「NMR分光法による構造決定」完全解説|化学シフト・スピン-スピン分裂・13C NMR・DEPT法を徹底解説
- はじめに:有機化学者が最初に使うツール
- 13.1 核磁気共鳴分光法の原理
- 13.2 NMR 吸収の本質:シールディングと化学シフト
- 13.3 化学シフト(Chemical Shift)
- 13.4 ¹H NMR の化学シフト
- 13.5 積分(Integration):プロトン数の定量
- 13.6 スピン-スピン分裂(Spin-Spin Splitting)
- 13.7 ¹H NMR とプロトンの等価性
- 13.8 より複雑なスピン-スピン分裂パターン
- 13.9 ¹H NMR の応用:反応の確認
- 13.10 ¹³C NMR 分光法:信号平均と FT-NMR
- 13.11 ¹³C NMR の特徴と化学シフト
- 13.12 DEPT ¹³C NMR 分光法
- 13.13 ¹³C NMR の応用
- Chemistry Matters:磁気共鳴イメージング(MRI)
- まとめ:第13章のポイント
はじめに:有機化学者が最初に使うツール
新しい化合物を合成したとき、研究者はどうやってその構造を確かめるのでしょうか?「見えない分子」の骨格を読み解くための最強ツールが、核磁気共鳴(NMR)分光法です。
前章で学んだ質量分析(MS)は分子量と分子式を、赤外分光法(IR)は官能基を教えてくれます。NMR は炭素–水素骨格の地図を与えてくれる技術であり、有機化学者が構造決定で最初に頼るのが NMR です。
| スペクトル技術 | 得られる情報 |
|---|---|
| 質量分析(MS) | 分子の大きさと分子式 |
| 赤外分光法(IR) | 存在する官能基 |
| NMR 分光法 | 炭素–水素骨格の地図 |
13.1 核磁気共鳴分光法の原理
核スピンと磁場
地球が自転するように、多くの原子核は自らの軸の周りでスピンしています。正電荷をもつスピンする核は小さな磁石のように振る舞い、外部磁場 B0 と相互作用します。
有機化学者にとって重要なのは、¹H(プロトン)と ¹³C の両方がスピンをもつという事実です(一方、最も豊富な ¹²C はスピンをもちません)。
外部磁場がない状態では、核スピンはランダムな方向を向いています。しかし強力な磁石の中に試料を置くと、スピンは磁場に平行(低エネルギー)または反平行(高エネルギー)に整列します。
スピンフリップと共鳴
低エネルギーのスピン状態にある核に適切な周波数の電磁波(ラジオ波)を照射すると、エネルギーが吸収されてスピンが「フリップ」し、高エネルギー状態に移ります。このとき核は共鳴状態(resonance)にあるといいます——これが「核磁気共鳴」の名前の由来です。
NMR で観測できる核
NMR 現象を示すのは、陽子数が奇数、または中性子数が奇数の核です。
| 磁気的核(NMR 活性) | 非磁気的核(NMR 不活性) |
|---|---|
| ¹H、²H、¹⁴N、¹⁹F、³¹P、¹³C | ¹²C、¹⁶O、³²S |
13.2 NMR 吸収の本質:シールディングと化学シフト
電子によるシールディング
「すべての ¹H が同じ周波数で共鳴するなら、1本の線しか得られず役に立たない」——しかし実際にはそうなりません。分子内の各核は電子に囲まれており、外部磁場をかけると電子が局所的な反磁場を生じさせます。
B実効 = B印加 − B局所
この現象をシールディング(遮蔽)といいます。電子密度が高い核ほど強くシールドされ、共鳴に必要な外部磁場が大きくなります(高磁場側 = 上磁場側に吸収が出る)。
NMR スペクトルの表示
NMR スペクトルは横軸に磁場強度(または周波数)をとり、左が低磁場(downfield)・右が高磁場(upfield)です。各ピークは分子内の化学的に異なる核 1 種類に対応します。
例えばメチルアセテート(CH₃CO₂CH₃)の ¹H NMR では 2 本のピーク、¹³C NMR では 3 本のピークが観測されます。
13.3 化学シフト(Chemical Shift)
