1950年代、石油化学のプラントでは奇妙な反応が観測されていた。2種類のアルケンを触媒に通すと、二重結合がまるでトランプを切り直すように組み替わり、別のアルケンが生まれてくる——。役に立つことは分かっていたが、「なぜそうなるのか」は10年以上も謎のままだった。
この謎に、フランス石油研究所(IFP)の一人の化学者が明快な答えを出した。イヴ・ショーバンである。彼は1971年、反応の主役が金属カルベン(金属=炭素二重結合)であり、そこにアルケンが[2+2]環化付加してメタラシクロブタン(四員環中間体)を作り、それが逆向きに開くことで二重結合が組み替わる、という機構を提唱した。実験結果を一つずつ説明しきるこの機構は、のちにショーバン機構と呼ばれ、メタセシス化学の土台になった。
この記事では、院試でも問われるオレフィンメタセシスの機構(ショーバン機構)を中心に、金属カルベンとメタラシクロブタンの役割、メタセシスの種類(CM・RCM・ROMP)までを、ショーバンの生涯とともにたどる。「なぜ二重結合が入れ替わるのか」を、原子の動きとして理解していこう。
生涯と略歴——石油研究所で機構の謎に挑んだ化学者
イヴ・ショーバン(Yves Chauvin)は1930年10月10日、ベルギーのメネン近郊に生まれ、フランスで育った。リヨンの高等化学学校(現CPE Lyon)を卒業したのち、1960年にフランス石油研究所(IFP, Institut Français du Pétrole)に入所。以後、大学教授の道ではなく産業研究の現場を拠点に、触媒化学の研究を続けた。
1971年、ショーバンは助手のジャン=ルイ・エリソン(Jean-Louis Hérisson)とともに、当時未解明だったオレフィンメタセシスの反応機構を提唱する。金属カルベンを活性種とし、アルケンとの[2+2]環化付加/逆[2+2]で二重結合が組み替わるというこの機構は、後年の実験によって次々に裏づけられていった。彼は生涯を通じて派手な自己主張を好まず、ノーベル賞受賞時にも「自分は道具(触媒)を作ったのは他の人だ」と語ったと伝えられる。
2005年、ショーバンはロバート・グラブス・リチャード・シュロックとともに、「有機合成におけるメタセシス法の開発」に対してノーベル化学賞を受賞した。機構を解明したショーバン、実用触媒を作り上げたグラブスとシュロックという三者の役割分担が、この受賞テーマを立体的にしている。ショーバンは2015年1月27日、フランス・トゥールで没した。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1930 | ベルギー・メネン近郊に生まれ、フランスで育つ |
| 1954 | リヨンの高等化学学校(現CPE Lyon)を卒業 |
| 1960 | フランス石油研究所(IFP)に入所、触媒化学の研究を始める |
| 1971 | エリソンとともにメタセシスの機構(金属カルベン機構)を提唱 |
| 1970年代 | 同機構が同位体標識実験などで支持され、広く受け入れられる |
| 1991–1995 | IFPで研究部門を率い、産業触媒の開発にも貢献 |
| 2005 | グラブス・シュロックとノーベル化学賞を受賞 |
| 2015 | フランス・トゥールにて死去(84歳) |
オレフィンメタセシスとは——二重結合を組み替える反応
メタセシス(metathesis)とは、ギリシャ語で「位置の交換」を意味する。オレフィンメタセシスは、その名のとおり2つのアルケンの間で、二重結合をはさんだ炭素(アルキリデン)部分を入れ替える反応である。模式的には次のように書ける。
【オレフィンメタセシスの正味の変化】
R1–CH=CH–R1 + R2–CH=CH–R2
|
| 金属カルベン触媒
↓
2 R1–CH=CH–R2
二重結合の「両端」が付け替えられる(切って・つなぎ直す)
二重結合そのものが切れて別の相手とつなぎ直される——これは有機化学の常識からするとかなり異様な反応だ。1950年代から石油化学で観測され、プロペンの不均化などに使われていたが、「どういう順番で結合が切れ、つながるのか」という機構は長らく謎だった。当初は2つのアルケンがそろって四員環(シクロブタン)を作る機構などが提案されたが、実験結果とうまく合わなかった。
ショーバン機構——金属カルベンとメタラシクロブタン
