エバンス・サクセナ還元とは?anti-1,3-ジオールを作る機構と使い分け
同じβ-ヒドロキシケトンから、syn と anti の1,3-ジオールを選んで作り分けられる。これは合成計画の自由度を大きく広げる話です。syn 側を担うのが奈良坂・プラサード還元で、anti 側を担うのが本記事のエバンス・サクセナ還元です。
2つの反応は、使う試薬もホウ素の役割も違います。しかし本質的な差はたった1つ、ヒドリドがどこから来るかです。外から来るなら syn、分子の内側から渡されるなら anti——この1点を押さえれば、暗記せずに書き分けられます。
エバンス・サクセナ還元とは
β-ヒドロキシケトンをトリアセトキシ水素化ホウ素テトラメチルアンモニウム(Me4NBH(OAc)3)で還元し、anti-1,3-ジオールへ変換する反応です。
ふつうの水素化ホウ素ナトリウムとの違いは、ヒドリドが3つともアセトキシ基に置き換わっていることです。電子求引性のアセトキシ基が3つ付いたホウ素は、残り1つのヒドリドを簡単には手放しません。つまりこの試薬はそれ自体の還元力が低い——だからこそ、基質と結合した相手だけを選んで還元できます。
反応機構——つながってから、内側で渡す
機構は3段階です。鍵は①で試薬が基質に「つながる」ことにあります。
① 水酸基がアセトキシ基と入れ替わる
基質の遊離の水酸基が、ホウ素上のアセトキシ基の1つと交換します。この配位子交換によって、ホウ素は基質の酸素に直接つながります。副生するのは酢酸です。
ここが反応全体を決めます。水酸基が遊離でなければ、この交換が起こらず反応は進みません。
② 六員環の遷移状態を組む
ホウ素に残ったヒドリドが、同じ分子内にあるカルボニル炭素へ届きます。このとき通る遷移状態は、H・B・O・Cβ・Cα・カルボニル炭素の6つからなる六員環です。
六員環を経由するということは、ヒドリドが近づける向きが1つに決まるということです。ホウ素はβ位の酸素につながっているので、ヒドリドはその酸素と同じ側からしかカルボニル炭素に届きません。
③ 新しい水酸基は反対側を向く
ヒドリドが片側から入れば、生じるアルコキシドは反対側を向きます。もとの水酸基から見て反対側に新しい水酸基ができる——これが anti(1,3-anti)です。
なぜ奈良坂・プラサード還元と逆になるのか
2つの反応を分けるのは、ホウ素が何本の酸素とつながっているかです。
| エバンス・サクセナ還元 | 奈良坂・プラサード還元 | |
|---|---|---|
| 生成物 | anti-1,3-ジオール | syn-1,3-ジオール |
| 試薬 | Me4NBH(OAc)3(酢酸中) | Et2BOMe + NaBH4(−78°C) |
| ホウ素のつながり方 | 水酸基の酸素だけ(カルボニルには配位しない) | 2つの酸素を架橋して六員環キレートを作る |
| ヒドリドの供給 | 分子内(つながったホウ素から) | 分子間(外部の NaBH4 から) |
| ヒドリドが入る向き | もとの水酸基と同じ側(そこからしか届かない) | 環に対してアキシアル方向(外側から) |
| 試薬の還元力 | 低い(アセトキシ基3つで弱められている) | 高い(NaBH4 そのもの) |
酢酸を溶媒に使う理由
この反応はふつう酢酸、あるいは酢酸とアセトニトリルの混合溶媒で行います。水やアルコールではありません。理由は2つあります。
まず、試薬そのものがアセトキシ基を3つ持つホウ素化合物なので、酢酸の中にいる限り配位子交換が可逆的に保たれ、試薬が壊れにくくなります。水やアルコール中では、ヒドリドが溶媒と反応して失われます。
もう1つは、遅い反応を遅いまま進めたいからです。この試薬は還元力が低く、基質とつながった相手だけをゆっくり還元します。溶媒を変えて反応を速くすると、つながらないまま還元される経路が混ざり、anti 選択性が落ちます。