δ スケールと TMS 基準
NMR スペクトルの横軸はδ(デルタ)スケールで表示されます。基準物質はテトラメチルシラン(TMS; (CH₃)₄Si)で、δ = 0 と定義されています。TMS が基準として選ばれる理由は、有機化合物に通常見られる吸収より高磁場に単一ピークを示すからです。
δ = 観測された化学シフト(TMS からの Hz)/ 分光器の動作周波数(MHz)
この ppm(parts per million)単位を使う利点は、異なる磁場強度の装置でも δ 値が変わらないことです。200 MHz で δ 2.0 に吸収がある核は、500 MHz でも δ 2.0 に現れます。
13.4 ¹H NMR の化学シフト
プロトン環境と δ 値の関係
¹H の化学シフトは、そのプロトンの化学的環境によって大きく異なります。以下の表に主要な吸収範囲をまとめます。
| プロトンの種類 | 化学シフト(δ) | 特徴 |
|---|---|---|
| アルキル(1級 –CH₃) | 0.7–1.3 | 最も高磁場 |
| アルキル(2級 –CH₂–) | 1.2–1.6 | |
| アリル位 | 1.6–2.2 | C=C 隣接 |
| メチルケトン –COCH₃ | 2.0–2.4 | C=O 隣接 |
| 芳香族メチル Ar–CH₃ | 2.4–2.7 | |
| アルキニル ≡C–H | 2.5–3.0 | |
| アルキルハライド –CH–X | 2.5–4.0 | ハロゲン脱シールド |
| アルコール・エーテル –CH–O | 3.3–4.5 | 酸素脱シールド |
| ビニル系 C=C–H | 4.5–6.5 | sp² 炭素上 |
| 芳香族 Ar–H | 6.5–8.0 | 環電流効果 |
| アルデヒド –CHO | 9.7–10.0 | 最も低磁場 |
| カルボン酸 –CO₂H | 11.0–12.0 | 強い脱シールド |
化学シフト予測の例
メチル 2,2-ジメチルプロパノエート((CH₃)₃CCO₂CH₃)の ¹H NMR を予測してみましょう。
酸素に結合した炭素上のプロトン
→ δ 3.5〜4.0
|||
(CH₃)₃C– プロトン
典型的なアルカン様プロトン
→ δ 1.0 付近
13.5 積分(Integration):プロトン数の定量
¹H NMR スペクトルでは、各ピークの面積がそのプロトン数に比例します。この面積を電子的に計算することを積分(integration)といいます。
例えばメチル 2,2-ジメチルプロパノエートでは、δ 1.2 のピーク((CH₃)₃C–; 9H)と δ 3.7 のピーク(–OCH₃; 3H)の面積比は 3 : 1 となります。
現代の NMR 装置はデジタルで相対ピーク面積を表示しますが、従来の装置では「階段状の積分線」でピーク面積を視覚的に示していました。階段の高さの比が、各プロトン数の比に対応します。
13.6 スピン-スピン分裂(Spin-Spin Splitting)
NMR スペクトルの最も重要な特徴の一つがスピン-スピン分裂です。1 本のシグナルが複数のピーク(マルチプレット)に分かれる現象で、隣接するプロトンの核スピンの相互作用が原因です。
ブロモエタンの例
ブロモエタン(CH₃CH₂Br)の ¹H NMR では:
- –CH₂Br プロトン:δ 3.42 に四重線(quartet)
- –CH₃ プロトン:δ 1.68 に三重線(triplet)
なぜこうなるのでしょうか?–CH₃ プロトンの隣には –CH₂Br の 2 個のプロトンがあります。これら 2 個のスピンは(↑↑)・(↑↓)or(↓↑)・(↓↓)の 3 通りの組み合わせで整列でき、1 : 2 : 1 の比で局所磁場を変化させます。その結果 –CH₃ は1 : 2 : 1 の三重線として観測されます。
逆に –CH₂Br プロトンは隣の –CH₃ の 3 個のスピンによって(↑↑↑)・(2↑1↓×3)・(1↑2↓×3)・(↓↓↓)の 4 通りに分裂し、1 : 3 : 3 : 1 の四重線となります。
n + 1 則(the n + 1 rule)
