ノーベル化学賞を2度受賞した人物は、歴史上ごくわずかしかいない。フレデリック・サンガー、そしてカール・バリー・シャープレス——有機化学者の中でこの栄誉に達したのは、実はシャープレスただ一人である。

1度目は2001年、不斉酸化触媒の開発で。彼が生み出した不斉エポキシ化(Sharpless epoxidation)は、ありふれたアリルアルコールを望みの立体配置をもつエポキシドへ、驚くほど高い光学純度で変換する。2度目は2022年、クリックケミストリーという「レゴブロックのように分子をつなぐ」思想を提唱した功績で。1つの発想が化学全体の作り方を変えてしまった。

この記事では、院試でも頻出のSharpless不斉エポキシ化不斉ジヒドロキシ化のしくみを軸に、さらにクリックケミストリー(CuAAC)の考え方までを、シャープレスの生涯とともにたどる。「片方の鏡像体だけを狙って作る」という不斉合成の思想が、いかにして実用と発想の転換をもたらしたのかを見ていこう。

この記事で学ぶこと
・Sharpless不斉エポキシ化の試薬(Ti・酒石酸エステル・TBHP)と役割
・酒石酸エステルの左右で酸素がどちらの面から入るか(面選択の覚え方)
・Sharpless不斉ジヒドロキシ化とAD-mix-α/βの使い分け
・「クリックケミストリー」とは何か、CuAACがなぜ画期的なのか
・有機化学者として唯一2度のノーベル賞に輝いたシャープレスの生涯

生涯と略歴——二度の頂点に立った不斉合成の巨人

K・B・シャープレスは1941年4月28日、アメリカ・フィラデルフィアに生まれた。ダートマス大学で学んだのちスタンフォード大学で有機化学の博士号を取得し、ハーバード大学でのポスドクを経て研究者としての道を歩み始める。以後、MIT(マサチューセッツ工科大学)とスタンフォード大学で教鞭をとり、1990年からはスクリプス研究所(Scripps Research)を拠点とした。

1980年、共同研究者の香月勗(Tsutomu Katsuki)とともに不斉エポキシ化を報告。チタンと酒石酸エステルという安価で入手容易な試薬から、高い光学純度でキラルなエポキシドを合成できるこの反応は、不斉合成の実用化に大きな弾みをつけた。続いて四酸化オスミウムを使う不斉ジヒドロキシ化不斉アミノヒドロキシ化と、酸化的な不斉変換を次々に切り拓いていく。

これらの成果により、シャープレスは2001年、ウィリアム・ノウルズ・野依良治とともにノーベル化学賞を受賞する。そして2000年前後からは「必要なのは新しい反応の乱造ではなく、確実で簡単な少数の反応だ」というクリックケミストリーの思想を提唱。この発想と、その代表反応である銅触媒アジド-アルキン環化付加(CuAAC)への貢献により、2022年にキャロリン・ベルトッツィ・モルテン・メルダルとともに2度目のノーベル化学賞を受賞した。有機化学者として史上初の栄誉である。

出来事
1941アメリカ・フィラデルフィアに生まれる
1968スタンフォード大学で博士号を取得
1970MITの教員となり研究室を構える
1980香月勗とともに不斉エポキシ化(Sharpless epoxidation)を報告
1988触媒的な不斉ジヒドロキシ化(AD)を確立、AD-mixとして実用化へ
1990スクリプス研究所へ移る
2001「クリックケミストリー」の概念を発表/ノウルズ・野依とノーベル化学賞を受賞
2002メルダルと独立に、銅触媒アジド-アルキン環化付加(CuAAC)を報告
2022ベルトッツィ・メルダルと2度目のノーベル化学賞を受賞
2度のノーベル化学賞という記録
個人で2度ノーベル化学賞を受けたのは、シャープレスとフレデリック・サンガーの2人だけ(マリー・キュリーは物理学賞と化学賞、ライナス・ポーリングは化学賞と平和賞)。純粋な有機化学の業績で2度受賞したのはシャープレスが史上初である。

Sharpless不斉エポキシ化——アリルアルコールをキラルに酸化する

アルケンをエポキシド(三員環エーテル)に変える酸化は、mCPBAなどの過酸によるエポキシ化が古くから知られていた。しかし過酸を使う方法では、生成するエポキシドはラセミ体(右手型と左手型が半々)になってしまう。医薬品では片方の鏡像体だけが必要なことが多く、「望みの立体配置をもつエポキシドだけを作る」ことが大きな課題だった。

