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サミュエル・ダニシェフスキー完全解説|ジエンを設計し糖鎖とタンパク質まで作った化学者

有機化学の教科書で「ダニシェフスキー」という名前に出会う場所は、たいてい Diels–Alder 反応の章である。1-メトキシ-3-(トリメチルシリルオキシ)-1,3-ブタジエン——ひとつのジエンに、名前がそのまま付いている。だが、この化合物を「反応性の高い便利なジエン」としてだけ覚えるのは、あまりにもったいない。

ダニシェフスキー・ジエンの本質は、「ジエンは天然物から取ってくるものではなく、欲しい反応性に合わせて設計するものだ」という宣言にある。ジエンの両端に電子供与基を置き、フロンティア軌道のエネルギーと係数を意図的に歪め、そして生成物がそのまま次の官能基へ変換できるように仕組んでおく。1974年に彼が発表したこの分子は、Diels–Alder 反応を「炭素骨格を組む反応」から「酸素官能基付きの環を一気に組む反応」へと格上げした。

そしてサミュエル・J・ダニシェフスキーの仕事は、そこで止まらなかった。ジエンとアルデヒドの反応でピラノン環が作れるなら、糖はゼロから作れる。糖が作れるなら、細胞表面のがん抗原糖鎖も作れる。糖鎖が作れるなら、糖タンパク質そのものも作れる——この一直線の論理を、彼は40年かけて実行し、最終的にエリスロポエチン(EPO)という糖タンパク質を全合成してみせた。この記事では、一本のジエンから始まった連鎖を、有機化学の言葉で追いかける。

この記事で学ぶこと
ダニシェフスキー・ジエンの構造・作り方と、なぜ「電子豊富」が効くのかのFMO的な説明
・1位と3位の供与基が同じ末端の係数を大きくする——位置選択性が完全に揃う理由
・付加体が酸処理で 2,3-ジヒドロ-4H-ピラン-4-オンになるまでの脱TMS・β脱離の流れ
・「Diels–Alder」ではなく 「環化縮合(cyclocondensation)」と呼ばれた理由——協奏 vs. Mukaiyama型段階機構
・ジエンから糖をゼロから作る(de novo 糖合成)という発想
グリカール集合法:DMDO エポキシ化 → 1,2-アンヒドロ糖 → 立体特異的グリコシル化
・タキソール・エポチロンなど全合成の代表作と、その戦略の共通点
糖鎖がんワクチンEPO全合成——有機合成がタンパク質に到達した瞬間

生涯と略歴——ストークの弟子から「合成の巨人」へ

サミュエル・ジョセフ・ダニシェフスキーは1936年3月10日、ニュージャージー州ベイヨンに生まれた。1956年にイェシーバー大学を卒業し、ハーバード大学大学院へ進む。指導教員は Peter Yatesで、1962年に学位を取得した。この時期に彼はコロンビア大学のギルバート・ストークの研究室でNIHポスドクとしても過ごしている。エナミン化学と天然物全合成の名手ストークのもとで身につけた「反応を設計して骨格を組む」という姿勢は、後のダニシェフスキーの仕事のすべてに通底する。

1963年にピッツバーグ大学に着任。ここで University Professor まで昇り、1979年まで在籍した。ダニシェフスキー・ジエンの発表(1974年)はこのピッツバーグ時代の仕事である。1979年から1993年まではイェール大学で Sterling Professor を務め、1993年にコロンビア大学およびメモリアル・スローン・ケタリングがんセンター(MSKCC)へ移った。以後、大学の化学科とがん研究所の両方に籍を置き、「合成化学の成果をそのまま治療につなげる」体制で研究を続けている。

受賞歴は膨大だが、代表的なものは Ernest Guenther Award(1981)ウルフ賞化学部門(1995/96、恩師ギルバート・ストークと同時受賞)Tetrahedron Prize(1996)Arthur C. Cope Award(1998)Nichols Medal(1999)、そして2006年のベンジャミン・フランクリン・メダル(化学)全米科学アカデミー化学賞である。師弟でウルフ賞を分け合ったという事実そのものが、彼の学問的な出自を物語っている。

