クロスカップリングは有機金属試薬どうしを繋ぐ反応——そう覚えている人は多いと思います。鈴木・宮浦ならボロン酸、根岸なら有機亜鉛、右田・小杉・スティルなら有機スズ。
ところがHeck反応(溝呂木・Heck反応)だけは、有機金属試薬を使いません。相手はただのアルケンです。あらかじめ金属を仕込む手間がいらないので、原料が安く、官能基もそのまま持ち込めます。
そのぶん触媒サイクルの形が変わります。トランスメタル化の代わりに、アルケンの挿入と β-ヒドリド脱離が入る——ここを押さえれば、生成物の立体化学も位置選択性も自力で書けるようになります。
反応の全体像
Ar−X + CH2=CH−R → Ar−CH=CH−R + HX 触媒 : Pd(OAc)2 / Pd(PPh3)4 など 塩基 : Et3N・K2CO3・NaOAc(生じる HX を捕まえる) X : I > Br > OTf >> Cl
アルケンの水素1個がアリール基に置き換わる形になります。見た目は置換ですが、中身は付加と脱離の組み合わせです。
ほかのカップリングとの決定的な違い
| 鈴木・根岸・スティルなど | Heck反応 | |
|---|---|---|
| 相手の基質 | 有機金属試薬(R−B、R−Zn、R−Sn) | ただのアルケン |
| 2段目 | トランスメタル化 | アルケンの配位と挿入 |
| 3段目 | 還元的脱離 | β-ヒドリド脱離 |
| Pd(0) の戻り方 | 還元的脱離で自動的に戻る | 塩基が HPdX から HX を抜いて戻す |
| 塩基の役割 | 求核種の活性化 | 触媒の再生(当量必要) |
塩基の役割が違う点に注意してください。鈴木・宮浦の塩基はボロン酸を活性化するためのものでしたが、Heckの塩基は最後に触媒を Pd(0) へ戻すために要ります。だから触媒量ではなく当量以上が必要です。
触媒サイクル——4段階
① 酸化的付加 Pd(0) + Ar−X → Ar−Pd(II)−X
Pd の酸化数が 0 → +2
② 配位と挿入 アルケンが Pd に配位し、Ar と Pd が
C=C の同じ面から付加する(syn挿入)
→ Ar−CH2−CH(R)−Pd(II)−X
③ β-ヒドリド脱離 Pd が隣の炭素の水素を引き抜き、C=C が再生
ここでも Pd と H は同じ面から抜ける(syn脱離)
→ 生成物 + H−Pd(II)−X
④ 還元的脱離(塩基) 塩基が H−Pd−X から HX を奪い、Pd(0) が再生
なぜ立体が決まるのか
③の β-ヒドリド脱離には、越えられない条件があります。
Pd と β水素が同一平面上で syn の関係になければ、脱離できません。4つの原子(Pd−C−C−H)が同じ平面に並ぶ配座をとる必要があるのです。
挿入後の中間体は、C−C 単結合まわりに回転できる → Pd と β水素が syn になる配座まで回ってから脱離する → その配座で決まる幾何が、そのまま生成物の E/Z になる → かさ高い基どうしが離れる配座が有利 → 結果としてほとんどの場合 E体(trans体)が主生成物
E体が選択的にできる理由を「安定だから」で済ませないでください。正しくは「E体を与える配座からしか脱離できないから」です。配座の考え方は立体配座で扱っています。
位置選択性——どちらの炭素にアリール基が付くか
アルケンが非対称なとき、アリール基は2か所のどちらにも付きえます。条件によって選択性が変わります。
| 条件 | Pd 上で何が起きるか | 選択性を決めるもの |
|---|---|---|
| 中性条件 (Ar−Pd−X のまま) |
ハロゲンが Pd に残っている | 立体障害。置換基の少ない炭素にアリール基 |
| カチオン性条件 (OTf や Ag塩を使う) |
