ベンゼンの共鳴安定化エネルギーの求め方【東大院試2024】

「ベンゼンは芳香族だから安定」——この説明は正しいですが、どれくらい安定なのかを数値で答えられる人は意外と少ないです。2024年度の東京大学大学院工学系研究科の入試「化学」第3問では、3つの分子の水素化熱(水素を付加するときに放出される熱量)を比較するだけで、ベンゼンの安定化の大きさを定量的に見積もる設問が出題されました。電卓1つで解ける計算問題ですが、「共役」と「芳香族安定化」の違いを数値で実感できる、たいへん教育的な良問です。
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【与えられたデータ:水素化熱】 シクロヘキセン −120 kJ/mol (C==C を1つ持つ) 1,3-シクロヘキサジエン −230 kJ/mol (C==C を2つ持つ、共役ジエン) ベンゼン −206 kJ/mol (C==C を3つ持つとみなす、芳香環) 【問い】 ベンゼン環の共鳴安定化エネルギーを見積もれ。
水素化熱とは、アルケンに H2 を付加して飽和化(この場合はすべてシクロヘキサンになる)するときに放出されるエネルギーです。二重結合が多いほど放出される熱量は(単純に考えれば)大きくなるはずですが、実際の数値はそう単純には増えていません。
解き方:仮想的な「シクロヘキサトリエン」を基準に置く
ベンゼンを「3つの孤立したC==C二重結合を持つだけの分子(共鳴のない仮想的なシクロヘキサトリエン)」だと仮定したら、その水素化熱はどうなるはずかを先に計算します。基準として使うのは、共役の影響を受けていないシクロヘキセン(1つのC==C)の水素化熱です。
【Step 1:仮想的なシクロヘキサトリエンの水素化熱を予測する】
シクロヘキセン(孤立したC==C 1つ)の水素化熱:−120 kJ/mol
↓ 単純に3倍する(共鳴がなければ、3つの二重結合は独立に振る舞うはず)
仮想的なシクロヘキサトリエン(孤立したC==C 3つ)の予測値:
−120 × 3 = −360 kJ/mol
【Step 2:実際のベンゼンの水素化熱と比較する】
予測値(仮想的なシクロヘキサトリエン): −360 kJ/mol
実測値(実際のベンゼン) : −206 kJ/mol
差 = −360 − (−206) = −154 kJ/mol
【結論】
ベンゼンの共鳴安定化エネルギー ≈ 154 kJ/mol
(実際のベンゼンは、仮想的なシクロヘキサトリエンより154 kJ/mol安定)
水素化熱は「水素化される前の分子が持っていたエネルギーの高さ」を反映します。実際のベンゼンの水素化熱(−206 kJ/mol)は予測値(−360 kJ/mol)よりずっと小さい(より少ない熱しか放出しない)ということは、水素化される前のベンゼンがすでに予測よりエネルギー的に低い(安定な)状態にあったことを意味します。この「予測よりどれだけ安定だったか」が共鳴安定化エネルギーです。
1,3-シクロヘキサジエンが教えてくれること:「ふつうの共役」との比較
この問題で 1,3-シクロヘキサジエンのデータが与えられているのは、単に計算のためだけではありません。「ふつうの共役による安定化」と「芳香族による特別な安定化」の規模の違いを対比させるためのデータです。
【1,3-シクロヘキサジエンの「ふつうの共役」による安定化】
予測値(孤立したC==C 2つ、シクロヘキセンの2倍):
−120 × 2 = −240 kJ/mol
実測値(1,3-シクロヘキサジエン):−230 kJ/mol
差 = −240 − (−230) = −10 kJ/mol
→ 共役ジエンの安定化はわずか約10 kJ/mol程度
| 分子 | 予測値との差(安定化の大きさ) | 安定化の種類 |
|---|---|---|
| 1,3-シクロヘキサジエン | 約10 kJ/mol | ふつうの共役安定化(小さい) |
| ベンゼン | 約154 kJ/mol | 芳香族安定化(圧倒的に大きい) |
同じ「複数のC==Cが並んだ分子」でも、安定化の大きさにはおよそ15倍もの違いがあります。1,3-シクロヘキサジエンの約10 kJ/molは π 軌道が隣接して重なり合う「ふつうの共役」によるものですが、ベンゼンの約154 kJ/molは、環状に完全に非局在化した6個の π 電子が、Hückel則(4n+2 π 電子)を満たす特別な安定性を持つことによるものです。この量的な差こそが「芳香族性は単なる共役の延長ではなく、特別な現象である」ことの直接的な証拠になります。
この問題が教えてくれる院試の解き方
共鳴安定化エネルギー・歪みエネルギーなど「○○エネルギーを見積もれ」という問題は、共通して次の型で解けます。
【「○○エネルギーを見積もれ」型の解き方】 ① 「特別な効果(共鳴・歪みなど)が全くない」と仮定した 仮想的な分子の物性値を、単純な比例計算で予測する ② 実際に測定された物性値(水素化熱・燃焼熱など)と比較する ③ 予測値と実測値の差が、求めたい「○○エネルギー」になる この型は、共鳴安定化エネルギーだけでなく、シクロアルカンの 環ひずみエネルギー(燃焼熱から見積もる)など、さまざまな 「安定化・不安定化の大きさ」を問う問題に共通して使える。
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求電子的芳香族置換反応における芳香環の反応性・配向性の理論的背景については、求電子的芳香族置換(EAS)の基本記事で解説しています。ベンゼン環の安定性そのものが、なぜEASのような置換反応(環を保ったまま置換基だけが変わる反応)を起こしやすいのかを理解する土台になります。
まとめ
よくある質問(FAQ)
シクロヘキセンは孤立した(共役していない)C==C二重結合を1つだけ持つ分子で、特別な安定化・不安定化の影響を受けていない「ふつうの二重結合」の水素化熱を代表する値として使えます。これを二重結合の数だけ単純に倍にした値を「共鳴がなかったら本来こうなるはず」という基準(仮想的な分子の予測値)として使うのが、この計算方法の考え方です。
計算だけを見ればシクロヘキセンとベンゼンの2つのデータだけで共鳴安定化エネルギーは求まります。しかし1,3-シクロヘキサジエンのデータがあることで、「単なる共役(小さい安定化)」と「芳香族性(圧倒的に大きい安定化)」を同じ手法・同じ単位で比較できるようになり、芳香族性の特別さがより説得力を持って示せます。出題者がこの3つ目のデータをわざわざ与えているのは、この対比を読み取らせる意図があると考えられます。
はい。燃焼熱(完全燃焼で放出される熱量)を使う方法も標準的です。考え方は同じで、「孤立した結合だけを持つ仮想的な分子の燃焼熱の予測値」と「実際の燃焼熱」の差を取ります。水素化熱を使う方法と燃焼熱を使う方法で得られる共鳴安定化エネルギーの値はわずかに異なりますが(基準の取り方や測定条件の違いによる)、どちらも同じオーダー(100–150 kJ/mol程度)の値になります。
多環芳香族化合物(ナフタレン、アントラセンなど)や複素芳香族化合物(ピリジン、フランなど)でも同様の考え方は使えますが、環が複数あったり異種原子を含む場合は「孤立二重結合の基準値をどう設定するか」がより複雑になります。基本的な考え方(仮想的な予測値と実測値の差)は共通していますが、応用する際は各分子の構造に応じて基準の取り方を慎重に検討する必要があります。
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