有機化学における「結合論」は、分子の形や反応性を電子の振る舞いとして説明するための基盤です。
結合がどのように生じ、なぜ特定の結合は回転できず、どのように反応点が生まれるのかといった問いは、すべて結合論の枠組みで一貫して説明できます。
本記事では、原子価結合法(Valence Bond, VB)と分子軌道法(Molecular Orbital, MO)を、有機化学で実用的に使える水準に整理します。
量子化学の厳密性に踏み込み過ぎず、機構理解に直結する要点に焦点を当てます。

結合を「軌道の重なり」として捉える

化学結合は、原子軌道が空間的に重なり合うことで生じます。
電子は軌道という確率分布に従って存在しており、二つの原子が近づいたとき、同位相で重なった領域が増えるほどエネルギーは低下し、結合が安定化します。
逆に、逆位相の重なりはエネルギーを上昇させ、反結合性の性質を与えます。
この「位相と重なり」という観点は、後述するσ結合とπ結合の区別、さらに反応時の電子移動の向きの理解にそのまま接続します。

原子価結合法(VB理論):局在結合としての理解

VB理論は、結合を「二つの原子軌道が局所的に重なってできた共有結合」として扱います。
有機化学の多くの議論は、この枠組みで直感的に説明できます。
たとえば、炭素のsp、sp²、sp³混成は、結合の方向性と分子の幾何構造を簡潔に説明します。
結合の種類として重要なのは、原子間を正面衝突的に結ぶσ結合と、側方から重なって生じるπ結合です。

σ結合は結合軸の周りに円筒対称な電子密度をもち、原則として自由回転が可能です。
これに対して、π結合は二つのp軌道の側方重なりによって生じ、結合軸に対して上下に電子密度が分布します。
この構造のため、二重結合は回転するとπ重なりが崩れ、エネルギー的に不利になります。
したがって、二重結合は自由回転できず、E/Zといった立体異性が生じます。
これは結合論が立体化学に直接つながる典型例です。

分子軌道法(MO理論):非局在化としての理解

MO理論では、結合は個々の原子に局在したものではなく、分子全体に広がる分子軌道として表現されます。
二つの原子軌道が組み合わさると、エネルギーの低い結合性軌道と、高い反結合性軌道が生じます。
電子は低いエネルギーの軌道から占有されるため、結合性軌道に電子が多いほど結合は安定化します。

有機化学でMO理論が特に有効なのは、共役系や芳香族系における電子の非局在化を説明するときです。
π電子が分子全体に広がることで安定化が生じるという理解は、ベンゼンの芳香族性や共鳴安定化の本質を明快に説明します。
また、反応性の議論では、最高被占分子軌道(HOMO)と最低空分子軌道(LUMO)の相互作用という形で、求核剤・求電子剤の相性を定性的に予測できます。

VBとMOの使い分け:有機化学の実務に即して

有機化学の学習や機構解釈では、VB理論が骨格理解に適しています。
混成とσ/π結合の概念により、分子の形、結合の回転可否、立体制約を直観的に説明できるからです。
一方、電子の非局在化や反応の「軌道相互作用」を考える場面では、MO理論の視点が有効です。
両者は競合する理論ではなく、同一の量子力学的事実を異なる表現で捉えた補完的な枠組みであると理解すると、混乱が生じにくくなります。

結合論が反応機構に与える示唆

結合論の理解は、そのまま反応機構の読み書きに直結します。
孤立電子対やπ電子は、HOMOとして電子供与に関与しやすく、電子不足な原子中心やπ*軌道はLUMOとして電子受容に関与しやすいと考えると、矢印の出発点と到着点を体系的に判断できます。
さらに、σ結合とπ結合の性質の違いを踏まえると、付加反応がπ結合に起こりやすい理由、置換反応で結合が切れる位置の妥当性などが、単なる暗記ではなく構造的必然として理解できるようになります。

学習上の注意点

結合論は抽象的な概念を含むため、図や模式図を用いて空間的イメージを繰り返し確認することが重要です。
特に、p軌道の位相、σ/π結合の違い、π結合が回転を妨げる理由については、視覚的理解が定着を助けます。
理論の細部に深入りし過ぎず、有機化学の現象説明にどのように結びつくかを常に意識すると、学習効率が高まります。

練習問題

問題1|σ結合とπ結合の構造的な違いを、回転の可否と関連づけて説明してください。

解答:
σ結合は結合軸の正面衝突による重なりで円筒対称な電子密度をもち、回転しても重なりが保たれるため自由回転が可能である。これに対して、π結合は側方重なりで生じ、回転すると重なりが崩れて不安定になるため、二重結合は自由回転できない。

問題2|VB理論とMO理論の役割の違いを、有機化学の具体例とともに述べてください。

解答:
VB理論は混成やσ/π結合を用いて分子の形や立体制約を直感的に説明するのに適している。一方、MO理論は共役系や芳香族性における電子の非局在化、HOMO/LUMO相互作用による反応性の説明に有効である。

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