ショーバンがメタセシスの機構を解き明かしても、それを合成化学者が実験台で使えなければ「絵に描いた餅」だった。初期のメタセシス触媒は、成分が定まらず・空気に弱く・アルコールやアミドがあると死んでしまうという三重苦を抱えていたからだ。天然物や医薬品には官能基が満載で、そのままでは触媒が使えない。
この壁を打ち破ったのがロバート・グラブスである。彼はルテニウム(Ru)を中心金属に選び、成分のはっきりした(well-defined)安定な金属カルベン錯体を設計した。生まれた「グラブス触媒」は、空気中でも扱え、水やアルコールが共存しても働き、多くの官能基を無視して二重結合だけを組み替えるという、それまでの常識を覆す実用触媒だった。
この記事では、院試でも問われる第1世代・第2世代グラブス触媒の構造の違いを中心に、NHC配位子が何をしているのか、なぜRu触媒が「使いやすい」のかを、グラブスの生涯とともに解説する。機構を作ったショーバン、Mo触媒のシュロックとあわせて、「メタセシスを世界の合成に広げた立役者」を理解していこう。
生涯と略歴——ケンタッキーの農村からノーベル賞へ
ロバート・ハワード・グラブス(Robert Howard Grubbs)は1942年2月27日、アメリカ・ケンタッキー州の農村ポッサム・トロットに生まれた。フロリダ大学で学び、当初は農芸化学を志したが有機化学に魅了され、修士課程で有機化学に進む。その後コロンビア大学に移り、ロナルド・ブレスローのもとで1968年に博士号を取得した。スタンフォード大学でジェームズ・コルマンに師事したポスドク期間を経て、有機金属化学を自らの主戦場に定めていく。
1969年にミシガン州立大学の教員となり、メタセシスの機構研究に着手。1978年にカリフォルニア工科大学(Caltech)へ移り、以後半世紀にわたってここを拠点とした。1990年代、グラブスの研究室はルテニウム=カルベン錯体の設計に成功し、1992年に最初のRu触媒、1995年に扱いやすい第1世代グラブス触媒を、1999年前後に高活性の第2世代グラブス触媒を発表した。
2005年、グラブスはイヴ・ショーバン・リチャード・シュロックとともに、「有機合成におけるメタセシス法の開発」に対してノーベル化学賞を受賞した。機構を解明したショーバン、高活性なMo触媒を作ったシュロック、そして頑丈で使いやすいRu触媒を作ったグラブス——三者の役割がそろって、メタセシスは世界中の実験室の標準ツールになった。グラブスは2021年12月19日に没した(79歳)。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1942 | アメリカ・ケンタッキー州の農村に生まれる |
| 1963–1965 | フロリダ大学で学士・修士(有機化学へ転向) |
| 1968 | コロンビア大学でブレスローのもと博士号を取得 |
| 1969 | ミシガン州立大学の教員となり、メタセシス研究を始める |
| 1978 | カリフォルニア工科大学(Caltech)へ移籍 |
| 1992 | 最初の well-defined なルテニウム=カルベン触媒を報告 |
| 1995 | 扱いやすい第1世代グラブス触媒を発表 |
| 1999前後 | NHC配位子を導入した高活性の第2世代グラブス触媒を開発 |
| 2005 | ショーバン・シュロックとノーベル化学賞を受賞 |
| 2021 | カリフォルニアにて死去(79歳) |
グラブス触媒とは——ルテニウムを選んだ理由
ショーバン機構が示したとおり、メタセシスの活性種は金属カルベン(金属=炭素二重結合、M=CR2)である。問題は「どの金属で、どんな配位子で、安定なカルベンを作るか」だった。当時主流だったMo・W・Ta系のカルベンは高活性だが酸素や水に敏感で、扱いに熟練を要した。
グラブスは後周期の遅い遷移金属であるルテニウム(Ru)に注目した。Ruは酸素・水・アルコールといった硬い配位子より、アルケンのπ結合のような軟らかい相手を好むという性質をもつ。だからこそ官能基(OH・COOH・アミドなど)を素通りして、二重結合だけを狙って反応できる。この「金属の好みの違い」こそが、Ru触媒が官能基や水に強い根本理由である。
【第1世代グラブス触媒の構造(模式)】
PCy3
|
Cl —— Ru = CH–Ph Cy = シクロヘキシル
| Ph = フェニル
Cl —— PCy3
・中心金属:ルテニウム(Ru)
・カルベン:ベンジリデン(=CH–Ph)が活性種の入り口
・アニオン配位子:塩化物イオン × 2
