1848年、26歳のルイ・パスツールは顕微鏡をのぞきながら、小さな結晶を1粒ずつピンセットで分け始めた。酒石酸ナトリウムアンモニウムの結晶には、鏡像の関係にある2種類の形があった。彼は震える手でそれらを分離し、一方の水溶液に偏光を通した。右に曲がった。もう一方は左に曲がった。パスツールは思わず声を上げ、廊下へ飛び出して通りすがりの同僚を抱きしめたという。
この瞬間、「光学異性体」という概念が化学史に刻まれた。分子に「右手」と「左手」が存在するという発見は、その後の医薬品開発・生命科学・材料科学の礎となる。
生涯と略歴
ルイ・パスツール(Louis Pasteur)は1822年12月27日、フランス東部のドールに生まれた。なめし革職人の家庭に育ち、幼少期は絵の才能で知られたが、やがて科学の道へ進む。1847年にパリ高等師範学校で物理学と化学の学位を取得し、ストラスブール大学を経て、1854年にはリール大学理学部の学部長に就任。1857年にはパリ高等師範学校に学術部長として戻った。
1854年以降は発酵の研究に精力を注ぎ、1857年に微生物が発酵を引き起こすことを証明した。1861年に自然発生説を実験的に否定し、1865年にはパスツリゼーション(低温殺菌法)を確立した。晩年はニワトリコレラ・炭疽病・狂犬病のワクチン開発に成功し、1888年にパスツール研究所を設立。1895年9月28日、パリ郊外で72歳の生涯を閉じた。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1822年 | フランス・ドールに生まれる |
| 1847年 | パリ高等師範学校で学位取得 |
| 1848年 | 酒石酸塩結晶の手動分割による光学異性体の発見 |
| 1854年 | リール大学学部長に就任、発酵研究を開始 |
| 1857年 | 乳酸発酵が微生物によることを証明 |
| 1861年 | 白鳥首フラスコ実験で自然発生説を否定 |
| 1865年 | 低温殺菌法(パスツリゼーション)を確立 |
| 1881年 | 炭疽病ワクチンの公開実証実験に成功 |
| 1885年 | 狂犬病ワクチンを人間に初めて投与し成功 |
| 1888年 | パスツール研究所を設立 |
| 1895年 | パリ郊外で逝去(享年72歳) |
光学異性体の発見:化学史を変えた結晶分割実験
背景:ビオの謎と酒石酸の問題
1815年、物理学者ジャン=バティスト・ビオは偏光を用いた実験で、天然の酒石酸水溶液が偏光面を右に回転させることを示した。しかし不思議なことに、化学的に合成された酒石酸(ラセミ酸)は偏光を全く回転させなかった。組成も化学的性質も同じなのに、なぜ振る舞いが異なるのか——これが当時の大きな謎だった。
実験の仕組みと発見
パスツールは1848年、酒石酸ナトリウムアンモニウムの結晶を注意深く観察し、2種類の形が混在していることに気づいた。一方は右方向に傾いた結晶面(右旋性)を持ち、もう一方は左方向に傾いた結晶面(左旋性)を持つ——まるで右手と左手のように、鏡像の関係にあった。
彼はこれらをピンセットで1粒ずつ手作業で分離した。そして各グループを水に溶かし、偏光計を通したところ:
右旋性結晶の溶液 → 偏光を右(+)に回転 → (+)-酒石酸 左旋性結晶の溶液 → 偏光を左(−)に回転 → (−)-酒石酸 両者の等量混合物 → 偏光を回転させない → ラセミ酸(ラセミ体)
ラセミ酸の正体は、右旋性と左旋性の等量混合物(ラセミ混合物)だったのである。この発見により、パスツールは化学史上初めて「鏡像異性体(エナンチオマー)」の存在を実証した。
キラリティの概念の確立
パスツールはこの発見から「分子には左右の非対称性がある」という概念——後にキラリティ(chirality)と呼ばれる概念——を導出した。彼は「生命は本質的に非対称であり、宇宙の右手と左手の非対称性を反映している」という哲学的な考察も残している。なお、パスツール自身はこの性質を「非対称性(dissymétrie)」と呼んでおり、「キラリティ」という術語自体は後年(1894年)に物理学者ケルヴィン卿(ウィリアム・トムソン)が初めて用いたものである。
酒石酸の構造(模式): (+)-酒石酸 (−)-酒石酸 HO H H OH | | | | HOOC-C*-C*-COOH HOOC-C*-C*-COOH | | | | H OH HO H * C* は不斉炭素(キラル中心)
発酵と自然発生説:化学反応説を覆したもう一つの革命
発酵は生命現象である
当時の化学界は「発酵は純粋な化学反応である」と信じていた(リービッヒら)。パスツールはこれに真正面から挑み、1857年の乳酸発酵の研究で「発酵は微生物の生命活動によって引き起こされる」ことを証明した。酵母や細菌を取り除いた溶液では発酵が起こらず、微生物を加えると発酵が再開した。
(アルコール発酵:酵母による) C6H12O6 → 2 C2H5OH + 2 CO2 グルコース → エタノール + 二酸化炭素 (乳酸発酵:乳酸菌による) C6H12O6 → 2 CH3CH(OH)COOH グルコース → 乳酸(L-乳酸,光学活性体)
自然発生説の否定
「微生物は自然に発生する」という自然発生説は根強く残っていたが、パスツールは1861年に白鳥首フラスコ(swan-neck flask)を用いた見事な実験でこれを否定した。長く曲がった細い首のフラスコ内の培養液を煮沸した後、空気は通るが微生物は入れない状態に保つと、培養液は何年たっても腐敗しなかった。首を折ると数日で腐敗した。これにより、微生物は空気中から混入することが証明された。
ワクチン開発:免疫学への貢献
パスツールはジェンナーの天然痘ワクチンの概念を拡張し、弱毒化した病原体を接種することで免疫を与えるという原理(弱毒生ワクチン)を確立した。
- 1877年:ニワトリコレラの研究に着手
- 1879年:培養液の弱毒化現象を発見し、ニワトリコレラワクチンの原理を確立
- 1881年:炭疽菌ワクチンの公開実証実験(プイイ=ル=フォールの実験)
- 1885年:9歳の少年ジョゼフ・マイスターに狂犬病ワクチンを投与し救命に成功
現代への影響
光学異性体の概念はキラル医薬品の開発に不可欠。現在の新薬のうち約50%がキラル化合物であり、特定のエナンチオマーのみを合成する「不斉合成」はパスツールの発見に始まる。
パスツリゼーション(低温殺菌)は現代の乳製品・飲料製造に世界中で用いられている。牛乳・ジュース・ワインなど広く普及し、食品衛生の礎となっている。
弱毒生ワクチンの原理は、インフルエンザ・麻疹・MMRワクチンなど現代の感染症対策の根幹。コロナウイルス対策においても、免疫学の基礎としてパスツールの業績が土台にある。
まとめ
| 用語 | 意味 |
|---|---|
| エナンチオマー(鏡像異性体) | 互いに鏡像の関係にある立体異性体。重ね合わせることができない |
| キラリティ | 分子が鏡像と重ね合わせられない性質。不斉炭素を持つ分子はキラルである |
| ラセミ体 | (+)体と(−)体が1:1で混在した混合物。旋光性を示さない |
| 旋光性 | 偏光面を回転させる性質。光学活性な化合物が示す |
| 不斉炭素(キラル中心) | 4つの異なる原子または基が結合した炭素原子。C* で表すことが多い |
