20歳のとき、ジョン・コーンフォースは音のない世界へと完全に閉じ込められた。両耳が聞こえなくなっても彼は化学の道を歩み続け、1975年にノーベル化学賞を受賞する。「聴覚のない天才」として語られることも多いが、コーンフォースの真の偉大さは障害を克服した精神力にではなく、酵素が触媒するときに分子の立体がどう変わるかを同位体標識という精緻な手法で初めて実証した科学的業績にある。
彼が解き明かしたのは、コレステロールや天然物の生合成経路における「立体化学のルール」だ。酵素は基質の特定の面を認識し、水素原子一つひとつを区別する。その精密な仕組みを実験的に証明したコーンフォースの仕事は、今日の生化学・医薬品開発の基礎となっている。
生涯と略歴
ジョン・ウォーカップ・コーンフォース(John Warcup Cornforth)は1917年9月7日、オーストラリアのシドニーで生まれた。幼少期から耳の機能が低下し始め、10代で難聴が進行、20歳の頃には完全に聴覚を失った。聴覚障害はコーンフォースの学習を妨げるどころか、彼を読書と実験へと向かわせた。
シドニー大学で化学を学び、1937年に首席で卒業。1939年にオックスフォード大学へ留学した。1941年にDPhil(博士号)を取得すると同時に、同じくオックスフォードで研究していたリタ・ハラデンスと結婚。リタも有能な有機化学者であり、夫婦で長年にわたって共同研究を行った。1946年に英国医学研究評議会(MRC)傘下の国立医学研究所(NIMR)に職を得て、1962年からはシェル社ミルステッド研究所の所長を務めた。1975年にサセックス大学教授(Royal Society Research Professor)に就任し、2013年12月8日に96歳で逝去した。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1917年 | オーストラリア・シドニーに生まれる |
| 1930年代 | 難聴が進行し、20歳頃に完全失聴 |
| 1937年 | シドニー大学を首席で卒業 |
| 1939年 | オックスフォード大学へ留学 |
| 1941年 | オックスフォード大学でDPhil取得、リタ・ハラデンスと結婚(ペニシリン研究に参加) |
| 1946年 | 英国医学研究評議会(MRC)傘下の国立医学研究所(NIMR)に入所 |
| 1950年代 | コレステロール生合成の立体化学研究を開始 |
| 1960年代 | 同位体標識法でメバロン酸経路の立体化学を次々解明 |
| 1962年 | シェル社ミルステッド研究所の所長に就任 |
| 1975年 | サセックス大学教授に就任、ノーベル化学賞受賞(ウラジミール・プレログと共同) |
| 2013年 | 96歳で逝去 |
主要業績①:同位体標識による酵素反応の立体化学決定
立体化学決定の難しさ
酵素触媒反応では、基質中の特定の水素原子が取り除かれたり付加されたりする。しかしH(プロチウム)どうしは化学的に区別できないため、「どちらの面から・どの水素が・どの向きで反応したか」を通常の方法で追跡するのは困難だった。
コーンフォースはこの問題を、重水素(2H, D)とトリチウム(3H, T)を組み合わせた同位体標識で解決した。
プロキラル水素とは何か
メチレン基(—CH2—)の2つの水素は、一見同じに見えても酵素の目には区別可能だ。これを「プロキラル水素」と呼ぶ。2つのH(プロS水素・プロR水素)のうち、一方をDに置換するとキラル中心ができる。酵素がどちらのHを取るかは、CIP規則に従って新たにできるキラル中心の立体(R/S)を測定することで判断できる。
—CH2— (プロキラル) ↓ 片方のH を D に置換 —CHD— (キラル中心が生成 → R or S を NMR・光学的に決定)
コーンフォースはさらにトリチウム(放射性同位体)を加え、H/D/Tの三種同位体を含む化合物を合成することで、立体化学の決定精度を飛躍的に向上させた。
主要業績②:コレステロール生合成の立体化学解明