出来事
1936 3月10日、ニュージャージー州ベイヨンに生まれる
1956 イェシーバー大学卒業
1962 ハーバード大学で Ph.D.(Peter Yates 研究室)。前後してコロンビア大のギルバート・ストークのもとでポスドク
1963 ピッツバーグ大学に着任(–1979、University Professor)
1974 1-メトキシ-3-(トリメチルシリルオキシ)-1,3-ブタジエンを報告(=ダニシェフスキー・ジエン)
1979 イェール大学へ(–1993、Sterling Professor)
1980年代 ジエン+アルデヒドの環化縮合による de novo 糖合成を確立。ランタニド触媒・不斉化へ展開
1993 コロンビア大学+MSKCCへ。グリカール集合法による固相オリゴ糖合成を報告
1994–96 カリケアマイシン関連・タキソール(1996)・エポチロンA(1996)の全合成
1995/96 ウルフ賞化学部門(ギルバート・ストークと同時受賞)
1990年代後半– Globo-H など糖鎖がんワクチンの完全化学合成と臨床試験への展開
2006 ベンジャミン・フランクリン・メダル(化学)/全米科学アカデミー化学賞
2013 エリスロポエチン(EPO)の全化学合成Science 誌に報告(約10年がかりの計画)
師弟でウルフ賞
1995/96年のウルフ賞化学部門は、ギルバート・ストークとダニシェフスキーが同時受賞している。ポスドク時代の指導教員と弟子が同じ年に同じ賞を分け合うのは珍しい。ストークが得意としたのは「エナミンという求核種を設計して炭素骨格を組む」ことであり、ダニシェフスキーがやったのは「ジエンという求核種を設計して環を組む」ことだった。使う反応は違うが、発想はまっすぐつながっている。

ダニシェフスキー・ジエンとは何か

正式名称は (E)-1-メトキシ-3-(トリメチルシリルオキシ)-1,3-ブタジエン。C1 にメトキシ基、C3 にトリメチルシリルオキシ基(OTMS)を持つ、たった1つの置換パターンの1,3-ブタジエンである。

        OMe
         |
  C1 == C2 - C3 == C4
              |
            OTMS

  ダニシェフスキー・ジエン
  (E)-1-methoxy-3-(trimethylsilyloxy)-1,3-butadiene

作り方——ビニローグなエノールエーテルのシリル化

出発物質は trans-4-メトキシ-3-ブテン-2-オン(メトキシメチルビニルケトン)という安価なエノンである。これを塩基(Et3N)と TMSCl、触媒量の ZnCl2 で処理すると、ケトンの α 位が脱プロトン化されてシリルエノールエーテルになり、その結果として1,3-ジエンが現れる。

  MeO-CH=CH-CO-CH3
        |  TMSCl, Et3N, cat. ZnCl2
        ↓  (α位の脱プロトン化 → O-シリル化)
  MeO-CH=CH-C(OTMS)=CH2
        ダニシェフスキー・ジエン

ここで大事なのは、この分子が「エノールエーテル+シリルエノールエーテル」という2つの電子供与部位を1本の共役系に載せているという点である。どちらも酸素の非共有電子対を π 系へ流し込む基だから、ジエン全体が強く電子豊富になる。

なぜ反応が速いのか——FMOで理解する

通常の Diels–Alder 反応(順電子要請型)では、ジエンの HOMOジエノフィルの LUMO が相互作用する。反応速度はこの2つの軌道のエネルギー差が小さいほど速い

ジエンに電子供与基(OMe、OTMS)を付けると、供与基の非共有電子対が π 系と混ざり、ジエンの HOMO が上がる。HOMO が上がれば、ジエノフィルの LUMO との差 ΔE が縮まり、二次的な軌道相互作用が強くなって活性化エネルギーが下がる。ブタジエン単体では加熱と高圧が必要な反応が、ダニシェフスキー・ジエンなら穏和な条件で進むのはこのためである。詳しい軌道の話は反応機構まとめページの Diels–Alder の項も併せて確認してほしい。

ジエン 置換基 HOMO 典型的な条件・特徴
1,3-ブタジエン なし 基準 高温・高圧が必要。s-cis 配座の割合も低い
2-(トリメチルシリルオキシ)ブタジエン 3位 OTMS のみ やや高い 付加後に加水分解してシクロヘキサノンを与える
ダニシェフスキー・ジエン 1位 OMe + 3位 OTMS 高い アルデヒド・イミンとも反応。生成物は酸処理でエノンになる
Brassard ジエン 1,1-ジメトキシ+3-OTMS さらに高い エステル等価体を持ち込める。δ-ラクトン合成に有利
Rawal ジエン 1-アミノ+3-シリルオキシ 最も高い 窒素は酸素より強い供与体。低温・低触媒量でも反応が進む
「電子豊富にする」以外の設計思想も入っている
ダニシェフスキー・ジエンの偉いところは、速いだけではない。付加体に残る OMe と OTMS が、そのまま次の官能基変換のハンドルになるように配置されている点が本質である。OTMS は加水分解すればケトンに、OMe は β 脱離すれば二重結合になる。つまり「環を作ったあとで、酸を一滴入れるだけで α,β-不飽和ケトンが出てくる」という出口まで設計された試薬なのだ。試薬設計とは「反応性の設計」だけでなく「後始末の設計」でもある。

