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リチャード・ヘック完全解説|ヘック反応でパラジウム触媒時代を開いた化学者

現代の有機合成で「炭素と炭素をつなぐ」といえば、まずパラジウム触媒が思い浮かぶ。医薬品も、有機ELの発光材料も、農薬も——その分子骨格の多くは、Pdがハロゲン化アリールを掴んで別の炭素へ橋渡しすることで組み上げられている。その巨大な流れの最初の一滴を落としたのが、リチャード・ヘックだ。

1968年、ヘックはたった一人で書いた一連の論文の中で、ハロゲン化アリールとアルケンをパラジウムでつなぐ反応を報告した。日本の溝呂木勉も1971年に独立に同種の反応を見いだしたため、この反応は今日溝呂木・ヘック反応(Mizoroki–Heck reaction)とも呼ばれる。地味なスタートだったが、この反応はやがて有機合成の風景を一変させた。

この記事では、院試でも頻出のヘック反応の触媒サイクル(酸化的付加→挿入→β水素脱離)を軸に、なぜE体(trans)が優先するのか、位置選択性はどう決まるのか、そしてなぜ2010年に根岸英一・鈴木章とともにノーベル化学賞に輝いたのかを、ヘックの生涯とともに解説する。クロスカップリングという大陸の「発見者」の物語を追っていこう。

この記事で学ぶこと
・ヘック反応とは何か(Pd触媒でハロゲン化アリール・ビニルとアルケンを結合する反応)
・触媒サイクル(酸化的付加・カルボパラデーション・β水素脱離・塩基による再生)
・なぜE体(trans)が優先し、位置選択性はどう決まるのか
・「溝呂木・ヘック反応」と呼ばれる理由(溝呂木勉の独立発見)
・根岸・鈴木カップリングとの違いと、2010年ノーベル化学賞の意味

生涯と略歴——企業研究者からノーベル賞へ

リチャード・フレッド・ヘック(Richard Fred Heck)は1931年8月15日、アメリカ・マサチューセッツ州スプリングフィールドに生まれた。少年期をロサンゼルスで過ごし、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)で学んだ。反応機構論の名手ソール・ウィンスタインのもとで研究し、1954年に博士号を取得。スイス連邦工科大学(ETHチューリッヒ)でのポスドクを経て、再びウィンスタインの研究室で研究を続けた。

その後ヘックはハーキュリーズ社(Hercules Powder Company)というデラウェア州の化学企業に就職する。大学ではなく企業の研究所で、彼は有機金属化学——とくにパラジウムの化学に取り組んだ。1968年、彼は単著の連続論文で、ハロゲン化アリールがパラジウムを介してアルケンと反応する変換を報告した。ほとんど一人で実験し、一人で論文を書いたこの仕事が、のちのノーベル賞につながる。

1971年、日本の溝呂木勉が酢酸パラジウムを触媒に同種の反応を独立に報告し、1972年にヘックが触媒的条件へと洗練させた。1971年、ヘックはデラウェア大学の教授に転じ、以後この反応の一般性と応用を広げていく。1989年に退職して名誉教授となり、晩年は妻の母国であるフィリピンで暮らした。そして2010年、根岸英一・鈴木章とともに「有機合成におけるパラジウム触媒クロスカップリング」への貢献でノーベル化学賞を受賞。2015年10月10日、マニラで84歳の生涯を閉じた。

出来事
1931 アメリカ・マサチューセッツ州スプリングフィールドに生まれる
1954 UCLAでウィンスタインのもと博士号を取得
1950年代後半 ETHチューリッヒでポスドク、のちハーキュリーズ社へ
1968 単著の連続論文でPd経由のアリール化反応を報告
1971 溝呂木勉が酢酸Pd触媒で同種の反応を独立に報告/ヘックはデラウェア大学教授に
1972 触媒的(触媒量Pd)条件へと反応を洗練
1982 総説等で反応の一般性・応用範囲を体系化
1989 デラウェア大学を退職し名誉教授に
2010 根岸英一・鈴木章とノーベル化学賞を受賞
2015 フィリピン・マニラで死去(84歳)
大学ではなく企業から生まれた「基礎の大発見」
ヘック反応が特異なのは、その原型が大学ではなくハーキュリーズという企業の研究所で、しかもほぼ単独の研究から生まれた点にある。共著者を連ねた大所帯の研究室ではなく、一人の化学者が地道に実験を重ねた成果が、40年以上を経てノーベル賞に結実した。基礎研究がどこから芽吹くか分からないことを示す好例として、しばしば語られる。