・中性配位子:トリシクロヘキシルホスフィン PCy3 × 2
この錯体は紫色の安定な固体で、空気中でも秤量できる。反応に入ると片方のPCy3が外れて14電子の活性種となり、そこにアルケンが配位して[2+2]→逆[2+2]のサイクルが回る。まさにショーバン機構を、頑丈な分子として具現化した触媒である。
第1世代と第2世代——NHC配位子が変えたもの
グラブス触媒の進化のカギは、片方のホスフィン(PCy3)を N-ヘテロ環状カルベン(NHC)に置き換えたことにある。NHC(代表例はH2IMes/SIMes)は、ホスフィンよりも強いσ供与体であり、Ru中心に電子を送り込んでもう一方のPCy3を外れやすくし、活性種を安定化する。結果として、第2世代は活性・熱安定性・基質適合性のすべてで第1世代を上回る。
【第1世代 → 第2世代への置き換え】
第1世代: PCy3 第2世代: NHC(H2IMes)
| |
Cl —— Ru = CHPh Cl —— Ru = CHPh
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Cl —— PCy3 Cl —— PCy3
上のPCy3 を NHC に交換
⇒ 強いσ供与で活性・熱安定性・官能基耐性が向上
| 項目 | 第1世代グラブス触媒 | 第2世代グラブス触媒 |
|---|---|---|
| 中性配位子 | PCy3 × 2 | NHC × 1 + PCy3 × 1 |
| 活性 | 中程度 | 高い(立体的に混んだ基質も可) |
| 熱安定性 | やや低い | 高い(高温でも分解しにくい) |
| 得意な基質 | 末端アルケン中心の標準的なRCM・CM | 電子不足アルケン・三/四置換アルケンの構築 |
| 扱いやすさ | 空気に強く扱いやすい | 同様に頑丈で、より広い基質に対応 |
ホベイダ–グラブス触媒という発展形
第2世代を土台に、ベンジリデンをキレート型のイソプロポキシベンジリデンに替えたのがホベイダ–グラブス触媒である。酸素原子がRuに配位して安定な「休眠状態」を作り、ホスフィンを持たないぶん精製しやすく、再利用性や再現性に優れる。電子不足アルケンや連続反応で重宝され、現在の全合成で広く使われている。グラブス触媒が「一つの完成形」でなく、改良され続けるプラットフォームだったことがよく分かる。
グラブス触媒の使いどころ——RCMとROMP
グラブス触媒が最も威力を発揮するのが、RCM(閉環メタセシス)とROMP(開環メタセシス重合)である。どちらもショーバン機構の上で動くが、頑丈なRu触媒のおかげで官能基まみれの複雑な分子でも実行できるようになった。
両端にアルケンをもつ鎖状分子を分子内でつなぎ、エチレンを放出して環を閉じる。医薬品・天然物の中〜大員環合成の定番になった。
異なる2つのアルケンをつなぎ替える。官能基を持つ断片同士を後半でつなぐ合成戦略に使われる。
ノルボルネンなどひずんだ環状アルケンを開環重合させ、精密な高分子(ポリマー)を作る。材料化学の重要手法。
とくにRCM(Ring-Closing Metathesis)は、天然物や医薬品の複雑な骨格に含まれる大きな環を、穏やかな条件で一段階で閉じられる。反応でエチレン(CH2=CH2)が気体として抜けていくため平衡が環化側に傾き、収率が上がる。メタセシス反応全体の流れは、オレフィンメタセシスの機構と種類の記事で図とともに解説している。
現代への影響
ショーバンが解き明かした金属カルベン機構を、グラブスは「誰でも使える頑丈な分子」に落とし込んだ。その影響は、合成・材料・教育の3方向に広がっている。
RCM・CMが全合成の標準ツールになり、複雑な官能基を持つ天然物・医薬品の環構築を日常操作に変えた。
ROMPが精密ポリマーや高性能樹脂の製造に使われ、接着剤・コーティング・医薬中間体にメタセシスが組み込まれている。
ルテニウムカルベン・NHC配位子・第1/第2世代の違いは、有機金属・触媒化学の頻出テーマとして出題される。
まとめ
グラブスの仕事は、機構を解明したイヴ・ショーバンの理論を実用へと橋渡しした。同じ2005年のノーベル賞を分け合ったリチャード・シュロックは、Mo・W系の高活性カルベン触媒を設計しており、「頑丈で扱いやすいRu(グラブス)」対「高活性だが敏感なMo(シュロック)」という対比で覚えると理解が深まる。金属で炭素骨格を組むという20世紀後半の潮流は、鈴木・宮浦カップリングなどのクロスカップリングとも地続きだ。実用触媒がいかに化学を変えるか——その最良の例として、グラブスの名は今も反応式の傍らに生き続けている。