位置選択性——2つの供与基が同じ向きに効く

Diels–Alder の位置選択性は「オルト・パラ則」で覚えるのが定石だが、その正体はHOMO の軌道係数の大きい炭素LUMO の係数の大きい炭素が優先的に結合する、という単純な話である。

ダニシェフスキー・ジエンでは、この2つの効果が打ち消し合わずに同じ末端を強調するように配置されている。結果として、求電子性の高い炭素(アルデヒドのカルボニル炭素など)はほぼ完全に C4 側と結合する。位置異性体の混合物に悩まされないという実務上の利点は、教科書的な美しさ以上に大きい。

生成物——酸を入れるとジヒドロピラノンが出てくる

アルデヒドとの反応(ヘテロ Diels–Alder)を例に取る。ZnCl2 や BF3·OEt2、Eu(fod)3 などのルイス酸存在下で反応させると、まずシリルオキシ基とメトキシ基を持つジヒドロピランが生じる。ここに TFA(トリフルオロ酢酸)を作用させると、次の2つが連続して起こる。

  ダニシェフスキー・ジエン + R-CHO
        |  cat. ルイス酸(ZnCl2, Eu(fod)3 等)
        ↓
  [ 2-R-6-OMe-4-OTMS-ジヒドロピラン ]
        |  TFA(または HF, HCl)
        |  ① Si-O が切れて → エノール → ケトン
        |  ② β位の OMe が脱離(−MeOH)→ C=C 生成
        ↓
  2-R-2,3-ジヒドロ-4H-ピラン-4-オン
  (=環内エノンをもつピラノン)

この2,3-ジヒドロ-4H-ピラン-4-オンという骨格が決定的に重要である。環内に α,β-不飽和ケトン環内酸素を同時に持ち、しかも C2 に置換基 R が立体制御されて入っている——これはピラノース型の糖の骨格そのものだからだ。

よくある誤解:OTMS はただの保護基ではない
「OTMS=ヒドロキシ基の保護基」と丸暗記していると、ダニシェフスキー・ジエンの本質を見誤る。ここでの OTMS は保護している対象が存在しない。シリル基はケトンをエノール型に固定して、電子供与性の π 供与体に変えるために付いている。つまり官能基を隠すためではなく、反応性を作り出すために付いているシリル基である。同じ考え方は向山アルドール反応のシリルエノールエーテルにもそのまま当てはまる。

「Diels–Alder」ではなく「環化縮合」と呼ばれた理由

ダニシェフスキー自身は、この反応を “cyclocondensation(環化縮合)” と呼ぶことが多かった。単なる言い換えではなく、機構に対する誠実さの表れである。

ジエンとアルデヒドの反応には、少なくとも2つの経路がありうる。

経路 中身 起こりやすい条件
協奏的 [4+2] 2本の σ 結合が同時に(非同期でも)できる。cis 選択性・endo 選択性が保たれる 熱的条件、弱いルイス酸、ランタニド触媒
Mukaiyama 型 段階機構 シリルエノールエーテルが求核付加して開環アルドール中間体を作り、そのあと分子内で環化する 強いルイス酸(BF3、TiCl4)、極性溶媒

強いルイス酸を使うと、実際に環化していない開鎖アルドール生成物が単離されることがある。つまり同じ基質・同じ生成物でも、触媒を変えると通る道が変わるのだ。「環化縮合」という中立的な呼称は、この事実を隠さないための命名だった。向山アルドール反応の記事で扱うシリルエノールエーテルの求核性が、そのままここでの段階機構の駆動力になっている。

院試での狙われ方
「この反応は協奏的か段階的か、根拠とともに述べよ」という問いは頻出である。答えの筋道は①立体特異性が保たれているか(ジエノフィルの cis/trans 関係が生成物に残るか)②開鎖中間体が捕捉・単離できるか③溶媒極性を上げると加速するか(電荷分離した中間体を示唆)の3点。この3点セットは Diels–Alder に限らず、あらゆる「協奏 vs. 段階」問題に使える汎用フレームである。