| 隣接プロトン数 n | マルチプレット名 | 強度比 |
|---|---|---|
| 0 | 一重線(singlet, s) | 1 |
| 1 | 二重線(doublet, d) | 1 : 1 |
| 2 | 三重線(triplet, t) | 1 : 2 : 1 |
| 3 | 四重線(quartet, q) | 1 : 3 : 3 : 1 |
| 4 | 五重線(quintet) | 1 : 4 : 6 : 4 : 1 |
| 6 | 七重線(septet) | 1 : 6 : 15 : 20 : 15 : 6 : 1 |
カップリング定数 J
マルチプレット内のピーク間隔をカップリング定数 J(単位:Hz)といいます。J は通常 0〜18 Hz の範囲で、鎖状アルカンでは典型的に 6〜8 Hz です。
スピン-スピン分裂の 3 つのルール
化学的に等価なプロトン同士はスピン-スピン分裂を示さない
n 個の等価な隣接プロトンをもつプロトンは n+1 本のマルチプレットに分裂する(2 炭素以上離れたプロトンは通常カップリングしない)
相互にカップリングしている 2 組のプロトンは同じ J 値を共有する
13.7 ¹H NMR とプロトンの等価性
化学的等価プロトン
化学的に等価なプロトンは同じ化学環境をもち、同じ化学シフトで吸収します。これらの間にはスピン-スピン分裂は観測されません。
ホモトピック・エナンチオトピック・ジアステレオトピック
分子の対称性によってプロトンの等価性は 3 種類に分類されます。
| 種類 | 定義 | NMR での挙動 |
|---|---|---|
| ホモトピック(homotopic) | 一方を別の基で置換しても同一化合物が生じる | 常に等価(同一 δ) |
| エナンチオトピック(enantiotopic) | 一方を置換するとエナンチオマーが生じる | アキラル溶媒では等価 |
| ジアステレオトピック(diastereotopic) | 一方を置換するとジアステレオマーが生じる | 常に不等価(異なる δ) |
13.8 より複雑なスピン-スピン分裂パターン
n + 1 則は1 組の等価なプロトンとカップリングする場合に成り立ちます。複数の異なる組のプロトンと異なる J でカップリングする場合(非等価カップリング)には、より複雑なパターンが現れます。
例えば 2-ブロモプロペンなど、異なる J をもつ 2 組のプロトンとカップリングするビニルプロトンは、二重の二重線(doublet of doublets, dd)を示します。
13.9 ¹H NMR の応用:反応の確認
NMR は実験室で行うほぼすべての反応の生成物確認に使われます。
例:ヒドロホウ素化–酸化の位置選択性の証明
メチレンシクロヘキサンのヒドロホウ素化–酸化では、Markovnikov 則に反するシクロヘキシルメタノールが生成します。¹H NMR スペクトルで δ 3.40 に 2H の –CH₂OH シグナルが観測され、δ 1 付近に 4 級炭素の –CH₃ 大きなシングレットが見られないことから、1-メチルシクロヘキサノールではなくシクロヘキシルメタノールが生成物であることが確認できます。
13.10 ¹³C NMR 分光法:信号平均と FT-NMR
¹³C NMR が可能な理由
¹³C は天然存在比わずか1.1%しかありません。感度が極めて低く、単回のスペクトルでは電子ノイズに埋もれてしまいます。この問題を解決したのが信号平均(signal averaging)とフーリエ変換 NMR(FT-NMR)の組み合わせです。
数百〜数千回のスペクトルをコンピューターで積算・平均化。ランダムなノイズは増加が遅く、真のシグナルは積み上がる。
|||
FT-NMR
ラジオ波パルスで全周波数を一括照射。全シグナルを同時に収集してフーリエ変換で分離。従来の逐次掃引より劇的に高速。
現代の FT-NMR では、数時間で数千スペクトルを平均でき、0.1 mg 以下の試料でも ¹³C スペクトルが取得できます。
¹³C NMR でスピン-スピン分裂が見られない理由
