「質量分析・赤外分光法による構造決定」完全解説|MS・IRスペクトルの読み方・官能基同定・院試対策を徹底解説
はじめに:「見えない分子」の構造をどうやって決めるか?
コーヒーには1,000種類以上の化合物が含まれています。それらの構造は、いったいどのようにして決定されたのでしょうか?
有機化合物の構造決定は、20世紀中頃まで非常に手間のかかる作業でした。しかし現代では、質量分析(MS)・赤外分光法(IR)・紫外分光法(UV)・核磁気共鳴分光法(NMR)という4つの強力なスペクトル技術が、この問題を劇的に効率化しています。
本章では MS と IR の2つを集中的に学びます。次章では UV と NMR を扱います。
12.1 小分子の質量分析:磁気セクター型装置
質量分析法(mass spectrometry; MS)とは、分子の質量(=分子量 MW)を測定する技術です。さらに、分子を断片化させてその質量を測ることで、構造情報も得られます。
市販の質量分析計は20種類以上ありますが、いずれも3つの基本構成要素をもちます。
| 構成要素 | 役割 | 代表例 |
|---|---|---|
| イオン化源 | 試料分子に電荷を与える | 電子衝撃(EI)、ESI、MALDI |
| 質量分析部 | m/z 比でイオンを分離 | 磁気セクター、四重極(Q)、TOF |
| 検出器 | 分離されたイオンを検出・カウント | 光電子増倍管、電子増倍管 |
電子衝撃(EI)イオン化の仕組み
実験室でよく使われる電子衝撃・磁気セクター型質量分析計では、次のプロセスが起こります。
- 試料を気化してイオン化源に送り込む
- 約70 eV(≈ 6700 kJ/mol)の高エネルギー電子ビームが分子に衝突する
- 価電子が1個はじき出され、カチオンラジカル(M+•)が生成する
有機分子 + e−(高エネルギー) → M+•(カチオンラジカル) + 2e−
カチオンラジカルはエネルギーが高いため、多くは直ちにフラグメント化します。生じたイオンは磁場中を曲がり、質量電荷比(m/z)に応じて分離されます。中性フラグメントは磁場に偏向されず壁に衝突して消え、正電荷をもつフラグメントのみが検出されます。
四重極型質量分析計
四重極型では4本の金属ロッドを並列させ、その間に振動電場を発生させます。特定の m/z をもつイオンのみが四重極領域を通過して検出器に到達し、それ以外のイオンはロッドに衝突して失われます。
マススペクトルの見方
マススペクトルは、横軸に m/z、縦軸に相対存在量(%)をとった棒グラフで表示されます。
- ベースピーク(base peak):最も高い(100%の強度をもつ)ピーク
- 親ピーク(molecular ion; M+•):フラグメント化していないカチオンラジカルに対応するピーク
例えばプロパン(C3H8; MW = 44)のマススペクトルでは、分子イオンピークが m/z = 44 に、ベースピークが m/z = 29 に現れます。
12.2 マススペクトルの解釈
分子量と分子式の決定
マススペクトルから最も明確に得られる情報は分子量です。例えばヘキサン(MW = 86)・1-ヘキセン(MW = 84)・1-ヘキシン(MW = 82)は MS で容易に識別できます。
高分解能質量分析計(double-focusing MS)では質量を 5 ppm(約 0.0005 amu)の精度で測定でき、同じ公称質量をもつ異なる分子式を区別できます。
C5H12 正確な質量 = 72.0939 amu C4H8O 正確な質量 = 72.0575 amu (どちらも公称質量 = 72 amu だが、高分解能 MS で識別可能)
M+ が観測されない場合
2,2-ジメチルプロパン(ネオペンタン)のように不安定なカチオンラジカルは容易にフラグメント化し、分子イオンが観測されないことがあります。このような場合は、電子衝撃を使わない「ソフトイオン化法」が有効です。
M+1 ピーク:同位体の影響