不斉化——キラルなルイス酸との組み合わせ

ダニシェフスキーはこの環化縮合にキラルなランタニド触媒(Eu(hfc)3 など)を組み合わせ、光学活性なジヒドロピラノンを得る道を開いた。のちに Jacobsen の Cr(salen) 錯体、Keck や三上らの Ti–BINOL 系など、より高いエナンチオ選択性を与える触媒が続々と登場する。

ここで押さえておきたいのは、キラル触媒が制御しているのは新しく生まれる C2 の立体だけだという点である。しかしピラノン骨格ではその C2 が糖でいうアノマー位に相当する位置に近い炭素であり、以降の還元・エポキシ化・ジヒドロキシ化はすべてこの立体に従属して進む。最初の1つの立体中心が、残り全部を決める——立体化学の記述法についてはウラジミール・プレログとCIP則の記事も参照してほしい。

糖をゼロから作る——de novo 糖合成

「ジヒドロピラノンはピラノースの骨格である」という気づきは、ひとつの巨大な問いに変わる。天然の糖を出発物質にせず、単純なアルデヒドとジエンから、任意の糖を作れるのではないか?

従来の糖化学は、グルコースやマンノースといった天然の糖から出発して、保護基を付け替えながら目的の糖へ持っていく「キラルプール法」が主流だった。これは強力だが、自然界に十分な量が存在する糖しか出発点にできないという根本的な制約がある。希少糖や非天然の糖鎖類縁体を作ろうとすると、たちまち行き詰まる。

ダニシェフスキーの de novo 戦略は次のように進む。

  ① ジエン + RCHO ──[キラルルイス酸]──> 光学活性ジヒドロピラノン
                                            (C2 の立体が決まる)
  ② エノンの Luche 還元 or 1,2-還元       ──> アリルアルコール
  ③ 二重結合のエポキシ化 / ジヒドロキシ化 ──> C3, C4 の立体を導入
  ④ エポキシドの位置選択的開環            ──> ヒドロキシ基のパターンを確定
                                            ↓
                             任意の立体配置をもつ「糖」

ポイントは、②〜④の各段階が、直前に作った立体中心の面選択性に従うことである。エポキシ化剤は既存のヒドロキシ基や置換基の反対側から近づくため、最初に決めた C2 の立体がドミノ倒しのように残りの立体を決めていく。天然糖に頼らずに、L体の糖、アミノ糖、デオキシ糖、非天然の類縁体まで同じ論理で作れる——これが de novo 糖合成の破壊力だった。

なぜ「非天然の糖」が必要なのか
細胞表面の糖鎖は、免疫やがん転移を左右する情報分子である。しかし天然の糖鎖はしばしば体内の酵素にすぐ分解されるし、免疫応答が弱すぎてワクチンの抗原に向かないことも多い。分解されにくいように結合様式を変えたり、免疫を強く刺激するように構造を少しずらしたりするには、自然界に存在しない糖を作る力が要る。de novo 糖合成は、後年の糖鎖ワクチン研究の土台になった。

グリカール集合法——オリゴ糖を「組み立てる」

単糖が作れても、それをつなぐグリコシル化が難しければオリゴ糖には届かない。グリコシル化の難所は2つある。

  1. アノマー位の立体制御(α か β か)——オキソカルベニウム中間体は平面的で、両面から攻撃されうる
  2. 保護基の管理——糖には水酸基が多く、どれを反応させるかを毎回選び分けねばならない

ダニシェフスキーのグリカール集合法(glycal assembly)は、この2つを同時に解く。中心にあるのはグリカール(1,2位に二重結合を持つ環状エノールエーテル型の糖)である。

  グリカール(C1=C2 のエノールエーテル)
        |  DMDO(ジメチルジオキシラン)
        ↓  立体選択的エポキシ化(α 面から)
  1,2-アンヒドロ糖(=1,2-エポキシド)
        |  ZnCl2 等 + 受容体アルコール R-OH
        ↓  エポキシドの C1 での開環(→ 立体反転)
  β-グリコシド + C2 に遊離 OH
        |
        ↓  この OH を次のグリコシル化の受容体にできる
                    = 反復可能

この方法の3つの利点

第一に、立体が機構で決まる。 エポキシドの開環は SN2 的に進むので、C1 では立体反転が起こる。DMDO がグリカールの決まった面からエポキシ化する以上、生成するグリコシドの α/β はほぼ一義的に決まる。溶媒効果や隣接基関与の微妙なバランスに頼る他のグリコシル化法(Schmidt のトリクロロアセトイミダート法など)と比べて、予測しやすいのが大きい。

