アルケン付加反応の立体化学:アキラル基質とキラル基質
アルケンの付加反応を学ぶとき、多くの人はまず「何が付加するか」や「どちらの炭素に入るか」に注目します。
しかし、有機化学ではそれだけでは不十分です。
実際には、どちらの面から付加が起こるのか、生成物がどのような立体配置をもつのかまで考える必要があります。
特に、出発物質がアキラルかキラルかによって、生成物の立体化学の見え方は大きく変わります。
アキラルなアルケンへの付加では、しばしばエナンチオマーの関係が現れます。
一方、すでにキラルなアルケンへの付加では、ジアステレオマーの関係として表れることがあります。
ここでは、アルケン付加反応の立体化学を整理し、アキラル基質とキラル基質で何が違うのかを確認します。
付加反応で立体化学が問題になる理由
アルケンの二重結合は平面構造をとります。
そのため、理論上は二重結合の上側からも下側からも試薬が近づくことができます。
このとき、反応が一方の面から起こるか、反対側の面から起こるかによって、生成物の立体配置が変わることがあります。
さらに、二つの原子や原子団が同じ側から付加するのか、反対側から付加するのかによっても生成物は異なります。
つまり、アルケン付加反応では
「どの位置に付加するか」
だけでなく、
「どの面から、どの向きで付加するか」
も重要なのです。
syn付加とanti付加
付加反応の立体化学を考えるうえで基本になるのが、syn 付加と anti 付加です。
syn 付加では、二つの原子や原子団が二重結合の同じ面から付加します。
その結果、生成物ではそれらが同じ側に導入された関係になります。
anti 付加では、二つの原子や原子団が二重結合の反対側から付加します。
その結果、生成物では互いに反対側の関係になります。
たとえば、水素化やヒドロホウ素化は典型的な syn 付加です。
一方、ハロゲン化やハロヒドリン生成では、ハロニウムイオン中間体を経由するため anti 付加になります。
このように、どの反応が syn で、どの反応が anti かを整理することは、生成物の立体を予測するための出発点になります。
アキラルなアルケンへの付加
出発物質のアルケンがアキラルである場合、二重結合の上側と下側は、しばしば等価な面として扱われます。
このようなアルケンに対して試薬が付加すると、上側から反応した場合と下側から反応した場合で、鏡像関係にある生成物が得られることがあります。
もし反応系そのものがアキラルであれば、二つの面は区別されません。
そのため、上側からの反応と下側からの反応は同じ確率で起こり、結果としてエナンチオマーが等量ずつ生じることになります。
このような場合、生成物はラセミ混合物になります。
したがって、アキラルな基質に対してキラル生成物ができる反応では、特別な不斉源がない限り、通常はエナンチオマーの混合物になると考えます。
アキラル基質における付加の例
たとえば、アキラルなアルケンに対して syn 付加が起こる場合、上側からの syn 付加と下側からの syn 付加は鏡像関係の生成物を与えます。
どちらも反応条件の上では等価なので、結果として一対のエナンチオマーが等量で生じることになります。
anti 付加でも同様に、上側と下側の区別がないアキラル基質では、鏡像関係の生成物が等量で生じる可能性があります。
このように、アキラル基質では「どちらの面から反応するか」が、そのままエナンチオマー生成の問題につながります。
キラルなアルケンへの付加
一方、出発物質がすでにキラルである場合には状況が変わります。
キラル分子では、二重結合の二つの面はもはや等価ではありません。
そのため、上側からの付加と下側からの付加は、エネルギー的にも立体的にも異なる経路になることがあります。
結果として、生成物は鏡像関係ではなく、ジアステレオマーの関係として現れることがあります。
ジアステレオマーはエナンチオマーとは異なり、エネルギーも物理的性質も異なるため、通常は同じ割合では生成しません。
つまり、キラル基質に対する付加反応では、一方の面からの付加が他方より有利になり、立体選択性が現れる可能性があります。
面選択性とジアステレオ選択性
キラルなアルケンへの付加では、試薬がどちらの面から近づくかが重要な問題になります。
このような「どちらの面がより反応しやすいか」という違いを、面選択性として捉えることができます。
その結果として、一方のジアステレオマーが他方より多く生じる場合があります。
これがジアステレオ選択性です。
この現象は、反応中心の近くにすでに存在する不斉中心が、新たにできる立体中心の配置に影響を与えるために起こります。
したがって、キラル基質では「新しくできる立体中心」だけでなく、「もともとあった立体中心」との関係を考える必要があります。
立体特異性と立体選択性
アルケン付加反応では、立体特異性と立体選択性を区別して考えることも重要です。
立体特異的反応とは、出発物質の立体配置が変わると、それに対応して生成物の立体配置も決まって変わる反応です。
たとえば、ある反応が必ず syn 付加で進むなら、cis-アルケンと trans-アルケンでは異なる立体生成物が得られます。
このような反応は立体特異的と呼ばれます。
一方、立体選択的反応とは、複数の立体異性体が生成可能であっても、そのうちの一つが優先的に生成する反応です。
キラル基質に対する付加で、一方の面からの反応が有利になる場合などは、立体選択的な反応として理解できます。
この二つは似ていますが、意味は異なります。
立体特異性は「機構によって立体が一意に決まること」、立体選択性は「複数可能な中で一方が優先すること」と整理すると分かりやすくなります。
アルケン付加反応を立体で見る意義
アルケン付加反応を立体化学の観点から見ると、単なる官能基変換だった反応が、より立体的な現象として理解できるようになります。
同じ試薬を使っても、基質がアキラルかキラルかによって、生成物の意味は大きく変わります。
また、生成物を予測するときにも、
「Markovnikov か anti-Markovnikov か」
だけではなく、
「syn か anti か」
「エナンチオマーが生じるのか、ジアステレオマーが生じるのか」
を考えることで、より正確な理解ができます。
この視点は、アルケンの反応だけでなく、その後に学ぶカルボニル化合物や不斉合成の理解にもつながります。
そのため、アルケン付加反応の立体化学は、立体有機化学の基礎として非常に重要です。
練習問題
解答:syn 付加では二つの原子や原子団が二重結合の同じ面から付加し、anti 付加では反対側から付加します。
解答:通常は、一対のエナンチオマーが等量ずつ生じたラセミ混合物が得られます。
解答:一般には等価ではありません。
解答:立体特異的反応は出発物質の立体配置に応じて生成物の立体配置が機構的に一意に決まる反応であり、立体選択的反応は複数の立体異性体が可能な中で一方が優先的に生成する反応です。
次に読むべき記事
- エナンチオマーと光学活性:偏光を回転させる分子
- R/S配置の決め方:CIP順位則による立体配置
- アルケンのハロゲン化:X₂付加とハロヒドリン生成
- アルケンの水和:オキシ水銀化とヒドロホウ素化