分子イオンより1質量単位高い位置に小さなピーク(M+1 ピーク)が現れます。これは重同位体の存在によります。
| 同位体 | 天然存在比 | M+1 への寄与 |
|---|---|---|
| 13C | 1.10% | 主な寄与 |
| 2H(重水素) | 0.015% | 微小な寄与 |
フラグメンテーションパターンの解釈
マススペクトルの最大の魅力の一つは、フラグメンテーションパターンから構造情報が得られることです。フラグメンテーションは、高エネルギーのカチオンラジカルが化学結合を自発的に開裂することで起こります。
M+• → カルボカチオン(検出される) + 中性ラジカル(検出されない)
正電荷は最も安定なカルボカチオンに残る傾向があります。例えば 2,2-ジメチルプロパンは、tert-ブチルカチオン(m/z = 57)をベースピークとして与えます。
ヘキサン(MW = 86)のマススペクトルでは、すべての C–C 結合が類似した電子状態をもつため、多様な開裂が起こります。
| 失われるラジカル | 質量 | フラグメントイオン (m/z) | 相対存在量 |
|---|---|---|---|
| CH3• | 15 | 71 | 10% |
| C2H5• | 29 | 57 | 100%(ベースピーク) |
| C3H7• | 43 | 43 | 75% |
| C4H9• | 57 | 29 | 40% |
12.3 主要官能基の質量分析
各官能基は特徴的なフラグメンテーションパターンを示します。将来の各章で詳しく扱いますが、ここで代表的なものを概観します。
α開裂(Alpha Cleavage)
α開裂は、ヘテロ原子(O、N)の隣(α 位)の C–C 結合が切れる反応です。共鳴安定化されたオキソニウムイオンやイミニウムイオンが生成します。
ヒドロキシ基の隣の C–C 結合が開裂。酸素が正電荷を安定化した
[CH=OH]+ 型のイオンが生成する。|||
アミンの α 開裂
窒素原子の隣の C–C 結合が開裂。
[>N=CH–R]+ 型の共鳴安定化イオンが生成する。
アルコールの脱水(Dehydration)
アルコールは M+ よりも 18 amu 低い位置(M − 18)にピークを示します。これは水 H2O の脱離によりアルケンラジカルカチオンが生じるためです。
2-ペンタノール(MW = 88)のマススペクトルでは、α 開裂由来の m/z = 45 と m/z = 73 のピークが観測されます。
窒素則(Nitrogen Rule)
例:トリエチルアミン(MW = 101、奇数)はベースピーク m/z = 86(窒素を含む α 開裂フラグメント)を示す。
ハロゲン化物の同位体パターン
クロロ化合物やブロモ化合物は、同位体の天然存在比が反映された特徴的なM と M+2 のパターンを示します。
| 元素 | 同位体 | 天然存在比 | M : M+2 の比 |
|---|---|---|---|
| 塩素 Cl | 35Cl / 37Cl | 75.8% / 24.2% | 約 3 : 1 |
| 臭素 Br | 79Br / 81Br | 50.7% / 49.3% | 約 1 : 1 |
カルボニル化合物:McLafferty 転位
カルボニル基から3つ離れた炭素(γ 位)に H を持つケトン・アルデヒドは、McLafferty 転位という特徴的な開裂を起こします。
McLafferty 転位の流れ: ① γ-H がカルボニル O へ移動(6員環遷移状態) ② α-β 間の C–C 結合が開裂 ③ 中性アルケンが脱離し、酸素にプロトンが付いたフラグメントが残る → 損失する質量 = 脱離するアルケンの質量
ブチロフェノン(MW = 148)のマススペクトルでは:
- α 開裂 → m/z = 105(プロピル基 43 を失う)
- McLafferty 転位 → m/z = 120(エチレン 28 を失う)
12.4 生化学への応用:飛行時間型(TOF)質量分析