第二に、生成物がそのまま次の受容体になる。 開環でできた C2-OH は保護されていない。ここに次のグリコシル供与体を反応させればよいので、脱保護のステップを挟まずに鎖を伸ばせる

第三に、グリカールそのものが供与体にも受容体にもなる。 つまり同じ分子種を積み木のように扱える。1993年、ダニシェフスキーはこの性質を利用してオリゴ糖の固相合成を実現した。ポリマー担体に結合させたグリカールを、DMDO 処理とグリコシル化で伸長し、最後に切り出す——ペプチド固相合成(Merrifield 法)の糖鎖版である。

アミノ糖をどう作るか——スルホンアミドグリコシル化

生体内の糖鎖には N-アセチルグルコサミン(GlcNAc) のような2-アミノ糖が大量に含まれる。ダニシェフスキーはグリカールに対し、ヨードニウム試薬(I(coll)2ClO4)とスルホンアミド(PhSO2NH2を作用させる方法を開発した。

  グリカール
   |  I(coll)2ClO4 / PhSO2NH2
   ↓  ヨードニウムイオンが π 面に付加(三員環イオン)
   |  スルホンアミド窒素が anti 開環
   ↓
  trans-2-スルホンアミド-1-ヨード糖
   |  塩基
   ↓  分子内で N が C1 を攻撃 → アジリジン様中間体
  1,2-スルホンアミド型供与体
   |  受容体 R-OH
   ↓
  2-アミノ-β-グリコシド(GlcNAc 等価体)

ヨードニウムイオンによる anti 付加、そして隣接窒素による分子内置換——学部で習うハロニウムイオンの立体化学隣接基関与が、そのまま複雑糖鎖の合成戦略になっている。

DMDO の扱いには実務上の注意がある
ジメチルジオキシラン(DMDO)はアセトンと Oxone から調製し、通常はアセトン溶液(0.05–0.1 M 程度)として使う。濃縮すると危険で、保存性も低いため、その都度作って低温で使うのが原則。濃度は決して自明ではないので、実験では滴定(チオアニソール酸化など)で確認する。試験では「なぜ mCPBA ではなく DMDO を使うのか」が問われやすい——答えは副生物がアセトンだけで、酸性の m-クロロ安息香酸が出ないから。酸に弱いグリカールや生成した 1,2-アンヒドロ糖を壊さずに済む。

全合成の仕事——戦略に一貫性がある

ダニシェフスキー研究室が完成させた全合成は膨大だが、代表作を並べると彼の戦略の癖が見えてくる。

標的分子 年代 合成戦略の要点
タキソール(パクリタキセル) 1996 Wieland–Miescher ケトンから C 環を作り、分子内 Heck 反応で八員環(B環)を閉じる。二環を先に作って最後に橋を架ける収束的設計
エポチロン A / B 1996–97 B-アルキル鈴木–宮浦カップリングで鎖を連結し、分子内アルドール(マクロアルドール化)で大環状化。RCM を使った他グループとは別ルート
カリケアマイシン/ダイネマイシンA 1990年代 エンジイン骨格+特殊な糖鎖部分。糖化学の蓄積が直接効いた標的
ゲルセミン 1990年代 密集した四級炭素とかご型骨格。Diels–Alder による環構築が要
ミグラスタチン類縁体 2000年代 がん細胞の遊走を抑える天然物。類縁体のほうが天然物より活性が高いことを合成で示した好例
コルチスタチンA 2000年代後半 ステロイド様骨格+イソキノリン。血管新生阻害活性の構造活性相関を合成で解明

共通する哲学——「分子を作る」のではなく「問いに答える」

ダニシェフスキーの全合成には、しばしば「天然物そのものより、類縁体のほうが重要だ」という主張が伴う。ミグラスタチン類縁体はその典型で、天然物の大環状構造を単純化した合成類縁体が、天然物より2〜3桁強い細胞遊走阻害活性を示した。

全合成の目的は「自然を再現すること」ではなく「自然が用意しなかった分子を作って、なぜ効くのかを問うこと」である——この立場は、K・C・ニコラウやE・J・コーリーら同時代の合成化学者とも共有される、20世紀後半の全合成の到達点だった。

