有機化学の実験室でもっとも古典的な事故のひとつが、古いエーテルを蒸留して濃縮したときの爆発です。開けたまま棚に置かれていたジエチルエーテルや THF の瓶に、いつのまにか過酸化物が溜まっている——溶媒は何も混ぜていないのに、です。

原因は自動酸化(autoxidation)です。開始剤も光も加えていないのに、空気中の酸素だけでラジカル連鎖が始まってしまう反応です。油が古くなって嫌な匂いを出すのも、乾性油が固まって塗膜になるのも、生体で脂質過酸化が起きるのも、すべて同じ連鎖です。

この記事では、自動酸化をたった2段の成長段として書き下し、「どこが酸化されるか」を結合解離エネルギー(BDE)で予測できるようにします。そして酸化防止剤がなぜ効くのかを、連鎖の止め方として説明します。

この記事で学ぶこと
・自動酸化の2つの成長段と、なぜ開始剤がいらないのか
・どの C−H が酸化されるかを BDE から予測する方法
・古いエーテル・THF を濃縮してはいけない化学的な理由
・油脂の酸敗と脂質過酸化が同じ反応であること
・酸化防止剤(BHT・ビタミンE)が効くしくみ
・自動酸化を工業的に利用するクメン法

自動酸化とは — 開始剤のいらないラジカル連鎖

ラジカル連鎖反応はふつう、開始剤(AIBN や過酸化物)や光でラジカルを作ることから始まります。自動酸化が特別なのは、その最初のひと押しが不要なところです。空気にさらして放置するだけで進みます。

連鎖の中身は、驚くほど単純です。成長段は2つしかありません。

成長1  R• + O2     →  R−O−O•              (ペルオキシラジカル)
成長2  R−O−O• + R−H  →  R−O−O−H + R•    (ヒドロペルオキシド)

自動酸化の連鎖サイクル。Rラジカルが酸素と結合してペルオキシラジカルになり、炭素水素結合から水素を引き抜いてヒドロペルオキシドとRラジカルに戻る

成長2で R• が再生するので、連鎖はここで閉じます。あとは酸素と基質があるかぎり、同じ2段が何千回でも繰り返されます。生成物はヒドロペルオキシド ROOHです。

なぜ成長1が極めて速いのか

酸素分子は、基底状態で2個の不対電子をもつ三重項ジラジカルです。ふつうの有機分子と違って、もともとラジカルとして振る舞えるので、R• との結合形成に活性化障壁がほとんどありません。

そのため成長1は拡散が追いつく速さで進みます。連鎖全体の速さを決めるのは成長2、つまりどこから水素を引き抜けるかです。ここが位置選択性の急所になります。

「開始剤がいらない」の実際
厳密には、微量の金属イオン・熱・光・既に生じた ROOH の分解などが最初のラジカルを供給しています。ただしその量はごくわずかで足りる——連鎖が長いため、1個のラジカルが何千分子も酸化してしまうからです。だから実用上は「勝手に始まる」ように見えます。

どこが酸化されるのか — BDE がいちばん小さいところ

成長2は水素引き抜きです。したがって狙われるのはBDE がいちばん小さい C−H、言い換えればできるラジカルがいちばん安定な位置です。

C−H の種類BDE(kJ/mol・目安)自動酸化されやすさ
第1級アルキル421ほとんどされない
第3級アルキル400条件によっては進む
エーテルの α 位約 385〜390される(酸素の孤立電子対で安定化)
ベンジル位375される(環全体に非局在化)
アリル位372される(二重結合と共鳴)
1,4-ジエンの間の CH2約 322非常にされやすい(2本の二重結合で安定化)

自動酸化が狙う炭素水素結合の結合解離エネルギー比較。1,4-ジエンの間のメチレンが322kJ/molで最も小さい

順序はカルボカチオンの安定性と同じで、理由も同じ——超共役と共鳴です。詳しくはアリル位の安定性で扱っています。

表の一番下が自動酸化の主役です。二重結合2本にはさまれた CH2 は、引き抜くと両方の二重結合と共鳴できるラジカルを与えるので、BDE が第1級より 100 kJ/mol 近く小さくなります。この1か所が、食用油の運命を決めます。

エーテルの過酸化物 — 古い溶媒を濃縮してはいけない理由

エーテルは反応性が低く、溶媒として重宝されます。ところがα 位の C−H だけは弱点です。

CH3CH2−O−CH2CH3  の α 位から H を引き抜くと
   →  隣の酸素の孤立電子対で安定化されたラジカルができる
   →  BDE が小さい  →  空気中で自動酸化される
   →  ヒドロペルオキシド・過酸化物が蓄積する
   →  蒸留して濃縮すると爆発する

