複雑な分子を組み立てるとき、化学者は「どの炭素とどの炭素をつなぐか」を設計する。だが、狙った二つの炭素だけを、余計な反応を起こさずに結ぶのは容易ではない。とりわけ芳香環どうし、あるいは芳香環とアルキル鎖をつなぐ——この長年の難題に、有機亜鉛化合物という鍵を差し込んで扉を開けたのが、日本人化学者・根岸英一だ。

1977年、根岸は有機亜鉛化合物とハロゲン化アリールを、パラジウム触媒でつなぐ反応を報告した。今日根岸カップリング(Negishi coupling)と呼ばれるこの手法は、反応性と選択性のバランスに優れ、医薬品や天然物の全合成で幅広く使われている。根岸自身はこの反応を「カテドラル(大聖堂)を建てるための道具」と語り、生涯にわたって精緻な有機合成を追い求めた。

この記事では、院試でも問われる根岸カップリングの触媒サイクル(酸化的付加→トランスメタル化→還元的脱離)を軸に、なぜ亜鉛なのか、ヘック反応や鈴木・宮浦カップリングとどう違うのか、そして2010年にリチャード・ヘック・鈴木章とともにノーベル化学賞へ至った道のりを、根岸の生涯とともに解説する。日本の有機化学を世界に押し上げた一人の物語を追っていこう。

この記事で学ぶこと
・根岸カップリングとは何か(Pd触媒で有機亜鉛とハロゲン化アリールを結合する反応)
・触媒サイクル(酸化的付加・トランスメタル化・還元的脱離)
・なぜ「亜鉛」を選んだのか(反応性と官能基許容性のバランス)
・ヘック反応・鈴木–宮浦カップリングとの違い
・満州生まれから米国パデュー大学へ、2010年ノーベル化学賞までの歩み

生涯と略歴——満州からパデュー大学へ

根岸英一(Ei-ichi Negishi)は1935年7月14日、当時の満州国・新京(現在の中国・長春)に生まれた。少年期をソウルで過ごし、第二次世界大戦の終戦にともなって日本へ引き揚げた。東京大学工学部応用化学科を1958年に卒業し、帝人に入社。会社の派遣制度を利用してアメリカ・ペンシルベニア大学に留学し、1963年に博士号を取得した。

その後、根岸はヒドロホウ素化・ボラン化学で名高いハーバート・C・ブラウン(1979年ノーベル化学賞)のもとでポスドクとして研究する機会を得る。ブラウンの研究室で有機ホウ素・有機金属の化学を叩き込まれたことが、のちのクロスカップリング研究の土台になった。1972年にシラキュース大学の教員となり、有機金属を使った炭素–炭素結合形成の研究に本格的に取り組む。

1976〜77年、根岸はニッケルやパラジウムの触媒と有機アルミニウム・有機亜鉛を組み合わせたクロスカップリングを相次いで報告した。とくに有機亜鉛を使う手法が、反応性と扱いやすさのバランスに優れることを見いだす。1979年には師ブラウンの本拠地でもあるパデュー大学に移り、以後この地で研究を続けた。そして2010年、リチャード・ヘック・鈴木章とともに「有機合成におけるパラジウム触媒クロスカップリング」への貢献でノーベル化学賞を受賞。2021年6月6日、85歳で生涯を閉じた。

出来事
1935満州国・新京(現・長春)に生まれる
1958東京大学工学部応用化学科を卒業、帝人に入社
1963ペンシルベニア大学で博士号を取得
1966〜H・C・ブラウンのもとでポスドク(有機ホウ素・有機金属化学)
1972シラキュース大学の教員となる
1976〜77Ni/Pd触媒と有機アルミニウム・有機亜鉛によるクロスカップリングを報告
1979パデュー大学に移籍
1999パデュー大学ハーバート・C・ブラウン特別教授に
2010ヘック・鈴木章とノーベル化学賞を受賞
202185歳で死去
師はボラン化学の巨人・H・C・ブラウン
根岸が学んだハーバート・C・ブラウンは、ヒドロホウ素化の業績で1979年にノーベル化学賞を受けた有機ホウ素化学の大家。根岸はこの研究室で、有機金属を精密に扱う技術と発想を身につけた。ブラウンの本拠地パデュー大学で根岸自身もノーベル賞に至ったことを考えると、師から弟子へと受け継がれた有機金属化学の系譜が見えてくる。

根岸カップリングとは——有機亜鉛でつなぐ

根岸カップリングは、有機亜鉛化合物 R–ZnXハロゲン化アリール(またはビニル・アルキル)Ar–Xを、パラジウム(またはニッケル)触媒のもとで反応させ、新しい炭素–炭素結合を作るクロスカップリングである。二つの有機基を、狙った位置で選択的につなげられるのが最大の魅力だ。