糖鎖がんワクチンとEPO全合成——有機合成が生体高分子へ届く

がん細胞の「糖の看板」を化学で作る

がん細胞の表面には、正常細胞とは異なる糖鎖抗原が現れる。Globo-H(乳がん・前立腺がん)、LewisyTnTFGM2 などがそれである。これらを人工的に作って免疫系に見せれば、がんを狙う抗体を作らせられるのではないか——これが糖鎖がんワクチンの発想だ。

問題は、これらの糖鎖が細胞から取ってこられるほどの量では存在しないことだった。ここで、グリカール集合法で鍛えた合成力が生きる。ダニシェフスキーは Globo-H 六糖などを完全化学合成し、担体タンパク質(KLH)に結合させ、アジュバント(QS-21)と組み合わせたワクチン候補として臨床試験へ送り込んだ。

さらに彼は、複数の抗原を1本のペプチド骨格に並べた単分子多価ワクチン(unimolecular multivalent vaccine)を設計する。5種類の糖鎖抗原を1分子に載せることで、がん細胞の多様性に一度に対応させようという設計思想である。

「均一(homogeneous)」であることの価値
細胞や酵母で作った糖タンパク質は、必ず糖鎖が不均一な混合物になる(グリコフォームの多様性)。生物学的には「どの糖鎖が効いているのか」がわからず、医薬品としてはロット間差の原因になる。化学合成の最大の価値は、ただ1種類の構造を狙って作れることにある。「化学は生物に負けている」と思われがちな分野で、化学だけが提供できるのが構造の均一性である。

エリスロポエチン(EPO)の全化学合成

2013年、ダニシェフスキーらは Science 誌にエリスロポエチンの全化学合成を報告した。約10年がかりの計画の完成である。EPO は赤血球の産生を制御する糖タンパク質で、166残基のポリペプチド+3か所の N-結合型糖鎖+1か所の O-結合型糖鎖という構造をもつ。

  ① 糖鎖部分       … 全合成で構築(シアル酸含有・高マンノース型)
  ② ペプチド断片   … 固相ペプチド合成(SPPS)
  ③ 糖鎖の導入     … Asn 側鎖へ立体特異的に結合(β-N-グリコシド)
  ④ 断片の連結     … ネイティブケミカルライゲーション(NCL)
                       + 金属フリーの脱チオール化
  ⑤ 折りたたみ     … ジスルフィド形成・フォールディング
                        ↓
   均一な糖鎖をもつ合成 EPO
   (マウスで Procrit(市販EPO製剤)並みの in vivo 活性)

ここで使われたネイティブケミカルライゲーション(NCL)は、C 末端チオエステルと N 末端システインの反応で天然のアミド結合を作る手法である。問題は、EPO の連結したい位置に都合よく Cys があるとは限らないこと。そこでCys の代わりに使えるチオール補助基を導入して連結し、後からラジカル的に脱硫して Ala などに戻すという戦略を取る。ダニシェフスキーらは金属を使わない脱チオール化を用い、糖鎖を壊さずにこれを達成した。

有機合成が「小さな分子を作る技術」から「生体高分子を任意の構造で作る技術」へ拡張された象徴的な仕事である。

現代への影響

試薬設計という発想

「反応性は基質任せ」ではなく試薬側を設計して支配する。Brassard・Rawal ジエンなどの後続はすべてこの延長線上にある

糖鎖科学の実用化

グリカール集合法と de novo 糖合成が、糖鎖ワクチン・糖鎖医薬の物質供給を可能にした

全合成の目的の更新

天然物の再現から類縁体による問いの解決へ。合成が創薬の仮説検証装置になった

大学の演習問題に出てくる「ダニシェフスキー・ジエン+アルデヒド → ジヒドロピラノン」という1行の変換の背後には、試薬を設計する思想 → 糖を作る技術 → 糖鎖抗原の供給 → 糖タンパク質の全合成という40年分の連鎖がある。同時代の合成化学者の仕事とあわせて見たい人は有機化学者列伝まとめページを、反応そのものを深掘りしたい人はオットー・ディールスクルト・アルダーの記事を参照してほしい。