ヘック反応とは——アリールとアルケンをつなぐ

ヘック反応は、ハロゲン化アリール(またはビニル)Ar–Xアルケンを、パラジウム触媒塩基のもとで反応させ、新しい炭素–炭素結合を持つ置換アルケンを作る反応である。形式的には、アルケンの水素1つがアリール基に置き換わるアリール化(またはビニル化)にあたる。

【ヘック反応の全体像】

  Ar–X  +  CH2=CH–R   →   Ar–CH=CH–R  +  HX(·塩基)
 (ハロゲン化    (アルケン)          (E体が優先)
  アリール)

   触媒:Pd(0)(例:Pd(OAc)2+ホスフィン配位子)
   塩基:Et3N・K2CO3 など(発生するHXを中和)
   X   :I > OTf > Br >> Cl(反応性の目安)

他のクロスカップリング(鈴木・根岸など)があらかじめ金属化した有機求核剤(有機ホウ素・有機亜鉛など)を必要とするのに対し、ヘック反応はふつうのアルケンをそのまま使えるのが最大の特徴だ。有機金属試薬を別に調製しなくてよいため、原料が入手しやすく、官能基許容性も高い。

覚え方:ヘックだけ「相手が金属化していない」
鈴木=有機ホウ素、根岸=有機亜鉛、右田・小杉・スティル=有機スズ…と、多くのクロスカップリングは「金属化した炭素求核剤」+「ハロゲン化物」の組み合わせ。だがヘックだけは相手が生のアルケンで、金属化が要らない。「ヘック=アルケンを直接つなぐ」と押さえると、他のカップリングと明確に区別できる。

触媒サイクル——4つのステップで理解する

ヘック反応の機構は、パラジウムがPd(0)とPd(II)を行き来する触媒サイクルとして整理できる。院試では各ステップの名前と順番が問われるので、しっかり押さえたい。

【ヘック反応の触媒サイクル】

 (1) 酸化的付加
     Pd(0) + Ar–X  →  Ar–Pd(II)–X

 (2) アルケンの配位と挿入(カルボパラデーション)
     Ar–Pd–X + CH2=CHR
        →  Ar–CH2–CHR–Pd–X   (syn付加:Arと Pd が同じ面から付く)

 (3) β水素脱離(syn)
        →  Ar–CH=CHR  +  H–Pd–X   (新しいアルケンが生成)

 (4) 還元的脱離(塩基でHXを中和し Pd(0) を再生)
     H–Pd–X + 塩基  →  Pd(0) + 塩基·HX

(1) 酸化的付加では、電子豊富なPd(0)がAr–X結合に割り込み、Pd(II)へと酸化される。C–X結合が切れやすいほど速いので、反応性はAr–I > Ar–OTf > Ar–Br >> Ar–Clの順になる。

(2) 挿入(カルボパラデーション)は、配位したアルケンにAr–Pd結合がsyn付加する段階。アリール基とパラジウムがアルケンの同じ面から、隣り合う炭素に付く。ここで生成物の骨格が決まる。

(3) β水素脱離もまたsynで進む。Pdとβ位の水素が同じ面でシン・ペリプラナー(同一平面上で重なる配置)になったときに脱離が起こり、新しい二重結合が生まれる。この「syn付加→syn脱離」という立体的な要請が、後述するE選択性を生む。

(4) 残ったH–Pd–Xは塩基によってHXが引き抜かれ、Pd(0)が再生してサイクルが回り続ける。塩基はHXを中和する「掃除役」であり、これがないと触媒が回らない。

よくある誤解
ヘック反応の締めくくりを、鈴木・根岸カップリングと同じ「還元的脱離で生成物が出る」と混同しやすいが、ヘックの生成物はβ水素脱離で放出される。還元的脱離は「H–Pd–X+塩基」でPd(0)を再生する最後の段階にあたる。「生成物はβ水素脱離、触媒再生は塩基による還元的脱離」という順番を取り違えないこと。また、β水素脱離が必要なのでβ位に脱離できる水素がない基質(第三級など)ではうまくいかない点も要注意。

E選択性と位置選択性——なぜtransが優先するのか

ヘック反応が合成に強いのは、立体選択性と位置選択性がよく制御できるからだ。まず立体選択性——生成する二重結合は多くの場合E体(trans)が優先する。

理由はsyn挿入とsyn-β水素脱離の幾何にある。挿入で生じたアルキルパラジウム中間体は、β水素脱離の直前にPdとHが同じ面で重なる(シン・ペリプラナー)配座をとる必要がある。このとき、かさ高いアリール基とアルケン上の置換基Rが互いに離れた(アンチの)配置をとる回転異性体のほうが立体的に有利で、そこから脱離するとE体の二重結合になる。立体反発を避ける配座が選ばれる結果としてtrans生成物が得られる、と理解すると腑に落ちる。

