はじめに:酢の酸味からビタミンCの合成まで——カルボン酸化学の世界へ
食酢の主成分である酢酸(CH3CO2H)は世界で年間約2000万トンが生産され、バター臭の正体であるブタン酸、ヤギ臭の源であるヘキサン酸(ラテン語 caper=「ヤギ」が名前の由来)、そしてヒトの胆汁の主成分コール酸——カルボン酸は自然界に満ちあふれた官能基です。前章のアルデヒド・ケトンに続き、第20章ではカルボン酸(RCO2H)とニトリル(RC≡N)を扱います。
カルボン酸はカルボニル化合物の中で中心的な存在です。それ自体が重要なのはもちろん、次章で扱う酸塩化物・エステル・アミド・チオエステルといった「カルボン酸誘導体」の出発物質でもあります。またほぼすべての生体代謝経路にカルボン酸が登場します。ニトリルは官能基としては少数派ですが、カルボン酸と同じ3本の結合を電気陰性原子に向けた構造ゆえに類似した化学を示し、合成的に非常に有用です。
20.1 カルボン酸とニトリルの命名
カルボン酸の命名
開鎖のカルボン酸は、対応するアルカン名の語尾 -e を-oic acidに置き換えて命名します。–CO2H炭素がC1になります。
CH3CH2CO2H プロパン酸(プロパノイック酸) (CH3)2CHCH2CH2CO2H 4-メチルペンタン酸 HO2CCH2CO2H マロン酸(プロパンジオイック酸)
–CO2H基が環に直接結合した化合物は-carboxylic acid接尾辞を用い、CO2H炭素はC1に結合したものとして番号に含まれません。置換基として表す場合はcarboxyl基と呼びます。
| 構造式 | 慣用名 | アシル基名 |
|---|---|---|
| HCHO2H | ギ酸(Formic acid) | ホルミル基 |
| CH3CO2H | 酢酸(Acetic acid) | アセチル基 |
| CH3CH2CO2H | プロピオン酸(Propionic acid) | プロピオニル基 |
| CH3(CH2)2CO2H | 酪酸(Butyric acid) | ブチリル基 |
| HO2CCO2H | シュウ酸(Oxalic acid) | オキサリル基 |
| C6H5CO2H | 安息香酸(Benzoic acid) | ベンゾイル基 |
ニトリルの命名
開鎖ニトリルは対応するアルカン名に-nitrileを付けて命名し、ニトリル炭素をC1とします。別の方法として、対応するカルボン酸の -ic acid または -oic acid を-onitrileに置き換えることもできます(例:アセトニトリル、ベンゾニトリル)。環に–C≡N基が結合した場合は-carbonitrileを使います。他のカルボン酸誘導体が同じ分子中にあって優先される場合はシアノ-接頭辞を用います。
CH3CN エタンニトリル(アセトニトリル) C6H5CN ベンゾニトリル (CH3)2C(CN) 2,2-ジメチルシクロヘキサンカルボニトリル
20.2 カルボン酸の構造と性質
構造:sp²混成カルボニル炭素
カルボン酸のカルボキシル炭素はケトンやアルデヒドと同様にsp²混成しており、C–C=O、O=C–OHの結合角はいずれも約120°です。2本の炭素–酸素結合は等価ではなく、C=O結合(125 pm)はC–OH結合(131 pm)より短く、二重結合性が高くなっています(単純な–OH結合は134 pm程度)。
水素結合と沸点
カルボン酸は強い水素結合のため、環状二量体を形成しやすいです。この強い分子間相互作用により沸点が非常に高くなります——酢酸の沸点は117.9°C、同じ炭素数のエタノールの78.3°Cを大きく上回ります。
酸性度とpKa
カルボン酸の最大の特徴は酸性です。NaOHやNaHCO3と反応してカルボン酸塩(RCO2− M+)を生じます。6炭素以上のカルボン酸は水への溶解度が低いですが、アルカリ金属塩は水溶性が高いため、塩基抽出→酸性化による精製が可能です。
RCO2H + NaOH → RCO2⁻ Na⁺ + H2O
(水不溶) (水溶性)
RCO2H ⇌ RCO2⁻ + H3O⁺ Ka = [RCO2⁻][H3O⁺] / [RCO2H]
ほとんどのカルボン酸のKaは約10−4〜10−5です。酢酸のKa = 1.75 × 10−5(pKa = 4.76)は0.1 M溶液中での解離率がわずか0.1%程度であることを意味し、塩酸のような強酸(100%解離)とは大きく異なります。それでもエタノール(pKa ≈ 16)と比べると1011倍も強い酸です。
なぜカルボン酸はアルコールより酸性が強いのか?