院試・学部試験で問われるポイント

問われ方 答えの骨格
なぜこのジエンは反応性が高いか 2つの酸素供与基が π 系に電子を流し、HOMO が上がる。ジエノフィル LUMO との ΔE が縮まり活性化エネルギーが下がる(順電子要請型)
位置選択性を説明せよ 1位と3位の供与基が同じ末端(C4)の HOMO 係数を大きくするため、オルト・パラ配向が競合せず一義的に決まる
酸処理後の生成物を書け 脱シリル化 → ケトン、続いてβ位 OMe の脱離(−MeOH)。結果は環内 α,β-不飽和ケトン(ジヒドロピラノン/シクロヘキセノン)
協奏か段階か判別せよ ①立体特異性の保存 ②開鎖アルドール中間体の捕捉 ③溶媒極性依存性——強ルイス酸ではMukaiyama 型段階機構に傾く
DMDO を使う理由 副生物がアセトンのみで酸を出さない。酸に不安定なグリカール・1,2-アンヒドロ糖を壊さない
1,2-アンヒドロ糖の開環立体 アルコールが C1 を SN2 的に背面攻撃して立体反転。生成物は 1,2-trans グリコシドで、C2-OH が遊離のまま残る
NCL の要件 C 末端チオエステル+N 末端システイン。チオール交換 → S→N アシル転位で天然アミド結合。Cys がない位置は補助チオール+脱硫で対応
ここにタイトルを入力

発展:なぜ「ジエンの HOMO を上げる」だけでは不十分なのか
FMO 理論は反応速度を定性的に説明するが、実際の反応にはもうひとつの条件がある——ジエンが s-cis 配座を取れることである。1,3-ブタジエンは室温で s-trans が優勢で、反応する s-cis 配座の存在比が低いことが、反応の遅さの一因になっている。ダニシェフスキー・ジエンでは 1位のメトキシ基が E 配置で、末端 CH2 側に立体障害となる置換基がないため、s-cis への回転が阻害されない設計になっている。電子効果(HOMO の高さ)と立体・配座効果(s-cis の取りやすさ)は独立した2軸であり、優れた試薬は両方を同時に満たしている。逆に、ジエンの2,3位を環でつないで s-cis に固定する(シクロペンタジエンや Danishefsky 型環状ジエン)というのが、もう一方のアプローチである。シクロペンタジエンが常温で二量化してしまうほど反応性が高いのは、まさに s-cis に固定されているからだ。

まとめ

この記事のポイント
サミュエル・J・ダニシェフスキー(1936–)はニュージャージー生まれ。ハーバードで学位、ギルバート・ストークのもとでポスドク。ピッツバーグ → イェール → コロンビア大+MSKCC
ダニシェフスキー・ジエン=(E)-1-メトキシ-3-(トリメチルシリルオキシ)-1,3-ブタジエン。trans-4-メトキシ-3-ブテン-2-オンのシリルエノールエーテル化で作る
・2つの電子供与基がジエン HOMO を押し上げ、ジエノフィル LUMO との差を縮めて反応を加速する(順電子要請型 Diels–Alder)
・1位と3位の供与基が同じ末端の軌道係数を大きくするため、位置選択性が一義的に決まる
・付加体は酸処理で脱TMS → ケトン化、β-OMe の脱離を経て 2,3-ジヒドロ-4H-ピラン-4-オンになる
・強いルイス酸下ではMukaiyama 型の段階機構が競合するため、ダニシェフスキー自身は「環化縮合」という中立的な呼称を使った
・ジヒドロピラノンを起点に立体を順に導入することで、天然糖に頼らない de novo 糖合成が可能になった
グリカール集合法:グリカール → DMDO エポキシ化 → 1,2-アンヒドロ糖 → SN2 的開環で 1,2-trans グリコシド+遊離 C2-OH。そのまま次の伸長に使えるため反復可能・固相化可能
・ヨードニウム試薬+スルホンアミドによるスルホンアミドグリコシル化で 2-アミノ糖(GlcNAc 等)に到達
・全合成の代表作はタキソール(分子内 Heck)、エポチロン(B-アルキル鈴木カップリング+マクロアルドール化)、カリケアマイシン関連、ゲルセミン、ミグラスタチン類縁体
Globo-H など糖鎖がんワクチンを完全化学合成し、単分子多価ワクチンを設計した
・2013年、エリスロポエチン(EPO)の全化学合成を達成。NCL+金属フリー脱チオール化で、糖鎖が均一な糖タンパク質を作り、マウスで市販製剤並みの活性を示した
・受賞歴:ウルフ賞化学部門(1995/96、ストークと同時)、Tetrahedron Prize、Cope Award、フランクリン・メダル(2006)ほか

よくある質問

ダニシェフスキー・ジエンはなぜ普通のブタジエンより反応が速いのですか

電子供与基が2つ付いていて、ジエンの HOMO が高くなっているからです。順電子要請型の Diels–Alder 反応では「ジエンの HOMO」と「ジエノフィルの LUMO」が相互作用するため、HOMO が高いほど両者のエネルギー差が小さくなり、活性化エネルギーが下がります。加えて、1位のメトキシ基が E 配置で立体障害を作らないため、反応に必要な s-cis 配座を取りやすいことも効いています。速い理由は電子効果と配座効果の両方だと押さえておくと、応用問題に強くなります。