次に位置選択性。電子不足のアルケン(アクリル酸エステル・スチレンなど)では、アリール基は置換基の少ない末端炭素に入りやすく、直鎖(linear)型の生成物を与える。桂皮酸エステル型の骨格が一気に組めるのは、この位置選択性のおかげだ。

Pd–Hの「歩き回り(chain walking)」に注意
β水素脱離で生じたPd–Hは、放出したアルケンに再配位して再挿入することがある。これが繰り返されると二重結合が分子内を移動し、望まない位置異性体が生じうる。実際の合成では、配位子や塩基、温度を調整してこの「歩き回り」を抑え、狙った位置・幾何の生成物を得る工夫がなされる。

クロスカップリングの中のヘック——2010年ノーベル賞

2010年のノーベル化学賞は、「有機合成におけるパラジウム触媒クロスカップリング」に対して、ヘック・根岸英一・鈴木章の3人に贈られた。3つの反応は役割が少しずつ異なり、並べて理解すると全体像がつかめる。

ヘック反応

Ar–X+アルケン。相手を金属化せずアルケンを直接つなぐ。挿入とβ水素脱離で置換アルケンを与える。桂皮酸誘導体やスチレン骨格の構築に強い。

根岸カップリング

Ar–X+有機亜鉛(R–ZnX)。トランスメタル化を経て還元的脱離。反応性が高く、多様な炭素同士をつなげる汎用性が魅力。

鈴木・宮浦カップリング

Ar–X+有機ホウ素(R–B(OH)2)。ホウ素が低毒性で扱いやすく、医薬・材料の工業生産で最も広く使われる。

ヘック反応は、これらクロスカップリングの中でも「最初に切り拓かれた道」という歴史的な重みを持つ。パラジウムが炭素骨格を組み立てられることを世界に示し、根岸・鈴木・スティル・薗頭らの反応が続くPd触媒化学の大陸を開いた。医薬品(降圧薬・抗がん剤など)や有機EL材料の製造現場で、これらの反応は今も日常的に使われている。

「溝呂木・ヘック反応」という呼び名
日本の溝呂木勉は1971年、酢酸パラジウムを触媒に、ヨウ化アリールとアルケンの反応を独立に報告した。ヘックの1968年の報告と本質的に同じ変換だったため、日本を中心に「溝呂木・ヘック反応(Mizoroki–Heck reaction)」と両者の名を併記して呼ぶことが多い。教科書で二つの呼び名を見かけたら、同じ反応だと理解しておこう。

現代への影響

ヘックが灯した「Pdで炭素をつなぐ」という発想は、有機合成の設計思想そのものを書き換えた。その影響は、合成・材料・教育の3方向に広がっている。

医薬・合成化学

ハロゲン化アリールとアルケンから複雑な芳香族分子を一段で組めるため、医薬品や生理活性天然物の合成戦略が大きく広がった。分子内ヘックは環構築にも使われる。

材料・機能性分子

有機EL発光材料や共役ポリマー、色素など、π共役骨格を精密につなぐ手段として工業的に活躍。パラジウム触媒化学は電子材料産業の基盤になった。

教育・院試

酸化的付加・挿入・β水素脱離という触媒サイクル、E選択性の起源、他のクロスカップリングとの比較は、有機金属・反応機構分野の頻出テーマとして出題される。

まとめ

この記事のポイント
・リチャード・ヘック(1931–2015)はPd触媒でハロゲン化アリール・ビニルとアルケンをつなぐヘック反応(溝呂木・ヘック反応)を確立し、2010年に根岸英一・鈴木章とノーベル化学賞を受賞したアメリカの化学者
・触媒サイクルは(1)酸化的付加 → (2)挿入(カルボパラデーション、syn) → (3)β水素脱離(syn)で生成物放出 → (4)塩基による還元的脱離でPd(0)再生の4段階
syn付加+syn脱離の幾何と立体反発の回避により、生成する二重結合はE体(trans)が優先する
・相手を金属化せずアルケンを直接使える点が、有機ホウ素・有機亜鉛を使う鈴木・根岸との大きな違い
・β位に脱離できる水素が必要で、Pd–Hの「歩き回り」による位置異性化に注意が要る

ヘックの一段は、その後の根岸英一の有機亜鉛カップリング鈴木章のホウ素カップリングへと受け継がれ、パラジウム触媒クロスカップリングという一大分野を形づくった。反応そのものの機構や条件はヘック反応の機構と位置・立体選択性の記事で図とともに詳しく解説している。金属で炭素骨格を組むという20世紀後半の潮流の中で、その扉を最初に押し開けた——それがリチャード・ヘックの名が刻まれた場所である。

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