アルコールが解離するとアルコキシドイオン(RO−)が生成し、負電荷は1個の酸素原子に局在します。一方、カルボン酸が解離するとカルボキシラートイオン(RCO2−)が生成し、負電荷が2つの酸素原子に非局在化します(共鳴安定化)。
O⁻ O
‖ ‖
R—C ←→ R—C ←→ 等価な2つの共鳴構造
O O⁻
X線結晶構造解析によって、ギ酸ナトリウム中の2つのC–O結合は共にちょうど127 pm(C=O: 120 pm と C–OH: 134 pm の中間値)であり、2つの酸素が等価であることが確認されています。
20.3 生体内の酸とHenderson-Hasselbalch方程式
Henderson-Hasselbalch方程式の導出
酸解離定数Kaの定義式から出発すると:
pKa = pH − log([A⁻] / [HA]) よって: log([A⁻] / [HA]) = pH − pKa Henderson-Hasselbalch方程式
この式から:
- pH = pKa のとき [A−] = [HA](解離型と非解離型が等量)
- pH > pKa のとき解離型 [A−] が優勢
- pH < pKa のとき非解離型 [HA] が優勢
生理的pH(7.3)での挙動
例として酢酸(pKa = 4.76)が生理的pH 7.3の0.0010 M溶液に存在する場合:
log([A⁻] / [HA]) = 7.3 − 4.76 = 2.54 [A⁻] / [HA] = antilog(2.54) ≈ 3.5 × 10² [A⁻] + [HA] = 0.0010 M より → [A⁻] ≈ 0.0010 M, [HA] ≈ 3×10⁻⁶ M
つまり生理的pHでは酢酸のほぼ100%が解離(アセタートイオン)として存在します。これはすべての一般的なカルボン酸(pKa ≈ 5)に当てはまります。だから生化学では「乳酸」ではなく「乳酸イオン(ラクタート)」、「クエン酸」ではなく「クエン酸イオン(シトラート)」と呼ぶのです。
20.4 酸性度に対する置換基効果
電子求引基は酸性を増大させる
カルボキシラートアニオンを安定化する置換基は解離平衡を生成物側に傾け、酸性を高め(pKaを下げ)ます。電子求引性のハロゲン原子はカルボキシラートの負電荷を分散させて安定化するため、酸性度を増大させます。
| 化合物 | Ka | pKa | 備考 |
|---|---|---|---|
| CF3CO2H(トリフルオロ酢酸) | 0.59 | 0.23 | 最強(F×3の誘起効果) |
| HCO2H(ギ酸) | 1.77 × 10−4 | 3.75 | R=H(電子供与なし) |
| HOCH2CO2H(グリコール酸) | 1.5 × 10−4 | 3.84 | OHの誘起効果 |
| C6H5CO2H(安息香酸) | 6.46 × 10−5 | 4.19 | ベンゼン環(基準) |
| CH3CO2H(酢酸) | 1.75 × 10−5 | 4.76 | 代表的カルボン酸 |
| CH3CH2OH(エタノール) | 約10−16 | 約16 | アルコール(比較) |
誘起効果は距離に依存する
置換基の酸性度への影響は距離に従って減少します。例えば塩素置換ブタン酸:
pKa = 2.86
(Clがカルボキシル基に最近接)
pKa = 4.05
(Clが1炭素遠い)
pKa = 4.52
(Clがさらに遠い。ブタン酸4.82に近い)
置換安息香酸の置換基効果
芳香環上の置換基効果は安息香酸の酸性度にもはっきり現れます。電子求引性の置換基(–NO2、–CN、–Cl)はカルボキシラートを安定化して酸性を高め、電子供与性の置換基(–CH3、–OCH3、–OH)はカルボキシラートを不安定化して酸性を低下させます。
20.5 カルボン酸の合成
既習の方法の整理
Dess-Martinペルヨージナンまたは塩基性KMnO4で酸化(17.7節・19.3節)
例: 4-メチル-1-ペンタノール → 4-メチルペンタン酸
水酸・酸で加水分解(後述20.7節)。C–X + CN− → RC≡N → RCO2H で炭素を1個増やせる
Grignard試薬のカルボキシル化
Grignard試薬をドライアイス(CO2)と反応させると金属カルボキシラートが生成し、酸性化でカルボン酸が得られます。
C6H5MgBr + CO2(ドライアイス) → C6H5CO2⁻ MgBr⁺ →(HCl/H2O)→ C6H5CO2H (フェニルマグネシウムブロミド) (安息香酸)
