「SN2反応は立体反転(Walden反転)を起こす」——ここまでは誰でも知っています。しかし「立体反転が起きた=(R)が(S)になる」と即断してしまうのは、実はよくある誤解です。立体反転とは分子の空間的な配置が反転することであり、CIP表記の(R)/(S)が入れ替わるかどうかは、置換基の優先順位の付け方次第で変わります。

2023年度の東京大学大学院工学系研究科の入試「化学」第3問では、まさにこの点を突く設問が出題されました。「ジメチルスルホキシド(DMSO)中で(R)-2-ブロモブタンとギ酸ナトリウムとの反応を行った。この反応の遷移状態と生成物の構造を示せ」——シンプルな1文ですが、SN2の反応機構・溶媒効果・立体化学的表記の3つを同時に理解しているかが試される良問です。

この記事で学ぶこと
・DMSO(極性非プロトン性溶媒)がSN2を選ばせる理由
・SN2の遷移状態(背面攻撃・傘型構造)の描き方
・(R)-2-ブロモブタンが立体反転すると生成物はどう表記されるか
・「立体反転=R/S反転」とは限らない理由(優先順位のトリック)
・院試で立体化学のR/S表記を問われたときの確認手順

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【問題】
ジメチルスルホキシド(DMSO)中で(R)-2-ブロモブタンとギ酸ナトリウム
(HCOONa)との反応を行った。この反応の遷移状態と生成物の構造を示せ。

  CH₃CH₂—CHBr—CH₃((R)-2-ブロモブタン)  +  HCOO⁻Na⁺
                                  DMSO(極性非プロトン性溶媒)
       ↓
   遷移状態は? 生成物の構造(立体化学含む)は?

なぜSN2が起こるとわかるのか

この問題で反応機構を特定するために重要なのは溶媒の選択です。DMSOは極性非プロトン性溶媒の代表例で、SN2反応にとって理想的な条件を作ります。

要因SN2への影響
溶媒:DMSO(極性非プロトン性)水素結合でアニオンを取り囲まないため、求核剤(HCOO⁻)の求核性が落ちず高いまま保たれる
求核剤:HCOO⁻(ギ酸イオン)弱塩基性だが求核性は十分にあり、SN2で背面攻撃しやすい
基質:2級ハロゲン化アルキル立体障害が中程度で、強い求核剤・極性非プロトン性溶媒条件ではSN2が優勢になる

もし溶媒が水やアルコールのようなプロトン性溶媒であれば、水素結合がアニオン性の求核剤を取り囲んで求核性を弱めてしまい、SN1が競合しやすくなります。DMSOという極性非プロトン性溶媒を選んでいる時点で、出題者は「SN2で考えてほしい」というメッセージを送っているとも言えます。

遷移状態の構造

SN2反応は、求核剤(HCOO⁻の酸素)が脱離基(Br)の真裏側から攻撃する1段階の協奏反応です。遷移状態では、求核剤・反応中心の炭素・脱離基がほぼ一直線に並び、残りの3つの置換基(CH3, CH2CH3, H)は炭素を中心に平面的に開いた「傘」のような形になります。

【SN2遷移状態(背面攻撃・傘型構造)】

        H        CH₂CH₃
         \      /
  ⁻OOCH——— C ———Br
   (HCOO⁻)   |        (脱離基)
              CH₃

  ・HCOO⁻ の酸素と Br が反応中心の炭素を挟んで180°(一直線)
  ・CH₃, CH₂CH₃, H の3つの置換基は炭素を中心に平面的に展開
  ・C—OOCH結合が部分的に生成し、C—Br結合が部分的に切断された
    「中間的」な状態(部分的な負電荷を両方の基が分担する)

この遷移状態を経て生成物ができる過程は、ちょうど傘が風で裏返るイメージに例えられます。求核剤が裏側から押し込むことで、3つの置換基(CH3, CH2CH3, H)が反転し、最終的に求核剤は脱離基がもといた場所と正反対の位置に収まります(詳しい図解はSN1・SN2反応の基本記事を参照してください)。

生成物の立体化学:なぜ(R)が(S)になるのか

SN2反応は必ず立体反転を起こしますが、CIP表記(R/S)が実際にどう変わるかは置換基の優先順位を確認しないと分かりません。出発物質と生成物それぞれで優先順位を整理してみましょう。

【出発物質:(R)-2-ブロモブタンの優先順位】

  反応中心の炭素の置換基:Br, CH₂CH₃(エチル), CH₃(メチル), H

  優先順位:Br(1位) > CH₂CH₃(2位) > CH₃(3位) > H(4位)
  (Br原子番号35が最優先。エチルはメチルより1つ余分にCがあるため2位)

  → (R) なので、Hを裏に置いたとき Br → Et → Me が時計回り

【生成物:ギ酸エステルの優先順位】

  反応中心の炭素の置換基:OCHO(ギ酸エステル基), CH₂CH₃, CH₃, H

  優先順位:OCHO(1位) > CH₂CH₃(2位) > CH₃(3位) > H(4位)
  (酸素原子番号8がC・Hより優先するため、OCHOが最優先のまま)

