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ボンビコール合成に学ぶWittig反応の選択性【東大院試2025】

1959年、ドイツの生化学者 Adolf Butenandt のグループは、50万匹のメスのカイコガから抽出を重ね、わずか12 mg ほどの純品を取り出すことに成功しました。これが世界で初めて構造決定された昆虫の性フェロモン「ボンビコール(bombykol)」です。オスのカイコガはこの分子をほんの数分子検出するだけで、数百メートル先のメスを見つけ出すといわれています。

2025年度の東京大学大学院工学系研究科の入試「化学」第3問では、このボンビコールをWittig 反応2回 + 還元1回というシンプルな3段階で合成する設問が出題されました。1問だけを見ると小さな構造式の穴埋めに見えますが、実際には「どの官能基が反応するか」「どちらのアルケン異性体ができるか」という Wittig 反応の核心が2回連続で問われる、たいへん良くできた良問です。この記事では、この1問を出発点から最終生成物まで丁寧に追いかけます。

この記事で学ぶこと
・ボンビコール合成問題の全体像と出題のねらい
・Wittig反応がアルデヒドとは反応してもエステルとは反応しない理由(官能基選択性)
・安定化イリド → E選択的、非安定化イリド → Z選択的という使い分けの実例
・2回のWittig反応で16炭素のジエン骨格を組み立てる発想
・LiAlH4によるエステル→第一級アルコールの還元(最終段階)
・「構造式を描け」と言われたときに整理すべき思考の順序

問題を確認する

出題された反応経路は次のとおりです。出発物質は片側がアルデヒド、もう片側がメチルエステルという、2種類のカルボニル基を持つ10炭素の化合物(メチル 10-オキソデカン酸エステル)です。

【出題された合成経路(要約)】

  OHC—(CH₂)₈—COOCH₃
  (出発物質:メチル 10-オキソデカン酸エステル)

        ↓  Ph₃P⁺—CH₂—CHO (イリド①)
           ──────────────────→   化合物 C

  化合物 C
        ↓  Ph₃P⁺—CH₂CH₂CH₂CH₃ (イリド②)
           ──────────────────→   化合物 D

  化合物 D
        ↓  LiAlH₄
           ──────────────────→   bombykol(ボンビコール)

【問題】
主生成物 C および D の構造式を、立体化学的配置を明示して描け。

この経路を眺めただけでは「Wittig 反応を2回やるだけ」に見えますが、実際に手を動かすと3つの判断ポイントに突き当たります。順番に解いていきましょう。

ボンビコールという分子

先に最終的なゴールを確認しておきます。ボンビコールは(10E,12Z)-ヘキサデカ-10,12-ジエン-1-オールという16炭素の不飽和アルコールです。1位に第一級アルコール、10–11位にEアルケン、12–13位にZアルケンを持ち、末端は直鎖のプロピル基で終わります。

なぜこの構造が特別なのか
共役したジエン部分が E(10,11位)と Z(12,13位)の組み合わせになっていることが、カイコガの受容体に正確にフィットするための鍵です。立体異性体(E,E体やZ,Z体など)を合成して活性を比べる実験も行われており、フェロモン活性は 10E,12Z の組み合わせでのみ強く現れることが知られています。つまりこの合成問題は「立体化学を一つも間違えずに作る」ことそのものが化学的に意味を持つ設問なのです。

合成の最終段階で COOCH3(エステル)が CH2OH(第一級アルコール)に変わることを踏まえると、出発物質のエステル側の炭素が将来の1位(C1)、アルデヒド側の炭素が将来の10位(C10)に対応するはずだと逆算できます。この「ゴールから逆算して炭素を数える」視点が、立体化学を取り違えないための一番の近道です。

出発物質を分析する:2つのカルボニル基の使い分け

出発物質 OHC—(CH2)8—COOCH3 には、反応性が大きく異なる2つのカルボニル基があります。

官能基 Wittig反応(イリド)との反応性 理由
アルデヒド(CHO) 反応する カルボニル炭素の求電子性が高く、イリドの求核攻撃を受けやすい
エステル(COOCH3 反応しない エステル酸素の非共有電子対がC==Oに共役して電子求引性を弱め、求電子性が大きく低下している

この官能基選択性(chemoselectivity)がこの問題全体の前提条件です。エステルのカルボニル炭素は、隣接する −OCH3 基の酸素から電子が押し込まれる共鳴のために求電子性が弱く、リンイリドのような穏やかな求核剤では反応が進みません。Wittig 反応の標準条件下では「イリドはアルデヒド・ケトンとしか反応せず、エステル・アミド・カルボン酸とは反応しない」というのが鉄則です。だからこそ、この出発物質は2回のWittig反応を経てもエステルだけは最後まで無傷のまま残ります。