メバロン酸経路とスクアレン
コレステロールはメバロン酸(mevalonic acid)を出発点とする生合成経路(メバロン酸経路)で作られる。この経路でイソプレン単位(C5)が次々と結合し、スクアレン(C30)が生成し、最終的にコレステロール(C27)へと変換される。
酢酸 → メバロン酸 → イソペンテニル二リン酸(IPP) → スクアレン → ラノステロール → コレステロール
コーンフォースが明らかにしたこと
コーンフォースは、メバロン酸の各炭素に重水素・トリチウムを組み込んだ標識化合物を合成し、これを酵素系と反応させてコレステロールを生合成させた。得られたコレステロール中の同位体の位置・配置を解析することで、以下の事実を実証した。
これらの成果は、酵素が基質の特定の面だけを識別する「面選択性(facial selectivity)」と「プロキラル水素の識別」を初めて実験的に実証したものであり、酵素学・生化学の教科書に必ず載る基礎知識となっている。
主要業績③:有機合成における業績
コーンフォースは純粋な生化学者にとどまらず、精緻な有機合成家でもあった。オックスフォード留学時代には、第二次世界大戦中のペニシリン構造解明プロジェクトに参加。さらにビタミンD、ステロイド、天然物の全合成にも取り組んだ。
合成化学の文脈では、エナンチオ選択的合成の方法論的基盤を構築した功績が大きい。プロキラル中心の化学的区別に基づく合成設計は、後の不斉合成・触媒的不斉反応の発展への重要な理論的土台となった。
1975年ノーベル化学賞:プレログとの同時受賞
1975年のノーベル化学賞は「酵素触媒反応の立体化学研究」に対してコーンフォースに、そして「有機分子と反応の立体化学研究」に対してウラジミール・プレログに、それぞれ半分ずつ授与された。
二人の業績は相互補完的だ。プレログが立体化学の理論(CIP命名法・キラリティの定義)を整備したのに対し、コーンフォースは酵素触媒系における実験的立体化学を確立した。
スウェーデン王立科学アカデミーはノーベル賞授与の際、コーンフォースが「完全に聾(ろう)でありながら、世界トップクラスの化学者として活躍している」という事実を特筆した。コーンフォース自身は、自分の研究が障害の「克服」として語られることを好まなかった。彼にとって科学は日常であり、障害は単なる環境条件にすぎなかった。
現代への影響
コレステロール生合成経路の立体化学理解は、スタチン系薬剤(HMG-CoA還元酵素阻害薬)の設計に直結。コーンフォースの研究なしに現代の高脂血症治療薬は生まれなかった。
プロキラル水素の区別・面選択性の概念は、触媒的不斉合成(野依良治、シャープレスらの業績)の理論基盤。基質の「どの面を使うか」という設計思想はコーンフォースが確立した。
酵素反応の立体特異性は今日の生体触媒(バイオ触媒)設計の中核概念。同位体標識法は代謝フラックス解析・構造生物学で現在も広く使用されている。
まとめ
よくある質問(FAQ)
Q. コーンフォースはどうやってコミュニケーションをとっていたのですか?
口話(リップリーディング)を主な手段とし、妻リタや同僚との筆談・文書コミュニケーションも活用した。ノーベル賞授賞式のスピーチも口話で行い、聴衆を驚かせたという記録が残る。
Q. プロキラル水素と、通常のキラル中心はどう違いますか?
通常のキラル中心(不斉炭素)は4種の異なる置換基を持ち、それ自体がR/Sを決定できる。一方、プロキラルなメチレン基(—CH2—)は2つの同じH を持つためそれ自体はキラルではない。しかし一方のHをDに置換するとキラル中心が生まれる。酵素はこの「生まれる前の非対称性」を認識して特定のHだけを反応させる。
Q. 同位体標識法の現代における応用を教えてください。
代謝フラックス解析(13C-MFAなど)、NMRによるタンパク質構造決定(15N/13C標識タンパク)、新薬の体内動態追跡(重水素化薬物)など、幅広く活用されている。コーンフォースが確立した方法論の精神は現代でも生き続けている。