シャープレスが1980年に示した不斉エポキシ化は、この問題を鮮やかに解いた。基質をアリルアルコール(C=C—C—OH)に限定するかわりに、次の3つの試薬を組み合わせることで、高い光学純度(しばしば90% ee以上)のキラルエポキシドを得る。

【Sharpless不斉エポキシ化の試薬と役割】

  Ti(OiPr)4         … チタンテトライソプロポキシド(中心金属)
  (+)- or (−)-DET   … 酒石酸ジエチル(キラル源。左右を選ぶ)
  TBHP (t-BuOOH)    … tert-ブチルヒドロペルオキシド(酸素の供与体)

  アリルアルコール  →  2,3-エポキシアルコール(高 ee)

反応の鍵は、基質のヒドロキシ基(–OH)がチタンに配位する点にある。アルコールが金属を引き寄せることで、酸素供与体(TBHP)と基質が同じチタン中心にそろい、決まった面からだけ酸素が渡される。酒石酸エステルの立体(右手型か左手型か)がこの面選択を支配するため、使う酒石酸を替えるだけで望みの鏡像体を作り分けられる。ヒドロキシ基という「取っ手」がなければ成立しない、基質配向型の不斉触媒である。

面選択の覚え方(Sharpless mnemonic)
アリルアルコールを、二重結合を左・–OHを右下に置いて紙面に描く。このとき(−)-DET(D-酒石酸)は上の面から(+)-DET(L-酒石酸)は下の面から酸素を渡す、と覚える。「マイナスは上、プラスは下」とセットで暗記すれば、生成物の立体配置を即座に予測できる。
よくある誤解
Sharpless不斉エポキシ化はどんなアルケンにも使えるわけではない。反応が成立するのは–OHが金属に配位できるアリルアルコール(およびホモアリルアルコール)に限られる。単純なアルケンをキラルにエポキシ化したい場合は、Jacobsen(ヤコブセン)触媒など別の系を使う。「不斉エポキシ化=Sharpless」と丸暗記せず、基質の適用範囲まで押さえよう。

Sharpless不斉ジヒドロキシ化——アルケンからキラルなジオールへ

アルケンに四酸化オスミウム(OsO4)を作用させると、二重結合の同じ面に2つの–OHが付くシン付加が起こり、cis-1,2-ジオールが得られる。これがUpjohnジヒドロキシ化などで知られる古典的な反応だ。シャープレスはここにキラルな配位子を加えることで、ジオールの立体を制御する不斉ジヒドロキシ化(AD, Asymmetric Dihydroxylation)へと発展させた。

用いるキラル配位子はキナ・アルカロイド由来で、代表的には(DHQD)2PHAL(DHQ)2PHALという擬鏡像の一対。これらと OsO4・再酸化剤(K3Fe(CN)6など)をあらかじめ調合したものが、市販のAD-mix-αAD-mix-βである。試薬を混ぜて基質を入れるだけでキラルなジオールが得られる手軽さから、実験室で広く使われた。

【AD-mixの使い分け(模式)】

   アルケンを、置換基が大きい方を左上に描く

              OH
              |
     AD-mix-β(DHQD配位子) → 上の面から2つのOH
     ============C=C============
     AD-mix-α(DHQ配位子)  → 下の面から2つのOH
              |
              OH

   β は上(β = ボトムの反対と覚える人も)
   α と β で鏡像のジオールを作り分けられる

AD-mix-αAD-mix-βは、それぞれ反対側の面からジヒドロキシ化を進める。つまり同じアルケンから、望みに応じて鏡像関係にある2種類のジオールを作り分けられる。触媒量のオスミウムで進む点、そして「調合済みの粉末を混ぜるだけ」という実用性が、この反応を教科書の定番にした。

触媒的に回すしくみ
OsO4は高価で毒性も高いため、化学量論量では使いにくい。ADでは反応後に生じたオスミウム(VI)種をK3Fe(CN)6などの再酸化剤でOsO4へ戻し、少量のオスミウムを繰り返し使う。「高価な金属を触媒量で回す」という発想は、野依良治のBINAP不斉水素化と共通する不斉触媒の王道である。