危険なのは濃縮する操作です。過酸化物はエーテルより沸点が高いので、蒸留すると残留物側に濃くなっていきます。溶媒を最後まで留去して釜を空にしようとしたときが、もっとも危ない瞬間です。

実験室での扱い(必ず守る)
・開封後に長く置いたジエチルエーテル・THF・1,4-ジオキサン・ジイソプロピルエーテルは、過酸化物検査紙で確認してから使う
・蒸留は絶対に乾固させない。残留物を必ず残す
・BHT などの安定剤入り製品が売られているのは、まさにこの連鎖を止めるため

ジイソプロピルエーテルがとくに危険とされるのは、α 位が第3級で BDE がさらに小さいからです。「どのエーテルが危ないか」も BDE で説明がつきます。

油脂の酸敗と脂質過酸化

食用油に含まれる不飽和脂肪酸には、二重結合2本にはさまれた CH2 があります。リノール酸がその典型です。

ここが自動酸化されると、ヒドロペルオキシドが生じ、それがさらに分解してアルデヒドやケトンになります。古い油の不快な匂いの正体はこれです。この現象を酸敗(rancidity)と呼びます。

現象起きていること
油脂の酸敗不飽和脂肪酸のジエン間 CH2 が自動酸化され、生じた ROOH が分解して低分子のアルデヒドになる
乾性油の硬化アマニ油などでは、生じたラジカルどうしが結合して架橋し、塗膜になる(油絵具・油性塗料が乾くしくみ)
脂質過酸化同じ連鎖が細胞膜のリン脂質で起きる。膜の性質が変わるため、生体にとって有害

3つは見た目がまったく違いますが、化学としては同じ2段の連鎖です。違うのは基質と、生じたラジカルの行き先だけです。

酸化防止剤はなぜ効くのか — 停止段を人為的に増やす

連鎖反応を止めたいとき、成長段を邪魔しようとするのは筋が悪い——成長段は速く、しかも2つあります。効くのは連鎖を担っているラジカルを、それ以上反応できないものに変えてしまうことです。

これが酸化防止剤(抗酸化剤)の働きです。

R−O−O• + Ar−OH(フェノール性の酸化防止剤)
      →  R−O−O−H + Ar−O•
                          ↑ ここで連鎖が止まる
                            (Ar−O• は安定で、もう水素を引き抜けない)

ポイントは、酸化防止剤がラジカルを消しているのではなく、弱いラジカルに置き換えていることです。生じたフェノキシラジカルは、環との共鳴と、まわりの置換基による立体保護で安定化されていて、C−H から水素を引き抜くほどの力がありません。連鎖担体ではなくなるのです。

酸化防止剤使われる場所と構造上の特徴
BHT(ジブチルヒドロキシトルエン)THF・エーテルの安定剤、食品・樹脂。OH の両隣に tert-ブチル基があり、生じたラジカルを立体的に守る
ビタミンE(α-トコフェロール)生体膜の中で脂質過酸化を止める。フェノール部分が水素を渡す担当

「抗酸化」という言葉の中身は、つまりラジカル連鎖の停止段です。ビタミンEが体にとって重要なのは、細胞膜という自動酸化されやすい場所に、連鎖を止める分子が常駐しているからです。

覚え方
連鎖反応を止めるには「成長を妨げる」より「担体を安定なラジカルに変える」。酸化防止剤は停止段を1つ増やしていると考えるとしくみが一本で通ります。

自動酸化を工業的に使う — クメン法

自動酸化は困った現象ばかりではありません。ベンジル位が酸化されやすいという性質を利用して、フェノールの工業生産は、その大部分がこの方法によっています。

① ベンゼン + プロペン           →  クメン(イソプロピルベンゼン)
② クメン + O2(空気酸化)      →  クメンヒドロペルオキシド
   (第3級かつベンジル位の C−H なので、いちばん酸化されやすい)
③ 酸で処理(1,2-転位)           →  フェノール + アセトン

クメン法の3段階。ベンゼンとプロペンからクメン、空気酸化でクメンヒドロペルオキシド、酸による1,2-転位でフェノールとアセトン

②が自動酸化そのものです。クメンの第3級ベンジル位はBDE が最小なので、そこだけが選択的に酸化されます——位置選択性を BDE で設計しているわけです。

③はヒドロペルオキシドの酸素上で起きる1,2-転位で、バイヤー・ビリガー酸化と同じ「電子不足の酸素へ基が移動する」型です。アセトンが同時に得られるため経済性が高く、これが工業的な主流になっています。

