リチャード・シュロック完全解説|Mo触媒とシュロックカルベンの化学者
「金属=炭素二重結合(金属カルベン)」がメタセシスの活性種だ——ショーバンがそう見抜いても、その活性種をフラスコに取り出して構造を確かめた人がいなければ、機構はいつまでも仮説のままだった。1970年代、安定な金属カルベンなど存在しないと多くの化学者が考えていた。
その常識を最初に破ったのがリチャード・シュロックである。彼はデュポン社の研究室で、タンタルの単離可能なアルキリデン錯体を偶然のように、しかし理詰めで捕まえた。やがてこの発見はモリブデン(Mo)・タングステン(W)を中心金属とする高活性メタセシス触媒「シュロック触媒」へと結実する。
この記事では、院試でも頻出のシュロックカルベン(求核的カルベン)とフィッシャーカルベン(求電子的カルベン)の違いを軸に、なぜシュロック触媒はグラブス触媒より高活性なのに空気や水に弱いのか、そして不斉メタセシスや窒素固定への展開までを、シュロックの生涯とともに解説する。機構を作ったショーバン、頑丈なRu触媒のグラブスとあわせて、「メタセシス3人衆」の残る1人を理解していこう。
生涯と略歴——インディアナの少年から有機金属化学の巨人へ
リチャード・ロイス・シュロック(Richard Royce Schrock)は1945年1月4日、アメリカ・インディアナ州バーンに生まれた。8歳のとき兄から化学実験セットを譲り受けたことが化学との出会いだったと語られる。カリフォルニア大学リバーサイド校で学士を得たのち、ハーバード大学に進み、ジョン・オズボーンのもとで1971年に博士号を取得した。イギリス・ケンブリッジ大学でジャック・ルイスに師事したポスドク期間を経て、有機金属化学を主戦場に定めていく。
1972年、シュロックはデュポン社の中央研究所に入り、ここで生涯の転機となる発見をする。1974年、彼はタンタル(Ta)の単離可能なアルキリデン錯体——ネオペンチリデン錯体を報告した。これは「取り出せる金属カルベン」の先駆けであり、後のメタセシス触媒設計の出発点となった。1975年にマサチューセッツ工科大学(MIT)へ移り、以後半世紀近くをここで過ごし、フレデリック・G・キーズ化学教授を務めた。
1980〜90年代、シュロックの研究室はモリブデン・タングステンの高酸化数イミドアルキリデン錯体を系統的に設計し、成分のはっきりした(well-defined)高活性メタセシス触媒を確立する。2005年、シュロックはイヴ・ショーバン・ロバート・グラブスとともに、「有機合成におけるメタセシス法の開発」に対してノーベル化学賞を受賞した。機構を解明したショーバン、高活性なMo触媒を作ったシュロック、頑丈で使いやすいRu触媒を作ったグラブス——3者の役割がそろって、メタセシスは世界中の実験室の標準ツールになった。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1945 | アメリカ・インディアナ州バーンに生まれる |
| 1967 | カリフォルニア大学リバーサイド校で学士 |
| 1971 | ハーバード大学でオズボーンのもと博士号を取得 |
| 1972 | デュポン中央研究所に入所 |
| 1974 | 単離可能なタンタル=アルキリデン錯体(ネオペンチリデン)を報告 |
| 1975 | マサチューセッツ工科大学(MIT)へ移籍 |
| 1980年代 | Mo・W系の高酸化数アルキリデン触媒を系統的に開発 |
| 1990年頃 | well-defined な Mo イミドアルキリデン触媒を確立 |
| 2003 | Mo錯体による窒素(N2)の触媒的アンモニア化を報告 |
| 2005 | ショーバン・グラブスとノーベル化学賞を受賞 |
シュロックカルベンとフィッシャーカルベン——2種類の金属カルベン
金属カルベン(金属=炭素二重結合、M=CR2)には、性格の異なる2つのタイプがある。この区別は有機金属化学・院試で最頻出のテーマだ。片方がフィッシャーカルベン、もう片方がシュロックカルベン(シュロックアルキリデン)である。
フィッシャーカルベンは、低酸化数の後周期金属(Cr・Mo・W の0価など)に、OR や NR2 のようなπ供与性のヘテロ原子と CO のようなπ受容性配位子が付いたもの。カルベン炭素は電子不足で求電子的にふるまう。一方シュロックカルベンは、高酸化数の前周期金属(Ta・Mo・W の高酸化状態)に、アルキルやH などヘテロ原子を持たない置換基が付いたもの。カルベン炭素は電子豊富で求核的にふるまう。メタセシスの活性種はこの求核的なシュロックカルベンである。
| 項目 | フィッシャーカルベン | シュロックカルベン(アルキリデン) |
|---|---|---|
| 金属の酸化数 | 低い(0価が典型) | 高い(高酸化状態) |
| 金属の位置 | 後周期(Cr・Mo・W など) | 前周期〜中周期(Ta・Mo・W など) |