【根岸カップリングの全体像】

  R–ZnX  +  Ar–X'   →   R–Ar  +  ZnXX'
 (有機亜鉛)   (ハロゲン化      (カップリング体)
              アリール)

   触媒:Pd(0)(例:Pd(PPh3)4)または Ni触媒
   R   :アリール・ビニル・アルキル・アルキニル など
   X'  :I > OTf > Br >> Cl(反応性の目安)

有機亜鉛化合物は、有機ハロゲン化物に亜鉛を作用させるか、有機リチウム・グリニャール試薬にハロゲン化亜鉛を加える(トランスメタル化)ことで調製される。グリニャール試薬や有機リチウムほど反応性が高すぎず、有機ホウ素ほど不活性でもない——この「ちょうどよい反応性」が、根岸が亜鉛に注目した核心だ。

覚え方:クロスカップリングは「金属で相手を区別する」
根岸=有機亜鉛(Zn)、鈴木=有機ホウ素(B)、右田・小杉・スティル=有機スズ(Sn)、熊田・玉尾=グリニャール(Mg)。いずれも「金属化した炭素求核剤」+「ハロゲン化物」をPdでつなぐ点は共通で、違いは求核剤側の金属の種類だけ。人名と金属をセットで覚えると、試験で混同しない。

触媒サイクル——3つのステップで理解する

根岸カップリングの機構は、パラジウムがPd(0)とPd(II)を行き来する触媒サイクルとして整理できる。鈴木・宮浦カップリングやスティルカップリングと同じ3ステップの骨格を持つので、まとめて押さえると効率的だ。

【根岸カップリングの触媒サイクル】

 (1) 酸化的付加
     Pd(0) + Ar–X'  →  Ar–Pd(II)–X'

 (2) トランスメタル化
     Ar–Pd–X' + R–ZnX
        →  Ar–Pd–R  +  ZnXX'
        (亜鉛からPdへ有機基Rが移る)

 (3) 還元的脱離
     Ar–Pd–R  →  R–Ar  +  Pd(0)
        (C–C結合が生成し Pd(0) 再生)

(1) 酸化的付加では、電子豊富なPd(0)がAr–X’結合に割り込み、Pd(II)へと酸化される。C–X’結合が切れやすいほど速いので、反応性はAr–I > Ar–OTf > Ar–Br >> Ar–Clの順になる。この段階はヘック・鈴木・スティルなど多くのクロスカップリングに共通する入口だ。

(2) トランスメタル化が根岸カップリングの心臓部。有機亜鉛の有機基Rが、亜鉛からパラジウムへと乗り移り、Ar–Pd–Rという「二つの炭素基を抱えたPd(II)」ができる。亜鉛は電気陰性度が適度で、この乗り移りが速やかに進む。鈴木カップリングではこの段階で塩基による活性化が必要になるのに対し、根岸では塩基なしでもトランスメタル化が進みやすいのが特徴だ。

(3) 還元的脱離では、Pd上の二つの有機基(ArとR)が結びついて新しいC–C結合ができ、同時にPd(0)が再生してサイクルが回り続ける。生成物がここで放出される点は、ヘック反応(β水素脱離で放出)との大きな違いである。

よくある誤解
根岸カップリングをヘック反応と同じ機構だと思い込まないこと。ヘックは相手が生のアルケンで、生成物はβ水素脱離で出る。一方、根岸は相手が金属化した有機亜鉛で、トランスメタル化を経て還元的脱離で生成物が出る。「根岸=トランスメタル化型」「ヘック=挿入–β水素脱離型」と対にして整理しよう。また、有機亜鉛は空気・水に敏感なので、実際の操作では乾燥・不活性ガス下で扱う点も要注意。

なぜ「亜鉛」なのか——反応性のちょうどよさ

クロスカップリングの求核剤には、マグネシウム(グリニャール)、リチウム、ホウ素、スズ、亜鉛など多くの金属が使える。その中で根岸が亜鉛に注目したのは、反応性と官能基許容性のバランスが絶妙だったからだ。

反応が速い

有機亜鉛はトランスメタル化が速く、塩基なしでも進みやすい。反応性が高すぎるグリニャールや有機リチウムに比べ、副反応を抑えつつ効率よくつながる。

官能基に優しい

グリニャールほど攻撃的でないため、エステルやニトリルなど反応しやすい官能基を分子内に残したままカップリングできる。複雑な分子の合成に向く。

毒性が低い

スティルカップリングで使う有機スズは毒性が問題になるが、亜鉛は比較的低毒性で扱いやすい。実用性の面でも優れている。

とくにsp3炭素(アルキル基)を含むカップリングで有機亜鉛は威力を発揮する。アルキル基どうしをつなぐのは一般に難しいが、有機亜鉛を使う根岸型は、この難題に対して有力な選択肢を与えてきた。

