オッド・ハッセル完全解説|椅子形配座の発見と立体構造
「シクロヘキサンの立体構造はどうなっているのか?」—この問いに実験的な答えを出したのが、ノルウェーの化学者オッド・ハッセルです。
1930年代から40年代にかけて、ハッセルは電子回折と双極子モーメント測定を駆使し、シクロヘキサンが平面ではなく椅子形(chair form)の立体構造をとることを証明しました。この発見は有機分子の反応性・安定性を立体的な視点から理解する「コンフォメーション解析(配座解析)」という新しい研究分野の礎となり、イギリスのデレク・バートンとともに1969年のノーベル化学賞をもたらしました。
生涯と略歴
オッド・ハッセル(Odd Hassel)は1897年5月17日、ノルウェーのクリスチャニア(現オスロ)に生まれました。父は眼科医、叔父は著名な数学者という知的な家庭環境で育ちます。
オスロ大学で化学を学んだ後、ドイツへ渡り、ミュンヘン大学でカール・ファヤンスのもとでX線結晶学を習得。1924年にはベルリン大学でエルンスト・ハーバーの元で研究し、博士号を取得しました。帰国後はオスロ大学の物理化学講師として採用され、1934年に教授に就任。以後、定年退職まで同大学で研究・教育を続けました。
第二次世界大戦中の1943年、ナチス・ドイツによるノルウェー占領下でハッセルは大学の自治と学問の自由を守るための抗議運動に加わり、強制収容所に送られました。戦後1944年に釈放されましたが、この2年間は研究の断絶を余儀なくされました。戦後は研究に復帰し、1969年にノーベル化学賞を受賞。1981年に83歳で逝去しました。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1897 | ノルウェー・クリスチャニア(現オスロ)に生まれる |
| 1920 | オスロ大学卒業後、ミュンヘン・ベルリンでX線結晶学を学ぶ |
| 1924 | ベルリン大学で博士号取得 |
| 1934 | オスロ大学物理化学教授に就任 |
| 1937–1940 | 電子回折・双極子モーメント測定でシクロヘキサン椅子形配座を証明 |
| 1943–1944 | ナチス占領下で抵抗運動に参加、強制収容所に拘禁 |
| 1950年代 | ハロゲン化物との電荷移動錯体形成を研究 |
| 1964 | オスロ大学を定年退職 |
| 1969 | デレク・バートンとともにノーベル化学賞を受賞 |
| 1981 | オスロにて逝去(享年83歳) |
主要業績①:シクロヘキサンの椅子形配座の実験的証明
研究の背景:平面か、立体か
1890年、ヘルマン・ザックスが提唱し、後にエルンスト・モーアが拡張したSachse-Mohr理論により、シクロヘキサンは平面ではなく椅子形または船形(boat form)の立体構造をとることが数学的に示されました。しかし当時の実験技術ではこれを証明できず、多くの化学者はシクロヘキサンを「実質的に平面」として扱っていました。
1920〜30年代になると、X線回折・電子回折・赤外分光法などの構造解析手法が急速に発展します。ハッセルはこれらの手法をいち早く取り入れ、気相中のシクロヘキサンの実際の形状を決定しようとしました。
電子回折による証明
ハッセルは気体状のシクロヘキサンに電子線を照射し、その散乱パターンを詳細に解析しました。1940年前後に発表した一連の論文で、シクロヘキサンは明確に椅子形配座をとっており、船形は安定な立体構造ではないことを実験的に証明しました。
シクロヘキサンの2つの配座:
椅子形(chair) 船形(boat)
H H H H
/ \ / \ / \
H—C C—H H—C C—C C—H
\ / \_____/
C—C
H H
電子回折解析結果:
椅子形が圧倒的に安定(ΔG ≈ 23 kJ/mol の差)
C–C–C 結合角 ≈ 111°(正四面体角 109.5° に近い)
アキシアル位・エクアトリアル位の概念
椅子形シクロヘキサンでは、各炭素が持つ2本のC–H結合は等価ではありません。環の軸にほぼ平行に向くアキシアル(axial)位と、赤道方向に広がるエクアトリアル(equatorial)位の2種類が存在することをハッセルは明確にしました。
椅子形シクロヘキサンの反転(リング・フリップ):
ax eq ax eq ax eq
\ | / → \ | /
C-C-C C-C-C
/ | \ / | \
eq ax eq ax eq ax
反転の活性化障壁 ≈ 45 kJ/mol(室温で速い交換)
主要業績②:電荷移動錯体(ハロゲン錯体)研究
1950〜60年代、ハッセルは有機分子とハロゲン分子(I2、Br2、ClF など)が形成する電荷移動錯体(charge-transfer complex)の構造研究に取り組みました。
X線結晶解析を用いて、ジオキサンとBr2の錯体などでハロゲン分子がルイス塩基の孤立電子対方向に直線状に配向することを示しました。これは現在「ハロゲン結合(halogen bonding)」と呼ばれる非共有結合相互作用の先駆的研究で、近年の超分子化学・薬物設計研究に直結しています。
ノーベル賞:バートンとの共同受賞
バートンによるコンフォメーション解析の体系化
ハッセルの電子回折データは当初、有機合成化学者には広く認知されていませんでした。1950年、イギリスの化学者デレク・バートンがハッセルの研究を知り、コンフォメーション(配座)の概念を有機反応の反応性・立体選択性の説明に体系的に適用した画期的な論文(”The Conformation of the Steroid Nucleus”, *Experientia*, 1950)を発表します。
バートンはシクロヘキサン環をもつステロイドの反応がアキシアル・エクアトリアルの区別と密接に関係することを示し、コンフォメーション解析を有機化学の主要ツールへと昇格させました。
1969年ノーベル化学賞
ノーベル委員会はハッセルとバートンに対し、「コンフォメーション概念の発展と有機化学への応用」を理由として1969年のノーベル化学賞を授与しました。ハッセルが受賞したのは研究から約30年後のことで、72歳での受賞でした。
現代有機化学への影響
アキシアル・エクアトリアルの区別はシクロヘキサン系への試薬付加(アキシアル攻撃 vs エクアトリアル攻撃)の立体選択性を予測する基盤。天然物全合成設計で不可欠なツールとなっている。
ステロイド系医薬品・糖質コルチコイドの活性はコンフォメーションと密接に関係する。受容体との適合性を予測する際にもコンフォメーション解析は欠かせない。
現代の分子力場(MMFF, OPLS 等)はハッセルが確立した配座エネルギーの概念を直接継承。リング・フリッピングの自由エネルギー計算は創薬研究の標準的工程である。
まとめ
重要キーワード整理
| 用語 | 意味 |
|---|---|
| 配座(コンフォメーション) | 単結合の回転で生じる立体構造の違い。結合の切断・生成なしに相互変換できる |
| 椅子形配座 | シクロヘキサンの最安定配座。C–C–C 結合角が約111°で、ねじれひずみがない |
| アキシアル位 | 椅子形の環平面に対してほぼ垂直に向く結合方向 |
| エクアトリアル位 | 椅子形の環平面に対してほぼ平行に広がる結合方向。大きな置換基はここに安定化 |
| 1,3-ジアキシアル相互作用 | アキシアル置換基が1,3位のアキシアル水素と生じる立体反発。約3–7 kcal/mol のエネルギー不安定化 |
| ハロゲン結合 | ハロゲン原子の σ* 軌道とルイス塩基が形成する非共有結合相互作用。ハッセルが先駆的発見 |