¹³C スペクトルは通常ブロードバンドデカップリングで測定します。炭素の共鳴周波数に照射すると同時に、プロトンの全共鳴周波数もカバーする第 2 のラジオ波でプロトンスピンを急速にフリップさせます。これにより ¹H の局所磁場が平均的にゼロとなり、¹³C–¹H カップリングが消えます。その結果、各炭素は1 本の鋭いシングレットを示します。
13.11 ¹³C NMR の特徴と化学シフト
¹³C NMR の化学シフトは0〜220 δの範囲に分布し、¹H NMR(0〜10 δ)より広いため信号の重なりが少なく、分子内のすべての炭素を区別しやすいという利点があります。
| 炭素の種類 | 化学シフト範囲(δ) |
|---|---|
| アルキル炭素(sp³) | 0–50 |
| ハロゲン・窒素・酸素に結合した炭素 | 40–90 |
| アルキニル炭素(C≡C) | 65–90 |
| 芳香族・ビニル炭素(sp²) | 110–160 |
| カルボニル炭素(C=O) | 160–220 |
また ¹³C NMR スペクトルのピーク面積は各炭素数を直接反映しないため、¹H NMR のように積分することはできません(4 級炭素は他より小さいピークを示す傾向があります)。
13.12 DEPT ¹³C NMR 分光法
ブロードバンドデカップリング ¹³C NMR では炭素の数と化学シフトはわかりますが、各炭素に何個のプロトンが結合しているかはわかりません。これを解決するのがDEPT(Distortionless Enhancement by Polarization Transfer)法です。
DEPT の手順
DEPT 実験は通常 3 段階で行います。
| スペクトルの種類 | 観測されるシグナル |
|---|---|
| ブロードバンドデカップリング(通常 ¹³C) | すべての炭素(CH₃, CH₂, CH, 4 級 C) |
| DEPT-90 | CH 炭素のみ(正のシグナル) |
| DEPT-135 | CH₃・CH は正のシグナル、CH₂ は負のシグナル、4 級 C は消失 |
各炭素の判定方法
DEPT の活用例
C₄H₁₀O の構造決定:¹³C NMR で 3 本のシグナル(19.0, 31.7, 69.5 δ)があり、4 炭素に対してシグナルが 3 本 → 2 炭素が等価。DEPT-90 より δ 31.7 は CH。DEPT-135 より δ 19.0 は CH₃(正)、δ 69.5 は CH₂(負)。構造は 2-メチル-1-プロパノール((CH₃)₂CHCH₂OH)と決定できます。
13.13 ¹³C NMR の応用
¹³C NMR の強力さは、反応生成物の確認においても発揮されます。
例:E2 反応の位置選択性の確認
1-クロロ-1-メチルシクロヘキサンを強塩基で処理すると、Zaitsev 則に従って 1-メチルシクロヘキセンが主生成物となります。
- 1-メチルシクロヘキセン:sp³ 炭素に 5 本の共鳴(20〜50 δ)と sp² 炭素に 2 本の共鳴(100〜150 δ)
- メチレンシクロヘキサン:対称性のため sp³ 炭素は 3 本、sp² 炭素は 2 本
¹³C NMR スペクトルのピーク数を数えるだけで、どちらの生成物かを確認できます。
Chemistry Matters:磁気共鳴イメージング(MRI)
NMR 分光法は「小さな分子の NMR 管の中の試料」を見るためのものですが、同じ原理を大スケールに応用したものがMRI(磁気共鳴イメージング)です。
MRI では主に体内の水分・脂肪中の水素原子の信号を利用し、三次元的な位置情報として組み立てます。NMR 分光法と違い、MRI は核の化学的性質ではなく空間的な分布を画像化します。
まとめ:第13章のポイント
第12章・第13章のつながり
第 12 章の MS・IR と本章の NMR を組み合わせることで、複雑な有機分子の構造を完全決定できます。次の第 14 章では、いよいよカルボニル化合物の化学——アルデヒドとケトンの反応性——に入ります。NMR はその反応生成物の同定にも繰り返し登場します。