クリックケミストリー——分子をレゴのようにつなぐ思想

2001年、シャープレスは不斉合成とはまったく別の角度から、化学の作り方そのものを問い直す概念を提唱した。それがクリックケミストリー(click chemistry)である。複雑な分子を苦労して一から組み上げるのではなく、信頼性が高く・副反応がなく・高収率で・簡単に進む「良質な少数の反応」だけを使い、部品を「カチッ(click)」とつなぎ合わせて目的物を作ろう、という発想だ。

その理想を最もよく体現するのが、銅触媒アジド-アルキン環化付加(CuAAC)である。もともとアジドとアルキンのHuisgen 1,3-双極子環化付加は知られていたが、加熱が必要なうえ1,4-体と1,5-体の混合物ができてしまう欠点があった。シャープレスとメルダルは独立に、銅(I)触媒を加えるとこの反応が室温で劇的に加速し、しかも1,4-二置換トリアゾールだけを選択的に与えることを見出した。

【CuAAC(銅触媒アジド-アルキン環化付加)】

   R–N3  +  H–C≡C–R'
        |
        |   Cu(I) 触媒(室温・水中でも進行)
        ↓
   1,4-二置換 1,2,3-トリアゾール(単一の位置異性体)

   ・速い ・高収率 ・副反応ほぼなし
   ・水中・生体条件でも安定に進む

トリアゾール環はきわめて安定で、生体内の官能基とも反応しにくい。この「直交性」の高さから、CuAACは創薬・材料・生体分子標識・高分子合成など、分野を横断して爆発的に普及した。のちにキャロリン・ベルトッツィが銅を使わずに生きた細胞内で進む生体直交型クリック反応へと発展させ、この一連の流れが2022年のノーベル化学賞につながる。

Huisgen反応との違いを一言で
無触媒のHuisgen環化付加=「加熱が必要・1,4体と1,5体が混ざる」。CuAAC=「室温で速い・1,4体だけ」。銅(I)がアルキンを活性化して位置選択性と速度を一気に改善した、と押さえればCuAACの新規性が説明できる。

現代への影響

シャープレスの仕事は、「片方の鏡像体を狙って作る不斉酸化」と「必要な分子を確実につなぐクリック」という、一見無関係な2つの領域にまたがる。しかし両者に共通するのは「実用に耐える確実さ」を最重視する姿勢だ。その影響は次の3つの観点で整理できる。

合成化学

不斉エポキシ化・不斉ジヒドロキシ化はキラルビルディングブロックの標準的な作り方となり、CuAACは分子連結の定番反応になった。

医薬・材料

光学活性エポキシド・ジオールは医薬品中間体として量産され、クリック反応は創薬スクリーニングや機能性高分子の合成を支える。

教育・院試

Sharpless酸化の試薬と面選択、CuAACとHuisgen反応の違いは、立体化学・酸化・環化付加の頻出テーマとして出題される。

まとめ

この記事のポイント
・K・B・シャープレス(1941–)は不斉酸化(2001)クリックケミストリー(2022)で2度ノーベル化学賞を受賞した、有機化学者として史上初の人物
Sharpless不斉エポキシ化は Ti(OiPr)4・酒石酸ジエチル・TBHP を使い、アリルアルコールの–OHが金属に配位して面選択が決まる
・酒石酸の左右で酸素の入る面が変わり、望みの鏡像体を作り分けられる((−)-DETは上・(+)-DETは下)
不斉ジヒドロキシ化(AD)は OsO4とキナアルカロイド配位子で cis-ジオールを不斉合成し、AD-mix-α/βで鏡像を作り分ける
クリックケミストリーは「確実な少数の反応で部品をつなぐ」思想で、代表反応CuAACは銅(I)触媒でHuisgen環化付加を高速化し1,4-トリアゾールを選択的に与える

シャープレスが2001年のノーベル化学賞を分かち合ったのが、不斉水素化を工業化したウィリアム・ノウルズと、BINAP触媒で不斉水素化を極めた野依良治だ。ノウルズ・野依が「還元(水素化)」の不斉を、シャープレスが「酸化」の不斉を担ったと整理すると、2001年の受賞テーマ全体が立体的に見えてくる。エポキシ化の基礎として過酸によるPrilezhaevエポキシ化とあわせて読むと、Sharpless酸化の新規性がいっそう明確になる。