X が外れて Pd が陽イオンになる | 電子的効果。電子豊富なアルケンでは向きが逆転しうる |
トリフラート(OTf)を使うと配位座が空いてカチオン性の経路に乗ります。「基質を変えていないのに、脱離基を I から OTf に替えただけで生成物の向きが変わる」——院試で問われるのはこの現象です。
分子内Heckと不斉Heck
分子内で行うと、β-ヒドリド脱離できる水素が環の制約で限られるため、通常なら得られない位置に二重結合を残せることがあります。これが合成戦略上の価値になっています。
実験条件のコツ
大学院入試での問われ方
「Heck反応の触媒サイクルを書け」
→ 酸化的付加 → 配位とsyn挿入 → syn-β-ヒドリド脱離 → 塩基で Pd(0) 再生
トランスメタル化を書いたら誤り
「鈴木・宮浦カップリングとの機構上の違いを述べよ」
→ 有機金属試薬を使わない。トランスメタル化と還元的脱離の代わりに
挿入と β-ヒドリド脱離が入る
「E体が主生成物になる理由を立体化学の言葉で説明せよ」
→ β-ヒドリド脱離は Pd と H が syn かつ同一平面でしか起こらない。
その配座のうち立体反発の小さいものが E体を与える
「なぜ Ar−X 側にハロゲン化アルキルを使えないのか」
→ sp3炭素は β水素を持つので、酸化的付加の直後に自分が脱離してしまう
「塩基は触媒量でよいか」
→ だめ。HX を捕まえて Pd(0) を再生するので当量以上が必要
まとめ
クロスカップリング全般の触媒サイクルと配位子の選び方は鈴木・宮浦クロスカップリングで、C−N結合を作る場合はバックワルド・ハートウィグ反応で扱っています。
よくある質問
有機金属試薬を使わない点が決定的に違います。鈴木・宮浦や根岸では、あらかじめホウ素や亜鉛を仕込んだ試薬を用意してトランスメタル化で繋ぎますが、Heck反応の相手はただのアルケンです。そのため触媒サイクルにトランスメタル化の段階がなく、代わりにアルケンの配位と挿入、そしてベータヒドリド脱離が入ります。原料が安く官能基もそのまま持ち込めるのが利点です。
ベータヒドリド脱離が、パラジウムとベータ水素が同じ面でそろい、かつ4つの原子が同一平面に並んだ配座からしか起こらないためです。挿入後の中間体は炭素炭素単結合のまわりを回転できるので、その条件を満たす配座まで回ってから脱離します。回転する際にかさ高い置換基どうしが離れた配座が有利になり、その配座から脱離するとE体が生じます。生成物が安定だからではなく、そこからしか脱離できないというのが正しい説明です。
通常は使えません。sp3炭素のハロゲン化アルキルが酸化的付加すると、生じたアルキルパラジウム種が自分自身のベータ水素を脱離してアルケンになってしまい、目的の反応まで到達しないためです。したがってHeck反応の基質はベータ水素を持たないハロゲン化アリールやハロゲン化ビニルに限られます。この制約はクロスカップリング全般に共通します。
触媒を再生するためです。ベータヒドリド脱離のあとに残るヒドリドパラジウム種から塩基がハロゲン化水素を取り去ることで、パラジウムがゼロ価に戻り次のサイクルへ入れます。鈴木・宮浦カップリングの塩基がボロン酸を活性化する役割だったのとは目的が異なります。触媒の再生に消費されるため、触媒量ではなく当量以上を加える必要があります。
パラジウム上の配位座が空き、カチオン性の経路に乗るためです。ヨウ化物や臭化物では中性のアリールパラジウムハライドのまま反応が進み、どちらの炭素にアリール基が付くかは主に立体障害で決まります。一方トリフラートや銀塩を使うと陰イオンがパラジウムから外れて陽イオン性になり、アルケンの電子的な偏りが選択性を支配するようになります。その結果、電子豊富なアルケンでは付加する向きが逆転することがあります。

