有機化学では、化合物を「合成する」だけでなく、「その構造が正しいかを確認する」ことも極めて重要です。
この確認作業を担うのが、構造決定(Structure Determination)という分野です。
本章では、構造決定の三大手法とされる以下の分析法を取り上げます:
- NMR(核磁気共鳴分光法)
- IR(赤外分光法)
- MS(質量分析)
それぞれの測定原理、データの読み取り方、具体的な構造推定の流れを、初心者にもわかりやすく整理して解説していきます。
Contents
1. NMR(核磁気共鳴分光法)とは?
原理
NMR(Nuclear Magnetic Resonance)は、主に水素原子(¹H)や炭素原子(¹³C)の核スピンが外部磁場により共鳴する現象を利用した分析法です。
それぞれの水素の「化学的環境」がスペクトルとして現れるため、有機化合物の骨格が詳細に分かります。
主な情報
- 化学シフト(δ値): 水素の電子的環境
- 積分値: 各ピークが示す水素の数
- カップリング(分裂): 近接する水素との相互作用
例:エタノール(CH₃CH₂OH)の¹H NMRスペクトル
- δ ~1.2:CH₃(3H、三重線)
- δ ~3.6:CH₂(2H、四重線)
- δ ~5.0:OH(1H、広く単峰)
¹³C NMRでは、炭素ごとの化学シフトを確認できます(積分や分裂は基本的に観測されません)。
2. IR(赤外分光法)とは?
原理
IR(Infrared Spectroscopy)は、赤外線のエネルギーが分子の結合に吸収されて伸縮・曲げ運動を起こすことを利用した分析法です。
特に官能基の同定に優れています。
主な吸収帯(代表例)
波数(cm⁻¹) | 官能基 | 特徴 |
---|---|---|
~3400 | –OH(アルコール) | 広く丸いピーク |
~3300 | ≡C–H | シャープ |
~1700 | C=O(カルボニル) | 非常に強いピーク |
~1600 | C=C(芳香環) | 中程度のピーク |
~2900 | C–H(アルカン) | 複数の中~弱いピーク |
読み取り方
- まず3400、1700、1600 cm⁻¹付近をチェック(OH, C=O, 芳香環)
- シャープさや広がりで結合の種類を判別
- IRだけでは骨格構造は不明確 → 他の手法と併用
3. MS(質量分析法)とは?
原理
MS(Mass Spectrometry)は、分子をイオン化し、質量ごとに分離・検出する分析法です。
特に分子量の決定や構造断片の情報に優れています。
主な情報
- 分子イオンピーク(M⁺): 分子全体の質量
- ベースピーク: 最も強く検出されたフラグメント(通常は安定)
- フラグメントピーク: 構造の切断に対応
例:ブタノール(C₄H₁₀O)のMSスペクトル
- 分子量:74 → M⁺ピーク = 74
- ベースピーク:m/z = 31(–CH₂OHフラグメント)
注意点
- 官能基は特定しにくいが、分子式候補を絞れる
- 高分解能MSを使えば、精密質量から分子式を正確に決定可能
スペクトル解析の実践:3手法の統合
構造決定では、NMR・IR・MSを組み合わせて判断することが重要です。
実践ステップ(例:未知の液体)
- MSで分子量を特定: M⁺ピーク = 88 → C₄H₈O₂の可能性
- IRで官能基を確認: ~1700 cm⁻¹に強いピーク → C=Oあり
- NMRで構造を分析: ¹H NMRで3つのピーク(CH₃、CH₂、COOHの特徴)
以上から、この化合物は酢酸エチル(ethyl acetate)と推定される。
構造決定を学ぶ意義
- 合成の確認(目的化合物が得られたか)
- 不純物・副生成物の同定
- 天然物の構造解析(天然物化学)
- 創薬・機能性材料の開発に必須
構造決定は「現実に観測されたもの」から化学的推論を行う、有機化学の探偵的側面です。
まとめ:構造を“読む力”は化学者の基本スキル
- NMR:水素・炭素の電子環境を解析 → 骨格構造に強い
- IR:結合の種類(官能基)を判別 → 補助的に有用
- MS:分子量・フラグメント → 分子式と断片情報に強い
- 3手法の統合で、高精度の構造決定が可能になる
次章では、有機化学の最終段階として、これまで学んだ知識を統合した反応設計と戦略的合成の考え方に進んでいきます。