この反応はGrignard試薬のカルボニル基への求核付加と全く同じ機構です(CO2の場合はC=O結合が求電子中心)。生体内ではGrignard試薬のような有機金属種は存在しませんが、アセチルCoAからのカルバニオン生成・カルボキシル化(マロニルCoAの生成)が脂肪酸生合成の重要ステップとして対応しています。
20.6 カルボン酸の反応:概観
カルボン酸はアルコールとケトンの両方に似た性質を持ちます。
| 反応カテゴリ | 概要 | 詳細章 |
|---|---|---|
| 脱プロトン(酸性) | 塩基によるカルボキシラートイオンの生成。SN2反応の求核剤としても機能 | 20.2節(本章) |
| 求核アシル置換 | カルボニル基への求核攻撃で酸塩化物・エステル・アミドを生成 | 第21章 |
| α置換 | α炭素の水素のエノール化・ハロゲン化など | 第22章 |
| 還元 | LiAlH4でカルボン酸 → 1°アルコール(NaBH4では不可) | 17.4節(既習) |
20.7 ニトリルの化学
カルボン酸との類似性
ニトリル(R–C≡N)とカルボン酸はどちらも、炭素原子が電気陰性原子(N または O×2)に3本の結合を向けており、π結合を持ちます。このため類似した化学を示し、両方とも求電子性炭素を持ちます。
ニトリルの合成法
主な方法は2つです:
アミドの脱水機構:SOCl2がアミド酸素を求核攻撃 → 脱プロトン → E2様の脱離でニトリル生成。
ニトリルの主要反応
ニトリルのC≡N三重結合は強く分極しており、求核剤がイミンアニオン(sp²混成)を生成する付加反応を起こします。これはカルボニル化合物への求核付加と類似の機構です。
| 反応 | 試薬・条件 | 生成物 | 機構の要点 |
|---|---|---|---|
| 加水分解 | H2O、HO−またはH3O+加熱 | カルボン酸(アミドを経由) | OH−がC≡Nに求核付加 → イミンアニオン → 互変異性 → アミド → カルボキシラート |
| LiAlH4還元 | ①LiAlH4/エーテル ②H2O | 1°アミン(RNH2) | H−が2回付加してジアニオン中間体 → 水でプロトン化 |
| Grignard反応 | ①R’MgX/エーテル ②H3O+ | ケトン(RCOR’) | カルバニオンが1回のみ付加 → イミンアニオン → 加水分解でケトン |
加水分解の機構(塩基触媒)
Step 1: HO⁻ + R-C≡N → R-C(=NH)-O⁻ (イミンアニオン) Step 2: H2O でプロトン化 → R-C(OH)=NH (ヒドロキシイミン) Step 3: 互変異性化(エノール→ケト型に対応)→ R-CO-NH2 (アミド) Step 4: アミドのさらなる加水分解(21.7節で詳述)→ RCO2⁻ + NH3
Grignard反応によるケトン合成の例
C6H5-C≡N + CH3CH2MgBr →(エーテル中)→ C6H5CO-CH2CH3
ベンゾニトリル エチルMg プロピオフェノン (89%)
①試薬添加
②H3O⁺加水分解
20.8 カルボン酸とニトリルのスペクトル解析
赤外(IR)スペクトル
カルボン酸は2つの特徴的なIR吸収を持ち、容易に同定できます:
NMRスペクトル
| 官能基 | 13C NMR(δ) | 1H NMR(δ) |
|---|---|---|
| カルボン酸 C=O | 165〜185(飽和は180付近、共役系は165付近) | CO2H: 約12 δ(幅広シングレット、D2O添加で消失) |
| ニトリル C≡N | 115〜130 | (C≡N自体にHなし) |
カルボン酸の–CO2H プロトンは濃度・溶媒依存性が高く、時に消失したように見えることもあります。D2O添加で重水素交換(アルコールと同様)が起こり吸収が消えるため、その確認に使えます。
まとめ:第20章の概念整理
第21章への橋渡し
カルボン酸は酸塩化物・エステル・アミド・チオエステルを生み出す「母体」です。第21章ではこれらのカルボン酸誘導体の相互変換(求核アシル置換反応)を学びます。第20章で学んだ「カルボキシル炭素が求電子的」という概念がそのまま基盤になります。
発展:生体内のカルボン酸化学
体内ではカルボン酸はほぼ常にカルボキシラートイオン(陰イオン)として存在します(生理的pH 7.3 ≫ pKa ≈ 5)。このため酵素反応における「カルボン酸の活性化」には、まず酸を高エネルギーなチオエステル(アシルCoA)に変換する手順が必要です。脂肪酸の活性化(脂肪酸 + CoASH + ATP → アシルCoA)がその典型例で、ATPのエネルギーを使って初めてカルボン酸が反応性を得ます。第21章の生体内求核アシル置換の文脈でさらに詳しく学びます。