見落としやすいポイント
「カルボニル基が2つあるから、どちらと反応するか毎回確認する」という意識がないと、エステルの炭素を誤ってアルケンに変換してしまうミスが起こります。院試の構造式問題では、まず出発物質の中の反応点を一つに絞り込む作業を最初に行うことが重要です。

Step 1:安定化イリドとの反応(生成物 C)

1段目で使われているイリドは Ph3P==CH—CHO(ホルミルメチレントリフェニルホスホラン)です。このイリドの α 炭素には CHO(アルデヒド基)という電子求引性基(EWG)が直接ついています。Wittig反応の基本記事で解説した分類に当てはめると、これは安定化イリドに該当します。

【Step 1:安定化イリドによるWittig反応】

  OHC—(CH₂)₈—COOCH₃  +  Ph₃P==CH—CHO
   出発物質(アルデヒド側で反応)   安定化イリド(α炭素にCHOが直結)

  → エステル側は反応しない(求電子性が低いため)
  → アルデヒド側だけがイリドと反応してオキサホスフェタンを経由
  → 安定化イリド ⇒ 熱力学支配 ⇒ E選択的

  生成物 C:
  OHC—CH==CH—(CH₂)₈—COOCH₃   (新しい二重結合は E)
   ↑新たな             ↑エステルは
   末端アルデヒド         無傷のまま残る

非安定化イリドでは速度論支配で Z 体が主生成物になりますが、安定化イリドではオキサホスフェタン形成が可逆になり、立体障害の小さい熱力学的に安定な中間体が優先して蓄積するため E 体が主生成物になります(このロジックの詳細はWittig反応の記事のZ/E選択性のセクションで詳しく解説しています)。

注目すべきは、このイリド自身が持っていた CHO 基がそのまま生成物 C に持ち越され、新しい末端アルデヒドとして残る点です。この新しいアルデヒドが、次のWittig反応の反応点になります。

Step 2:非安定化イリドとの反応(生成物 D)

2段目で使われるイリドは、n-ブチルトリフェニルホスホニウム塩(Ph3P+—CH2CH2CH2CH3)を塩基で脱プロトン化した Ph3P==CH—CH2CH2CH3 です。α 炭素についているのはプロピル基(アルキル基)だけで、EWG はありません。これは非安定化イリドです。

【Step 2:非安定化イリドによるWittig反応】

  OHC—CH==CH—(CH₂)₈—COOCH₃  +  Ph₃P==CH—CH₂CH₂CH₃
   生成物 C(新しい末端アルデヒドで反応)   非安定化イリド(α炭素はアルキル基のみ)

  → 既存のE二重結合・エステルはそのまま残る
  → 末端アルデヒドだけがイリドと反応
  → 非安定化イリド ⇒ 速度論支配 ⇒ Z選択的

  生成物 D:
  CH₃CH₂CH₂—CH==CH—CH==CH—(CH₂)₈—COOCH₃
              Z(新)      E(Step1由来)

ここでも官能基選択性が働いています。生成物 C にはアルデヒドとエステルの両方が存在しますが、エステルは Step 1 と同じ理由で反応せず、新しく生まれたアルデヒドだけが2回目のイリドと反応します。そして非安定化イリドなので、速度論的に有利な遷移状態(置換基どうしの立体反発が小さい配座)からオキサホスフェタンが生成し、Z 選択的にアルケンができます。

この結果、生成物 D は E アルケンと Z アルケンが共役した16炭素のジエンエステルになります。炭素を数えると、出発物質の10炭素+Step 1で加わった2炭素+Step 2で加わった4炭素(イリド炭素1個+プロピル基3個)=16炭素となり、ボンビコールの炭素骨格と一致します。

E/Z選択性の覚え方(おさらい)
安定化イリド → E、非安定化イリド → Z」。この問題では2種類のイリドを使い分けることで、共役ジエンの片方を E、もう片方を Z に作り分けています。1つの分子の中に異なる選択性のアルケンを2つ作る——これがこの設問の最大の見どころです。

最終段階:LiAlH4による還元

生成物 D に残っているのは、まだ手をつけていないメチルエステル(COOCH3)だけです。最後に LiAlH4(水素化アルミニウムリチウム)で還元すると、エステルは第一級アルコール(CH2OH)に変換され、メタノールが脱離します。

【最終段階:エステルの還元】

  CH₃CH₂CH₂—CH==CH—CH==CH—(CH₂)₈—COOCH₃
                                                    ↓ LiAlH₄
  CH₃CH₂CH₂—CH==CH—CH==CH—(CH₂)₈—CH₂OH
                                                  = bombykol

  ・LiAlH₄はエステルを還元できる強力な還元剤(イリドとは対照的)
  ・共役ジエン(C==C)は還元されず、立体化学(E, Z)も保持される

ここでも「カルボニル基の反応性の違い」というテーマが顔を出します。リンイリドはアルデヒドにしか反応できないほど穏やかな求核剤でしたが、LiAlH4 は逆にエステルも問題なく還元してしまう強力な求核的還元剤です。反応条件・試薬の強さに応じて、同じ分子の中でも「反応する部位」と「反応しない部位」が変わる——この合成全体を通して、それが繰り返し問われています。