院試・定期試験での問われ方

問われ方答えるときの着眼点
どの位置が酸化されるかBDE が最小の C−H を探す。ジエン間 CH2 > アリル・ベンジル > エーテル α 位 > 第3級
機構を3段で書け開始・成長(2つ)・停止。成長段の和が全体の反応式になることを検算に使う
酸化防止剤が効く理由ROO• に H を渡し、安定なフェノキシラジカルに置き換えて連鎖を切ると書く

成長段の和をとると R−H + O2 → R−O−O−H になります。中間体の R• と ROO• が両辺で消えるはずで、消えなければ機構の書き方を間違えています。ラジカル反応の答案では、この検算がいちばん確実です。

まとめ

この記事の要点
・自動酸化は成長段が2つだけの連鎖:R• + O2 → ROO•、ROO• + R−H → ROOH + R•
・O2 は三重項ジラジカルなので成長1は極めて速く、速さと選択性は成長2で決まる
・狙われるのはBDE が最小の C−H。ジエン間 CH2・アリル位・ベンジル位・エーテル α 位
・古いエーテルは濃縮すると過酸化物が濃くなって危険。乾固させない
・酸敗・乾性油の硬化・脂質過酸化はすべて同じ連鎖
・酸化防止剤は停止段を増やす——安定なフェノキシラジカルに置き換えて連鎖を切る
・クメン法は自動酸化の位置選択性を設計に使った工業プロセス

自動酸化は「勝手に起きてしまう厄介な反応」に見えますが、どこで起きるかは BDE で予測でき、どう止めるかは停止段で設計できます。実験室の安全、食品の保存、生体の防御、そして工業プロセスが、同じ2本の式の上に載っています。

よくある質問

自動酸化と燃焼はどう違うのですか?

どちらも酸素によるラジカル連鎖ですが、温度と連鎖分岐の有無が違います。燃焼は高温で進み、1個のラジカルから2個以上のラジカルが生じる連鎖分岐が起こるため、反応が加速的に暴走します。自動酸化は室温付近でゆっくり進み、成長段でラジカルの数は増えません。生成物も自動酸化ではヒドロペルオキシドが主で、二酸化炭素と水にはなりません。

古いエーテルを蒸留すると危険なのはなぜですか?

エーテルは α 位の C−H の結合解離エネルギーが小さく、空気中で自動酸化されてヒドロペルオキシドや過酸化物を生じます。これらはエーテルより沸点が高いため、蒸留すると留出せずに残留物側へ濃縮されていきます。濃くなった過酸化物は衝撃や加熱で爆発的に分解するため、蒸留を乾固まで進めてはいけません。使用前に過酸化物検査紙で確認するのが原則です。

不飽和脂肪酸が酸化されやすいのはどの位置ですか?

二重結合2本にはさまれた CH2、つまり 1,4-ジエンの中央の位置です。ここから水素が引き抜かれると、生じたラジカルが両方の二重結合と共鳴して大きく安定化されるため、結合解離エネルギーが第1級アルキルより 100 kJ/mol 近く小さくなります。リノール酸のような多価不飽和脂肪酸が酸敗しやすいのはこのためで、二重結合の数が多いほど酸化されやすくなります。

酸化防止剤はラジカルを消しているのですか?

消してはいません。ペルオキシラジカルに水素を渡して、自分が安定なフェノキシラジカルに変わっています。そのフェノキシラジカルは芳香環との共鳴と周囲の置換基による立体保護で安定化されており、C−H から水素を引き抜く力がありません。つまり連鎖を担えるラジカルが担えないラジカルに置き換わるので、実質的に停止段が1つ増えたことになります。

クメン法ではなぜクメンを使うのですか?

クメンのイソプロピル基の中央の炭素は、第3級でありながらベンジル位でもあるため、分子内でもっとも結合解離エネルギーの小さい C−H をもちます。そのため空気酸化を行うと、その位置だけが選択的にヒドロペルオキシドになります。これを酸で処理すると 1,2-転位が起こってフェノールとアセトンが同時に得られるため、副生物も製品として売れる経済的なプロセスになります。

カズ塾有機化学 第2巻「反応編」第7部 ラジカルの舞台/第29章 ラジカルを使う反応
・この章を読み終えると:条件(光・過酸化物・濃度)から舞台を読める
・この章のほかの記事:NBS によるラジカル臭素化/ラジカル付加と重合/Barton-McCombie 脱酸素化/Hunsdiecker 反応
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