生体分子の分析では、電子衝撃法ではなくソフトイオン化法が使われます。フラグメンテーションをほぼ起こさずに大きな分子をイオン化できるためです。
溶液から試料を噴霧し、高電圧でイオン化。溶媒分子からプロトンを受け取り、M + nHn+ として多価イオン化する。
2,5-ジヒドロキシ安息香酸などのマトリックスに試料を混ぜ、レーザー照射でイオン化。M + H+ として主に1価イオンになる。
イオンを加速後、ドリフトチューブ内の飛行時間から質量を決定。v = √(2E/m) より、軽いイオンほど速く飛ぶ。100 kDa まで対応。
MALDI-TOF はタンパク質など高分子の分析に威力を発揮します。例えばニワトリ卵白リゾチーム(MW = 14,306.7578 Da)の精密な分子量をこの方法で決定できます。
12.5 電磁波スペクトル
IR・UV・NMR などの分光法は、MS とは異なり非破壊的であり、分子が電磁波と相互作用することで情報を得ます。
電磁波は波長 λ と振動数 ν で特徴付けられます:
λ × ν = c(光速 = 3.00 × 108 m/s) 光子1個のエネルギー: ε = hν = hc / λ (h = プランク定数 6.62 × 10−34 J·s) 1 mol 分のエネルギー: E = NAhν = 1.20 × 105 kJ·m / mol / λ(m)
| 電磁波の種類 | 波長の目安 | 分子への影響 |
|---|---|---|
| X 線 | ~0.1 nm | 電子の散乱(X 線結晶解析) |
| 紫外・可視光(UV-Vis) | 200〜800 nm | 電子の励起(π → π*、n → π* 遷移) |
| 赤外線(IR) | 2.5〜25 μm | 結合の伸縮・変角振動 |
| マイクロ波・電波(NMR) | cm〜m | 核スピンの反転、分子回転 |
エネルギーは波長が短い(=振動数が高い)ほど高い。X 線 > UV > 可視光 > IR > マイクロ波 の順です。
12.6 赤外(IR)分光法の原理
IR 分光法で有機化学者が使う領域は波数 4000〜400 cm−1(波長 2.5〜25 μm)です。
なぜ特定の波長を吸収するのか?
分子中の結合は常に伸縮・変角振動を繰り返しています。振動のエネルギーは量子化されており、特定の振動数に対応した振動数の IR 光が照射されると、振動の振幅が増大します(エネルギー吸収)。
代表的な振動モード:
| 振動モード | 内容 |
|---|---|
| 対称伸縮(symmetric stretching) | 結合が同時に同方向に伸縮 |
| 逆対称伸縮(antisymmetric stretching) | 結合が逆方向に伸縮 |
| 面内変角(in-plane bending) | 結合角が変化(面内) |
| 面外変角(out-of-plane bending) | 原子が分子面から垂直方向に変位 |
「バネと重り」のアナロジー:短い・強い結合(強いバネ)は高振動数で振動する。だから三重結合 > 二重結合 > 単結合の順に高波数に吸収が現れます。
12.7 IR スペクトルの解釈
IR スペクトルの完全な解釈は困難ですが、官能基の特性吸収帯を覚えておくことで構造情報を効率よく得られます。
IR スペクトルの4つの領域
IR スペクトル(4000〜400 cm−1)は4つのゾーンに分けて考えると便利です。
| 領域(cm−1) | 対応する振動 | 代表的な官能基 |
|---|---|---|
| 4000〜2500 | X–H 単結合の伸縮 | O–H(3300〜3600)、N–H(3300〜3500)、C–H(~3000) |
| 2500〜2000 | 三重結合の伸縮 | C≡N(2210〜2260)、C≡C(2100〜2260) |
| 2000〜1500 | 二重結合の伸縮 | C=O(1670〜1780)、C=C(1640〜1680) |
| 1500〜400 | フィンガープリント領域 | C–C、C–O、C–N、C–X など多数 |