| カルベン上の置換基 | OR・NR2 などπ供与基を持つ | アルキル・Hなどヘテロ原子を持たない |
| 補助配位子 | CO などπ受容性配位子 | アルコキシド・イミドなど |
| カルベン炭素の性格 | 求電子的(求核剤が攻撃) | 求核的(求電子剤が攻撃) |
| 代表的役割 | 求核付加・環化などの合成試薬 | メタセシスの活性種 |
シュロック触媒とは——モリブデンを選んだ理由
シュロックが確立した実用触媒は、モリブデン(Mo)またはタングステン(W)の高酸化数イミドアルキリデンビスアルコキシド錯体である。中心金属にイミド配位子(=NAr)とアルキリデン(=CHR)という2つの二重結合、そして2つのアルコキシド(OR)が付いた、4配位の擬四面体構造をとる。
【シュロック触媒(Mo系)の構造(模式)】
Ar
|
N
‖
RO —— Mo = CH–R' Ar = かさ高いアリール基
| R' = CMe2Ph(ネオフィリデン)など
OR OR = C(CH3)(CF3)2 のような
電子求引性アルコキシド
・中心金属:モリブデン(Mo、高酸化数 +6)
・多重結合:イミド(=NAr)+アルキリデン(=CHR')
・アニオン配位子:アルコキシド(OR)× 2
ここでアルコキシド(OR)の電子求引性が触媒活性を左右する。O に CF3 のような電子求引基を付けると Mo 中心の電子密度が下がり、アルケンとの[2+2]付加が進みやすくなって活性が跳ね上がる。配位子の電子的チューニングで活性を自在に変えられるのがシュロック触媒の設計思想である。
この錯体はショーバン機構に従い、アルキリデンとアルケンが[2+2]付加してメタラサイクロブタン(4員環)を作り、逆[2+2]で開いて二重結合を組み替える。Mo の高い酸化数と剥き出しのアルキリデンが、この[2+2]/逆[2+2]サイクルを高速で回す。
なぜMo触媒は高活性で、なぜ敏感なのか
シュロック触媒(Mo)とグラブス触媒(Ru)の性格の違いは、中心金属の位置と酸化数から理解できる。Mo は前周期寄りの高酸化数金属で、電子不足の傾向が強い。だからアルケンのπ結合を強く引き寄せて速く反応する——これが高活性の理由だ。しかし同じ電子不足ゆえに、水・アルコール・酸素といった硬い供与体とも容易に反応して分解してしまう。高活性と敏感さは、同じ「電子不足」というコインの裏表なのである。
一方グラブスのルテニウム(Ru)は後周期の柔らかい金属で、硬い官能基より軟らかいアルケンを好むため官能基・水・空気に強い。Mo=速いが繊細、Ru=頑丈だが穏やか——この対比が両触媒の使い分けの核心である。
高酸化数・電子不足の前周期金属。高活性で、混んだ基質や電子不足アルケンも扱えるが、空気・水・アルコールに弱く不活性雰囲気が必要。
後周期の柔らかい金属。活性はやや穏やかだが空気・水・官能基に強く、フラスコで気軽に使える実用触媒。
頑丈さ優先ならグラブス、活性や特殊な立体選択性が必要ならシュロック。目的に応じて選ぶのが現代の全合成。
メタセシス反応そのものの流れ([2+2]付加とメタラサイクロブタンを経る機構)は、オレフィンメタセシスの機構と種類の記事で図とともに解説している。あわせて読むと、シュロック触媒がどこで働くのかが立体的に見えてくる。
不斉メタセシスと窒素固定——シュロックの広がり
シュロック触媒の大きな強みは、配位子を精密に設計できることにある。Mo にキラルなジオラート配位子を組み込むと、不斉メタセシス(AROM・ARCM など)が可能になり、光学活性な環状化合物を作り分けられる。さらに近年は、二重結合の幾何(E/Z)を制御できる Z選択的メタセシス触媒も開発され、天然物合成で威力を発揮している。
現代への影響
シュロックは、「取り出せる金属カルベン」という概念そのものを化学に持ち込み、それを高活性な触媒へと磨き上げた。その影響は、合成・材料・教育の3方向に広がっている。
高活性・立体選択的なMo触媒が、混んだ基質の環構築や不斉・Z選択的メタセシスを可能にし、複雑な天然物・医薬品合成の選択肢を広げた。
配位子の電子・立体を精密にチューニングして活性を制御する「分子設計型触媒」の思想を確立。窒素固定など小分子活性化にも波及した。
シュロックカルベンとフィッシャーカルベンの違い、高酸化数アルキリデン、Mo/Ru触媒の対比は有機金属化学の頻出テーマとして出題される。
まとめ
シュロックの仕事は、機構を解明したイヴ・ショーバンの理論に「取り出せる高活性触媒」という実体を与えた。同じ2005年のノーベル賞を分け合ったロバート・グラブスのRu触媒とは、「高活性だが敏感なMo(シュロック)」対「頑丈で扱いやすいRu(グラブス)」という対比で覚えると理解が深まる。金属で炭素骨格を組むという20世紀後半の潮流は、鈴木・宮浦カップリングなどのクロスカップリングとも地続きだ。カルベンを「見えない仮説」から「設計できる分子」へと引きずり出した——その転換点に、シュロックの名は刻まれている。