解答:化合物 C・D の構造式

最終的な解答
化合物 C:(E)-OHC—CH==CH—(CH2)8—COOCH3
(新しいC==C二重結合がE、末端に新たなアルデヒド、エステルは無傷)

化合物 D:CH3CH2CH2—CH==CH—CH==CH—(CH2)8—COOCH3(10E,12Z体)
(プロピル基側に新たにZ選択的な二重結合が形成され、共役ジエンエステルが完成)

この D を LiAlH4 で還元すると、(10E,12Z)-ヘキサデカ-10,12-ジエン-1-オール=ボンビコールが得られます。

この問題が教えてくれる院試の解き方

1問の構造式問題から得られる教訓は、次の3点に整理できます。

【多段階合成問題を解く3ステップ】

① 反応点を1つに絞り込む
   複数のカルボニル基・官能基がある場合、その反応条件で
   「実際に反応するのはどれか」を最初に判断する
   (今回:イリドはアルデヒドにしか反応しない)

② 試薬の構造からE/Z(あるいは他の立体化学)を予測する
   イリドのα炭素の置換基がEWGかアルキル基かを見るだけで
   選択性が決まる(安定化→E、非安定化→Z)

③ ゴール(天然物の構造)から逆算して炭素を数える
   出発物質のどの炭素が最終生成物のどの位置になるかを
   先に把握しておくと、立体記号の付け間違いを防げる

この3ステップは Wittig 反応に限らず、Grignard 反応・アルドール反応・Diels–Alder 反応などを使った多段階合成問題にもそのまま当てはまります。「どの試薬がどの官能基を狙っているか」を常に意識する姿勢こそが、院試の有機化学で安定して得点する近道です。

関連記事

Wittig 反応そのものの機構・イリドの分類・E/Z選択性の理論的背景については、Wittig反応の機構とZ/E選択性【院試対策】で詳しく解説しています。この記事と合わせて読むことで、安定化・非安定化イリドの使い分けがより体系的に理解できます。

まとめ

ボンビコール合成問題 キーポイント
・出発物質はアルデヒドとエステルを両方持つ二官能性化合物
・Wittig反応のイリドはアルデヒドとしか反応せず、エステルは無傷のまま残る(官能基選択性)
・1回目:安定化イリド(α炭素にCHO)→ E選択的に新しい二重結合と新しいアルデヒドが生成
・2回目:非安定化イリド(α炭素はアルキル基)→ Z選択的に共役ジエンが完成
・最終段階:LiAlH4がエステルを還元してCH2OHに変換し、ボンビコール(10E,12Z-ヘキサデカジエン-1-オール)が完成
・合成全体を通して「どの試薬がどの官能基にしか反応しないか」という選択性の積み重ねが構造を決めている

よくある質問(FAQ)

Q. なぜWittig反応はエステルと反応しないのですか?

エステルのカルボニル炭素には、隣接する −OR 基の酸素から非共有電子対が C==O の π* 軌道に押し込まれる共鳴があり、これによってカルボニル炭素の正電荷(求電子性)が弱められています。リンイリドは求核性は十分にありますが、エステルのように求電子性が低いカルボニルに対しては付加が進まず、Wittig反応は事実上アルデヒド・ケトン専用の反応として機能します。アミド・カルボン酸も同様の理由で反応しません。

Q. なぜ1回目と2回目でイリドの種類を変える必要があったのですか?

ボンビコールの構造は、10–11位がE、12–13位がZという、2種類の立体化学を持つ共役ジエンです。1種類のイリドだけでは1種類の選択性しか得られないため、安定化イリド(E選択的)と非安定化イリド(Z選択的)を順番に使い分けることで、異なる立体化学を持つ2つの二重結合を別々に作り分けています。

Q. もし反応の順番を逆にしたらどうなりますか?

仮に非安定化イリド(プロピル側)を先に出発物質のアルデヒドに反応させると、その時点でエステル側はまだ反応していないため化合物自体は得られますが、続く安定化イリドとの反応で生成する末端アルデヒドの位置が変わり、最終的な二重結合の位置関係(10,12位という共役した位置にならない)がずれてしまいます。この問題では、どちらのイリドを先に使うかという順序自体も、目的の共役ジエンの位置を正しく作るための設計の一部になっています。

Q. LiAlH4は共役ジエンの二重結合も還元してしまいませんか?

LiAlH4は求核的な水素化物イオン(H)をカルボニル炭素に付加させて還元する試薬で、単純なアルケン(C==C)には反応しません。共役ジエンであっても、共役相手がカルボニル基(α,β-不飽和カルボニル)でない限り、LiAlH4はエステルのカルボニルだけを選択的に還元し、アルケンの位置・立体化学はそのまま保持されます。


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