付加体に酸を加えると何が起こるのですか

2段階の変化が連続します。まず Si–O 結合が切れてシリルエノールエーテルがエノールになり、互変異性でケトンになります。次に、そのカルボニルの β 位にあるメトキシ基が脱離(−MeOH)して二重結合ができます。結果として得られるのは環内の α,β-不飽和ケトンで、アルデヒドと反応させた場合は 2,3-ジヒドロ-4H-ピラン-4-オン、通常のジエノフィルと反応させた場合はシクロヘキセノンです。「環を作ったあと、酸1滴でエノンが出てくる」という設計の妙がここにあります。

なぜ「Diels-Alder反応」と呼ばずに「環化縮合」と呼ぶのですか

機構がひとつに決まらないからです。弱いルイス酸や熱条件では協奏的な [4+2] 環化付加として進みますが、BF3 や TiCl4 のような強いルイス酸を使うと、シリルエノールエーテルがカルボニルに求核付加する向山アルドール型の段階機構に傾き、実際に環化していない開鎖中間体が単離されることもあります。生成物は同じでも通る道が違うため、ダニシェフスキーは機構を断定しない “cyclocondensation” という語を使いました。「名前の付け方に機構への態度が表れている」例として覚えておくとよいでしょう。

グリカール集合法がグリコシル化の立体制御に強いのはなぜですか

立体が反応機構によって決まるからです。多くのグリコシル化はオキソカルベニウムイオン(平面的なカチオン)を経由するため、α と β の両面から攻撃されうる——隣接基関与や溶媒効果で偏らせることはできますが、完全な制御は難しい。一方グリカール集合法では、DMDO がグリカールの決まった面をエポキシ化して 1,2-アンヒドロ糖を作り、そのエポキシドをアルコールが SN2 的に背面攻撃して開環します。立体反転が機構上必然なので、生成する 1,2-trans グリコシドの立体が予測可能になります。おまけに C2-OH が遊離のまま残るので、そのまま次の伸長に使えます。

de novo 糖合成は、天然の糖から作る方法(キラルプール法)とどう違うのですか

出発点が違います。キラルプール法はグルコースなど天然に大量に存在する糖から始め、保護基の付け替えで目的の糖へ変換します。立体中心が最初から揃っているので効率的ですが、自然界にある糖しか出発点にできないという制約があります。de novo 法は、単純なアルデヒドとジエンの環化縮合から始め、キラル触媒で最初の立体を作り、あとは還元・エポキシ化・ジヒドロキシ化で立体を順に導入していきます。手数は増えますが、L体の糖・希少糖・非天然の類縁体まで同じ論理で作れるのが強みです。糖鎖ワクチンのように「天然にない構造」が要る場面では、こちらが不可欠になります。

EPO を化学合成する意味はどこにあるのですか。細胞に作らせればよいのでは

細胞に作らせると、糖鎖が不均一な混合物になってしまうからです。EPO は 3か所の N-結合型糖鎖と 1か所の O-結合型糖鎖を持ちますが、生物由来の製品ではその糖鎖の構造が分子ごとに違い、数十種類のグリコフォームの混合物になります。すると「どの糖鎖構造が薬効や体内半減期を決めているのか」が原理的にわからず、製造ロット間の差も生じます。化学全合成ならただ1種類の構造を狙って作れるため、構造と機能の対応を厳密に調べられます。ダニシェフスキーらの合成 EPO はマウスで市販製剤と同等の in vivo 活性を示し、化学だけが提供できる「均一性」の価値を実証しました。

学部レベルでは、この化学者から何を持ち帰ればよいですか

3つあります。第一に、Diels–Alder 反応の置換基効果を FMO で説明できるようにすること——供与基はジエンの HOMO を上げ、求引基はジエノフィルの LUMO を下げる、という基本形です。第二に、シリル基は保護基とは限らないという視点。シリルエノールエーテルは「隠す」ためではなく「求核性を作る」ために使われます。第三に、試薬は設計できるという発想そのもの。「反応が進まない」と言う前に、基質のほうを電子的・立体的にどう変えれば進むかを考える——これが有機合成の思考法です。ほかの化学者の歩みは有機化学者列伝まとめページから、試薬の使い分けは試薬まとめページから確認できます。

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