逆合成で結合を1本切ると、こういうものが出てきます。

逆合成の構造式。1-フェニルエタノール PhCH(OH)CH3 の C–C 結合を1本切ると、ベンズアルデヒド PhCHO とメチルアニオン CH3−(紙の上の断片=シントン)に分かれる

右側の CH3− は、試薬棚に置いてありません。メチルアニオンという物質は瓶で売られていないのです。

それでもこの切り方は正しい。紙の上の断片と、実在する試薬は別物であり、あいだに翻訳の工程がある——それだけのことです。この紙の上の断片をシントン、対応する実在の試薬を合成等価体(構築単位)と呼びます。

この記事で学ぶこと
・シントン(紙の上の断片)と合成等価体(実在の試薬)の違い
・求核シントン・求電子シントンの対応表
・切るときに電荷をどちら側に置くかの決め方
・極性の反転が必要になる場面(アシルアニオン等価体)
・選んだ構築単位が使えるかを判定する基準

シントンと合成等価体——言葉を分ける

正体 例
シントン
(synthon)
逆合成で切って生じる紙の上の断片。ふつう電荷を持つ。実在しなくてよい CH3−、−CN、CH3CO+
合成等価体
(synthetic equivalent)=構築単位
そのシントンと同じ働きをする実在の試薬 CH3MgBr、NaCN、CH3COCl
なぜ2段構えにするのか
いきなり「試薬」で考えると、切る場所を探す作業と、試薬を思い出す作業が混ざります。分けると、切る作業は電子の流れだけで済み(=第1段)、試薬は対応表を引くだけになります(=第2段)。
→ だからシントンは「実在しない」ままでよいのです。

電荷をどちら側に置くか

結合を切るとき、電子対はどちらか一方に付いていきます。つまり切り方は必ず2通りあります。

Ph−CH(OH)−CH3 の C−C 結合を切る

案A   PhCHO(求電子剤)  +  CH3−(求核シントン)      → CH3MgBr で実行できる ✔
案B   PhCH(OH)+(求電子シントン) +  CH3− ではなく
      PhCH=O+H に相当する種  +  CH3 のアニオン以外           → 実行しにくい ✘

どちらを選ぶかの基準は1つです。

電荷を、その原子が本来なりやすい側に置く。

こう切るのが自然 理由
ヘテロ原子が付いた炭素は + にする 酸素・窒素が電子を引いているので、もともと δ+
カルボニルの α位は − にする 脱プロトンでエノラートになれる(安定なアニオン)
ベンジル位・アリル位は どちらでもよい カチオンもアニオンも共鳴で安定化される

この判断は、順方向の反応で「どちらが求電子剤か」を決める作業とまったく同じです。逆合成は、順方向の知識を逆から読んでいるだけです(順方向の判定は求核剤と求電子剤で扱っています)。

1-フェニルエタノールのC-C結合を切る2通りを並べ、ヘテロ原子側を+にする切り方だけが実在の試薬(PhCHOとCH3MgBr)に翻訳できることを示す図

求核シントンの対応表

負電荷を持つシントンは、たいてい金属を使って作るか酸性プロトンを抜いて作るかの2通りです。

シントン 合成等価体(構築単位) 作り方
R−(アルキルアニオン) RMgX、RLi、R2CuLi ハライド+金属(極性の反転)
HC≡C− HC≡CNa、HC≡CLi 末端アルキン+強塩基(sp 炭素の酸性度を使う)
−CH2COR(エノラート) ケトン+LDA、マロン酸エステル+NaOEt α位の脱プロトン
−CN NaCN、KCN、TMSCN そのまま(炭素が1個増えることに注意)
H−(ヒドリド) NaBH4、LiAlH4、DIBAL ホウ素・アルミニウムに配位させて渡す
Grignard試薬は「極性の反転」そのもの
R−X では炭素が δ+(求電子的)ですが、金属を入れると R−MgX になり、同じ炭素が δ−(求核的)に変わります。
→ つまり同じ炭素を、切り方によって+側にも−側にも使える。この自由度が逆合成の幅を作っています。詳しくはグリニャール試薬 完全解説を参照。

求電子シントンの対応表

シントン 合成等価体(構築単位) 対応する反応
R+ R−X、R−OTs SN2(第1級・第2級に限る)
RCH(OH)+ に相当 RCHO(アルデヒド) カルボニルへの求核付加
RCO+(アシルカチオン) RCOCl、(RCO)2O、エステル 求核アシル置換・Friedel-Craftsアシル化
HOCH2CH2+ に相当 エポキシド エポキシドの開環(2炭素ぶん入る)
+CH2CH2COR に相当 α,β-不飽和カルボニル Michael付加(1,4-付加)

下2行が便利です。エポキシドとMichael受容体は「隠れた求電子シントン」で、これを知らないと「2炭素・3炭素ぶんを一度に入れる」設計が出てきません。

極性が反転できないとき——アシルアニオン等価体

対応表を見ると、ほとんどのシントンには等価体があります。しかし素直には作れないシントンもあります。代表はアシルアニオン RCO− です。

カルボニル炭素は本来 δ+ です。そこを − として使いたい——つまり極性を反転させたい。しかし RCOCl に金属を入れても、素直には RCO− になりません。

解き方は「いったん別の官能基に着替える」
・ジチオアセタール(1,3-ジチアン)にする → その C−H が酸性になるので塩基で抜ける → 反応後に加水分解でカルボニルへ戻す
・シアノヒドリンのシリルエーテルにする → 同様に脱プロトンできる
→ どちらも「カルボニルを一時的に別の形にして、極性を逆にしてから戻す」という同じ発想