官能基許容性が全合成を変えた
天然物や医薬品の全合成では、分子の中に反応しやすい官能基がいくつも共存している。攻撃的な試薬を使うと、狙った場所以外まで壊してしまう。有機亜鉛の「穏やかさ」は、こうした込み入った分子の終盤で炭素骨格をつなぐのに理想的で、根岸カップリングが複雑天然物合成の定番手法になった大きな理由である。

クロスカップリングの中の根岸——2010年ノーベル賞

2010年のノーベル化学賞は、「有機合成におけるパラジウム触媒クロスカップリング」に対して、ヘック・根岸英一・鈴木章の3人に贈られた。3つの反応は求核剤の性質が異なり、並べて理解すると全体像がつかめる。

ヘック反応

Ar–X+アルケン。相手を金属化せずアルケンを直接つなぐ。挿入とβ水素脱離で置換アルケンを与える。桂皮酸誘導体やスチレン骨格の構築に強い。

根岸カップリング

Ar–X+有機亜鉛(R–ZnX)。トランスメタル化を経て還元的脱離。反応性が高く官能基にも優しいため、多様な炭素同士を汎用的につなげる。

鈴木・宮浦カップリング

Ar–X+有機ホウ素(R–B(OH)2)。ホウ素が低毒性で扱いやすく、医薬・材料の工業生産で最も広く使われる。塩基による活性化が必要。

根岸カップリングは、この3つの中でも反応性の高さと汎用性で知られる。とくに研究室スケールの精密合成では、難しい炭素同士を確実につなぐ切り札としてしばしば選ばれる。工業生産では扱いやすさから鈴木カップリングが主流だが、「つなげるかどうか」が問題になる難しい基質では根岸型が力を発揮する場面が多い。

日本人3人が関わったクロスカップリング
2010年のノーベル賞は根岸英一・鈴木章の日本人2人が受賞したが、クロスカップリング全体を見ると溝呂木勉(溝呂木・ヘック反応)熊田誠・玉尾皓平(熊田・玉尾カップリング)右田俊彦(スティルカップリングの先駆)など、日本人化学者の貢献が随所にある。クロスカップリングは日本の有機化学が世界をリードした分野だと言ってよい。

現代への影響

根岸が磨き上げた「有機亜鉛でつなぐ」という手法は、有機合成の設計に確かな選択肢を加えた。その影響は、合成・材料・教育の3方向に広がっている。

医薬・全合成

官能基許容性の高さから、複雑な天然物や医薬品の全合成で炭素骨格をつなぐ定番手法に。込み入った分子の終盤でも安全に使える。

材料・機能性分子

π共役骨格を精密につなぐ手段として、有機ELや共役ポリマー、色素など機能性材料の合成に活用される。パラジウム触媒化学の一翼を担う。

教育・院試

酸化的付加・トランスメタル化・還元的脱離という触媒サイクル、有機亜鉛を選ぶ理由、他のクロスカップリングとの比較は、有機金属分野の頻出テーマとして出題される。

まとめ

この記事のポイント
・根岸英一(1935–2021)はPd触媒で有機亜鉛とハロゲン化アリールをつなぐ根岸カップリングを確立し、2010年にヘック・鈴木章とノーベル化学賞を受賞した日本の化学者
・触媒サイクルは(1)酸化的付加 → (2)トランスメタル化 → (3)還元的脱離の3段階で、生成物は還元的脱離で放出される
・求核剤に有機亜鉛(R–ZnX)を使うことで、反応性・官能基許容性・低毒性のバランスに優れる
・トランスメタル化型である点が、挿入–β水素脱離型のヘック反応との大きな違い。塩基を要する鈴木–宮浦カップリングとも対比できる
・満州生まれ、H・C・ブラウンに師事、パデュー大学で結実——日本の有機化学を世界に押し上げた一人

根岸のカップリングは、同じ2010年に受賞したリチャード・ヘックのアルケン直接アリール化鈴木章のホウ素カップリングと並び、パラジウム触媒クロスカップリングという一大分野を形づくった。師であるH・C・ブラウンのボラン化学で培った有機金属の技術が、有機亜鉛という鍵へと結晶した——それが根岸英一の名が刻まれた場所である。反応そのものの機構や条件は反応機構記事でさらに詳しく扱う予定だ。