12.8 主要官能基の IR 吸収
一覧表:主要官能基の特性 IR 吸収帯
| 官能基 | 振動 | 吸収 (cm−1) | 強度・特徴 |
|---|---|---|---|
| アルカン | C–H 伸縮 | 2850〜2960 | 中 |
| アルケン | =C–H 伸縮 | 3020〜3100 | 中 |
| C=C 伸縮 | 1640〜1680 | 中 | |
| アルキン | ≡C–H 伸縮(末端) | 3300 | 強・シャープ |
| C≡C 伸縮 | 2100〜2260 | 中(末端で強、内部で弱) | |
| 芳香族 | C–H 伸縮 | 3030 | 弱 |
| 環の振動 | 1450〜1600 | 中 | |
| アルコール | O–H 伸縮 | 3400〜3650 | 強・幅広い(水素結合) |
| C–O 伸縮 | 1050〜1150 | 強 | |
| アミン | N–H 伸縮 | 3300〜3500 | 中・シャープ(O–H より細い) |
| アルデヒド | C=O 伸縮 | 1730(飽和)、1705(共役) | 強 |
| アルデヒド C–H 伸縮 | 2750 と 2850 | 弱・アルデヒドの特徴 | |
| ケトン | C=O 伸縮 | 1715(飽和・6員環) | 強 |
| エステル | C=O 伸縮 | 1735(飽和) | 強 |
| アミド | C=O 伸縮 | 1690 | 強 |
| カルボン酸 | C=O 伸縮 | 1710 | 強 |
| O–H 伸縮 | 2500〜3100 | 強・非常に幅広い | |
| ニトリル | C≡N 伸縮 | 2210〜2260 | 中 |
| ニトロ | N–O 伸縮 | 1540 | 強 |
カルボニル化合物のC=O伸縮位置の傾向
カルボニル基の C=O 伸縮位置は、電子的・立体的要因で系統的に変化します。
アルケン・アルキン・芳香族の面外変角振動による置換パターン判定
700〜1000 cm−1 の面外変角(out-of-plane bending)吸収から、アルケンや芳香環の置換パターンが推定できます。
| アルケン置換パターン | 面外変角(cm−1) |
|---|---|
| 一置換(RCH=CH2) | 910 および 990 |
| 1,1-二置換(R2C=CH2) | 890 |
| cis-1,2-二置換 | 690〜730 |
| trans-1,2-二置換 | 960〜980 |
| ベンゼン環置換パターン | 面外変角(cm−1) |
|---|---|
| 一置換 | 730〜770 および 690〜710 |
| オルト二置換 | 735〜770 |
| メタ二置換 | 690〜710 および 750〜810 |
| パラ二置換 | 790〜840 |
コラム:X線結晶解析(X-Ray Crystallography)
分光法で構造が決まらないとき、最後の切り札となるのがX線結晶解析です。
可視光の波長は数百 nm で、分子内の原子間距離(~0.1 nm)より桁違いに長いため、光学顕微鏡では分子を「見る」ことができません(回折限界)。しかし波長 0.1 nm 程度の X 線を使えば、原子の散乱パターンから三次元構造を決定できます。
手順:①結晶化(最難関の工程)→ ②X 線回折計でデータ収集 → ③回折パターンから電子密度マップを計算 → ④構造決定。
現在、約 145,000 件の生体分子三次元構造がタンパク質データバンク(PDB)(Rutgers 大学運営)に登録されており、誰でも閲覧できます。
まとめ:MS と IR による構造決定の役割分担
次章へのつながり
第13章では核磁気共鳴分光法(NMR)を学びます。1H NMR は有機化学者が最も頻繁に使うスペクトル技術であり、炭素骨格と水素の環境を直接読み取ることができます。MS と IR で官能基の候補を絞り込んだあと、NMR で最終的な構造決定を行うという流れが現代有機化学の標準です。
