンやβ-ケトエステルのC=O二重結合を高い光学純度で還元できた点で画期的だった。医薬品や香料の中間体となる光学活性アルコールを直接つくれるため、実用性が一気に高まったのである。
L-メントール工業合成(高砂プロセス)——不斉触媒が実用を変えた
BINAPの実力を世界に知らしめたのが、香料メーカー高砂香料工業によるL-メントールの工業合成である。メントールはミントの主成分で、清涼感を与える香料・添加剤として世界中で大量に使われる。効くのは特定の立体配置をもつ(−)-メントール(L体)で、他の異性体では香りや冷感が異なる。したがって望みの立体異性体だけを効率よく作ることが商業的に不可欠だった。
プロセスの核心は、原料のミルセンから導いたジエチルゲラニルアミンを、Rh–BINAP錯体を触媒として不斉異性化する段階にある。二重結合の位置が異性化すると同時に新しい不斉中心が立体選択的に生まれ、望みの配置をもつ光学活性なエナミンが高い ee で得られる。以降、加水分解と環化・水素化を経て(−)-メントールへと導かれる。
【L-メントール合成の流れ(模式)】
ミルセン(原料テルペン)
|
| ジエチルアミンの付加
↓
ジエチルゲラニルアミン(プロキラル)
|
| [Rh(S)-BINAP]+ 触媒
| 不斉異性化(高 ee)
↓
光学活性なエナミン(citronellal enamine)
|
| 加水分解 → 環化 → 水素化
↓
(−)-メントール(L-メントール)
このプロセスは、年間数千トン規模のL-メントールを不斉触媒で生産する巨大な実例となった。触媒的不斉合成が「研究室のフラスコ内の話」ではなく、世界の香料需要を支える生産技術であることを証明したのである。
現代への影響
野依の仕事は、単に一つの優れた配位子を作ったにとどまらない。「軸不斉という頑丈なキラル骨格で金属触媒を不斉化する」という普遍的な設計指針を示し、不斉触媒化学を実用の学問へと押し上げた。その影響は次の3つの観点で整理できる。
軸不斉配位子BINAPという汎用プラットフォームを確立。多くの金属と組み合わせて水素化・異性化・C–C結合形成へと応用が広がった。
L-メントールや医薬品中間体を高い触媒回転数で生産。光学活性化合物を経済的に量産する技術として産業を変えた。
軸不斉・BINAP・ee・触媒回転数は立体化学と有機金属化学の定番テーマ。ノーベル賞2001の文脈で頻出する。
まとめ
野依と同じ2001年ノーベル化学賞を、不斉水素化を初めて工業化したウィリアム・ノウルズ(DIPAMPとL-DOPA合成、#26)と、不斉酸化を切り拓いたK・B・シャープレスが分かち合った。ノウルズのP-キラル配位子から野依の軸不斉配位子へ、そして水素化の源流にあたるポール・サバティエの接触水素化とあわせて読むと、「水素化」という一つの反応が無選択から高度な立体選択へと深化していった系譜が立体的に見えてくる。