この考え方は保護基とよく似ています——目的の反応性を得るために、いったん別の官能基へ変換して、あとで戻す。保護基は反応性を下げるために着替えさせ、アシルアニオン等価体は反応性を裏返すために着替えさせます。

選んだ構築単位が使えるかを判定する

シントンを試薬に翻訳したあと、その組み合わせが実際に走るかを確認します。

1  入手できるか。市販か、数工程で作れるか
2  官能基がぶつからないか。求核剤が、基質の別の官能基を攻めないか
        → ぶつかるなら保護する
3  級数の制約を満たすか。SN2 を使うなら第3級ハライドは不可
4  炭素数が合うか。断片の炭素を足して目標分子に戻るか
5  立体が制御できるか。新しい不斉中心ができるなら、その選択性の根拠があるか
2でつまずく例がいちばん多い
「Grignard試薬でケトンを攻めたい。しかし基質に OH がある」——この場合、Grignard試薬はまず OH のプロトンを取って失活します。
→ 先に OH を保護する(→ 保護基とは)。経路が正しくても、順序が違うと走らないのがこの工程の難しさです。

旧来の構築単位の選択基準として挙げられる入手性・価格・廃棄物の少なさも、実務では上の5項目と並びます。ただし試験で問われるのは 2–5 の化学的な制約なので、学習段階ではそこを優先してください。

大学院入試での問われ方

「シントンと合成等価体の違いを述べよ」
      → シントンは逆合成で生じる紙の上の断片(電荷を持ち、実在しなくてよい)。
        合成等価体は同じ働きをする実在の試薬

「CH3− に対応する合成等価体を挙げよ」
      → CH3MgBr、CH3Li、(CH3)2CuLi

「2-ブタノールを逆合成で2通りに切り、それぞれの試薬を書け」
      → CH3CHO + C2H5MgBr、または C2H5CHO + CH3MgBr

「アシルアニオン等価体が必要になる理由と、その作り方を述べよ」
      → カルボニル炭素は本来 δ+ なので素直に − にできない。
        ジチオアセタールやシアノヒドリンに着替えて脱プロトンし、あとで戻す

「Grignard試薬を使う経路で、基質にヒドロキシ基があるときの注意」
      → 先に OH のプロトンを取って試薬が失活する。保護してから反応させる

まとめ

この記事のまとめ
・シントン=逆合成で生じる紙の上の断片(電荷つき・実在しなくてよい)/合成等価体=同じ働きをする実在の試薬
・2段構えにする理由は、切る作業と試薬を思い出す作業を分けるため
・切り方は必ず2通り。電荷はその原子が本来なりやすい側に置く(ヘテロ原子の隣は+、α位は−)
・求核シントンは金属を入れるか酸性プロトンを抜くかで作る。Grignard試薬は極性の反転そのもの
・エポキシドとMichael受容体は「隠れた求電子シントン」。2炭素・3炭素を一度に入れられる
・アシルアニオンは素直に作れないので、ジチオアセタールやシアノヒドリンに着替えてから使う
・翻訳したら5項目で検算する——入手性・官能基の衝突・級数の制約・炭素数・立体

よくある質問

シントンと合成等価体はどう違いますか?

シントンは逆合成で結合を切ったときに生じる紙の上の断片で、ふつう電荷を持ち、実在しなくてかまいません。合成等価体はそのシントンと同じ働きをする実在の試薬です。たとえばメチルアニオンというシントンには、臭化メチルマグネシウムやメチルリチウムという合成等価体が対応します。2段に分けることで、切る作業と試薬を選ぶ作業を分離できます。

結合を切るとき電荷はどちら側に置きますか?

その原子が本来なりやすい側に置きます。酸素や窒素が結合した炭素はもともと正に分極しているのでプラスのシントンにし、カルボニルのアルファ位は脱プロトンで安定なエノラートになれるのでマイナスのシントンにします。ベンジル位やアリル位は共鳴でどちらの電荷も安定化されるため、どちらに置いても成立します。

Grignard試薬はなぜ極性の反転と呼ばれるのですか?

ハロゲン化アルキルでは炭素が正に分極していて求電子的ですが、マグネシウムを挿入すると同じ炭素が負に分極して求核的に変わるからです。この操作によって、同じ炭素を切り方に応じてプラス側にもマイナス側にも使えるようになります。逆合成で選べる切り方の幅は、この極性の反転によって大きく広がっています。

隠れた求電子シントンとは何ですか?

見た目はカチオンでないのに、求電子シントンとして働く構築単位のことです。エポキシドは開環によって2炭素ぶんを一度に導入でき、アルファベータ不飽和カルボニル化合物はMichael付加によって3炭素ぶんを導入できます。これらを知らないと、複数の炭素をまとめて入れる設計が発想に出てこないため、合成計画の選択肢が狭くなります。

アシルアニオン等価体が必要になるのはなぜですか?

カルボニル炭素は酸素に電子を引かれて本来正に分極しているため、そこを負のシントンとして使いたい場合に素直な方法がないからです。解決策としては、カルボニルをジチオアセタールやシアノヒドリンのシリルエーテルに一時的に変換すると、その炭素の水素が酸性になって塩基で引き抜けるようになります。反応後に加水分解でカルボニルへ戻します。

構築単位を選んだあと何を確認すればよいですか?

5点を確認します。入手できるか、求核剤が基質の別の官能基を攻めてしまわないか、SN2を使うなら級数の制約を満たすか、断片の炭素数を足して目標分子に戻るか、新しくできる不斉中心の立体を制御できるかです。最も多い失敗は2番目で、ヒドロキシ基があるとGrignard試薬が先にプロトンを取って失活するため、保護してから反応させる必要があります。