うまくいかないときに疑うこと
水酸基が保護されている
ホウ素がつながる相手は遊離の水酸基です。TBS などで保護されていると①の配位子交換が起こらず、反応そのものが進みません。これは奈良坂・プラサード還元と共通する制約です(保護基の選び方と直交性)。
水酸基とカルボニルの距離が違う
六員環の遷移状態が組めるのは、水酸基とカルボニルが1,3の位置関係にあるときです。1,2 や 1,4 では環のサイズが合わず、この選択性は出ません。
基質にほかのカルボニルがある
分子内でつながった相手だけが還元されるので、離れた位置にある別のケトンやアルデヒドは残ります。これは欠点ではなく、むしろ選択的に1つだけ還元できるという利点として使えます。
どこで使われるか
1,3-ジオールの繰り返しはポリケチド系の天然物に広く現れます。アルドール反応でβ-ヒドロキシケトンを作り、本反応か奈良坂・プラサード還元のどちらかを選ぶ——この組み合わせで、1,3-ジオール部分の立体を狙って作り分けられます。
絶対配置まで制御したい場合は、Evans 不斉アルドール反応でβ-ヒドロキシケトンの立体を決めてから還元します。同じ Evans の名前が並びますが、別の反応です(前者は C–C 結合を作る、後者は還元する)。
まとめ
この反応が教えてくれるのは、選択性は「つなぐ」ことで作れるという考え方です。試薬を強くするのではなく、基質と試薬を一度つないで、届く範囲を物理的に限定する。不斉補助基も、酵素の基質認識も、根は同じ発想です。
ほかの反応との位置づけは有機反応10大機構の地図で一覧できます。
よくある質問
作りたい立体で選びます。anti-1,3-ジオールならエバンス・サクセナ還元(Me4NBH(OAc)3/酢酸)、syn-1,3-ジオールなら奈良坂・プラサード還元(Et2BOMe/NaBH4)です。違いはヒドリドの供給元で、前者は水酸基につながったホウ素から分子内で渡されるためanti、後者は外部の NaBH4 からキレート環の外側に入るためsynになります。
ホウ素に電子求引性のアセトキシ基が3つ結合しているためです。ホウ素上の電子密度が下がると、残ったヒドリドは負電荷を手放しにくくなり、単独ではケトンをほとんど還元しません。この「弱さ」があるからこそ、配位子交換でつながった基質だけを選んで還元でき、高い立体選択性が得られます。
進みません。この反応は、基質の遊離の水酸基がホウ素上のアセトキシ基と交換して試薬が基質につながることから始まります。TBS などで保護されていると交換が起こらず、分子内のヒドリド移動も起こりません。合成計画では、この工程で該当する水酸基が遊離になるよう保護基の順番を設計します。
試薬のアセトキシ配位子を保つためと、反応を遅いまま進めるためです。水やアルコール中ではヒドリドが溶媒と反応して失われ、試薬が分解します。また反応が速くなると、基質とつながらないまま還元される経路が混ざってanti選択性が落ちます。酢酸やアセトニトリルとの混合溶媒が標準的に使われるのはこのためです。
水酸基から離れた位置にあるケトンは、ほとんど還元されずに残ります。この試薬は単独では還元力が低く、配位子交換で基質につながったあと分子内で届く範囲しか還元できないためです。複数のカルボニルを持つ基質で、狙った1つだけを還元したいときにはむしろ有利に働きます。
参考文献
- A. K. Saksena, P. Mangiaracina, Tetrahedron Lett., 1983, 24, 273.
- D. A. Evans, K. T. Chapman, E. M. Carreira, J. Am. Chem. Soc., 1988, 110, 3560.