  → Brが占めていた「1位」の席に、そのままOCHOが入っている

ここが本問のポイントです。脱離基(Br)と求核剤(OCHO)は、どちらも反応中心における優先順位が1位という点で共通しています。優先順位の「順位そのもの」は変わらないまま空間的な配置だけが反転するので、CIP表記もそのまま(R) → (S)へ反転します。

生成物:(S)-2級ブチルギ酸エステル((S)-ブタン-2-イル ホルメート)
CH3CH2—CH(OCHO)—CH3(反応中心の立体配置が(R)から(S)へ反転)

もし優先順位の順番が変わったら?

この「優先順位が変わらないから(R)→(S)になる」というロジックは、脱離基と求核剤が反応中心の他の置換基と比べて同じ優先順位を占める場合に限った話です。本問のようにハロゲン(Br)を酸素・窒素を含む求核剤(OCHO, OH⁻, CN⁻ など)で置き換える場合は、たいてい両方が反応中心で最優先(あるいは同程度の順位)になるため、立体反転とCIP表記の反転が一致しやすくなります。しかし、これは「SN2なら必ずR→S」という暗記事項ではありません。置換基の組み合わせ次第では、優先順位の並びそのものが変わり、空間的には反転していてもCIP表記は変わらない(あるいは別のパターンになる)ケースも理論上あり得るため、毎回CIP優先順位を実際に確認して初めて結論できるという点を忘れないようにしましょう。

よくある間違い
「SN2は立体反転するから必ずR→SまたはS→Rになる」という思い込みは正しくありません。必ず反転するのは空間的な配置(立体配置)であり、CIP表記が反転するかどうかは、脱離基と求核剤の優先順位の大小関係を毎回確認する必要があります。本問はたまたま優先順位の順位が保たれる例(Br・OCHOがともに最優先)だったため、結果としてR→Sの反転が起きました。

関連記事

SN2反応の機構そのもの(協奏的な背面攻撃のしくみ)、SN1反応との違い、反応性を決める4因子については、SN1・SN2反応の基本記事で詳しく解説しています。Walden反転の「傘返し」のイメージもあわせて確認しておくと、この記事の立体化学の議論がより理解しやすくなります。

まとめ

SN2反応とWalden反転 キーポイント
・DMSOのような極性非プロトン性溶媒は求核剤の求核性を保つため、SN2を有利にする
・SN2の遷移状態は、求核剤・反応中心・脱離基が一直線に並ぶ「背面攻撃」型
・SN2は空間的な配置(立体配置)を必ず反転させる
・CIP表記(R/S)が実際に反転するかどうかは、脱離基と求核剤の優先順位が同じ順位を占めるかどうかで決まる
・本問では脱離基Brと求核剤OCHOがともに最優先(1位)だったため、(R)→(S)へ反転した

よくある質問(FAQ)

なぜDMSOはSN1を起こしにくくするのですか?

SN1反応はカルボカチオン中間体を経由し、その中間体を溶媒が安定化することで進行しやすくなります。プロトン性溶媒(水・アルコール)はカルボカチオンや脱離基(アニオン)の両方を水素結合で安定化できますが、DMSOのような極性非プロトン性溶媒はカチオンをある程度安定化できる一方、アニオン性の求核剤を強く溶媒化しないため求核性が高いまま保たれます。この「求核剤が裸のまま強く働ける」状態がSN2を後押しします。

ギ酸イオン(HCOO⁻)は求核剤として弱くないのですか?

HCOO⁻は共鳴によって負電荷が2つの酸素に分散しているため、強い塩基としては働きにくい(塩基性は弱い)のですが、求核剤としての反応性(求核性)は塩基性の強さとは別の話です。DMSOのような極性非プロトン性溶媒中では、HCOO⁻は十分な求核性を持ち、2級ハロゲン化アルキルとのSN2反応を進行させることができます。

反応中心がもし3級炭素だったらどうなりますか?

3級ハロゲン化アルキルでは立体障害が大きすぎて求核剤が背面から接近できず、SN2はほとんど進行しません。代わりに、カルボカチオンを経由するSN1(あるいはE1)が優勢になります。DMSOのような極性非プロトン性溶媒であっても、基質の立体障害が大きすぎる場合はSN2の土俵に乗らない点に注意が必要です。

生成物はエステルですが、加水分解されませんか?

ギ酸エステル(R—OCHO)はエステルの一種なので、酸または塩基性条件・水の存在下で加水分解されてギ酸とアルコールに戻る可能性はあります。しかし本問の反応条件(DMSO中、求核置換反応の段階)ではエステルの加水分解は問われておらず、SN2で生成したエステルそのものの構造を答えるのが解答の趣旨です。

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