ショーバンが1971年に示した答えは明快だった。反応の主役は、アルケンではなく金属カルベン(金属=炭素二重結合、M=CR2)である。この金属カルベンにアルケンが近づき、[2+2]環化付加を起こしてメタラシクロブタン(金属を含む四員環)を形成する。四員環が逆向き(逆[2+2]、retro-[2+2])に開くと、もとと違う組み合わせで二重結合が切り出され、新しいアルケンと新しい金属カルベンが生じる。
【ショーバン機構(触媒サイクルの1コマ)】
M=CHR (金属カルベン:活性種)
+
CH2=CHR' (アルケンが接近)
|
| [2+2] 環化付加
↓
M –– CHR
| | (メタラシクロブタン:四員環中間体)
CH2– CHR'
|
| 逆[2+2](別の対角で開く)
↓
M=CH2 + RHC=CHR'
(新しいカルベン) (組み替わったアルケン)
ポイントは、四員環がどちらの対角で開くかで結果が決まることだ。入ってきたときと同じ向きに開けば元に戻るだけだが、反対の対角で開くと二重結合が組み替わる。こうして金属カルベンは、アルキリデン基(=CHR)を次々に別のアルケンへ受け渡していく。触媒は消費されず、サイクルを回り続ける。これが「二重結合が入れ替わって見える」正体である。
なぜ「金属カルベンが主役」と言えるのか
ショーバン機構が受け入れられた決め手は、同位体標識(重水素やアイソトープ)を使ったクロス実験だった。もしアルケン2分子がまとまって組み替わるなら、生成物中の標識の分布は「ペアで移る」パターンになるはずだ。ところが実際には1炭素単位(アルキリデン単位)でばらばらに組み替わる分布が観測された。これは「金属カルベンがアルキリデンを一つずつ受け渡す」というショーバン機構でしか説明できない。のちに単離可能な金属カルベン錯体がそのままメタセシス触媒として働くことも示され、機構は確立した。
メタセシスの種類——CM・RCM・ROMP
ショーバン機構という共通の土台の上で、メタセシスは基質のつなぎ方によっていくつかの型に分類される。院試でも用語として問われるので、代表的な3つを押さえておこう。
異なる2つのアルケンをつなぎ替えて、新しいアルケンを作る。分子間で二重結合を組み替える最も基本的な型。
1分子内の2つの末端アルケンをつなぎ、エチレンを放出して環を閉じる。中〜大員環の合成に絶大な威力を発揮する。
ノルボルネンなどのひずんだ環状アルケンを開環しながら重合させ、高分子を作る。環ひずみが駆動力になる。
とくにRCM(Ring-Closing Metathesis)は、天然物や医薬品の全合成で「大きな環をどう閉じるか」という難問を一気に解決し、有機合成のスタイルそのものを変えた。反応でエチレン(CH2=CH2)が抜けていくことが平衡を生成物側へ押し進める。これらの実用化を支えたのが、次に述べるグラブス触媒・シュロック触媒である。メタセシスの反応全体の詳しい流れは、オレフィンメタセシスの機構と種類の記事で図とともに解説している。
現代への影響
ショーバンが解き明かした機構は、それ自体が有機金属化学の教科書に載る古典になっただけでなく、「金属カルベンを設計すれば触媒を作れる」という指針をグラブス・シュロックに与えた。機構の理解が実用触媒を生み、それが合成・材料・産業を変えていった流れは、次の3つの観点で整理できる。
RCM・CMは全合成の標準ツールになり、従来は難しかった中〜大員環の構築を日常的な操作に変えた。
ROMPは高性能ポリマー(COC・ROMPプラスチック)の製造に使われ、医薬・農薬中間体の合成にもメタセシスが組み込まれている。
金属カルベン・メタラシクロブタン・[2+2]/逆[2+2]は有機金属・反応機構の頻出テーマとして出題される。
まとめ
ショーバンが照らした金属カルベン機構は、オレフィンメタセシス反応の実用化へと受け継がれる。実際に空気に強く扱いやすいルテニウム触媒を作り上げたのがロバート・グラブス、Mo・W系の高活性触媒を設計したのがリチャード・シュロックだ。人名反応と金属触媒のつながりという意味では、鈴木・宮浦カップリングを支えたクロスカップリングの化学とあわせて読むと、20世紀後半の「金属で炭素骨格を組む」潮流が見えてくる。有機金属反応の入り口として、金属=炭素結合を初めて体系化したという点で、ショーバンの仕事は今も生きている。
