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フレイザー・ストッダート完全解説|分子シャトルと「機械的結合」でひらいた分子機械

スコットランドの農場に、電気も水道もない家があった。少年は長い冬の夜を、ジグソーパズルと組木細工で過ごした。ピースとピースが噛み合って、離れなくなる——その感覚が、のちに彼を「分子でパズルを組む」化学へと導くことになる。少年の名はフレイザー・ストッダート(Fraser Stoddart)。2016年のノーベル化学賞受賞者である。

ジャン=ピエール・ソバージュが金属イオンを鋳型にカテナンを組み上げたのに対し、ストッダートは金属を使わず、有機分子どうしの「引き合い」だけで環と軸を正しい位置に並べる方法を編み出した。電子が豊富な芳香環と、電子が足りない芳香環。この2種類を出会わせると、まるで磁石のように引き合って、あらかじめ絡み合った配置を自発的につくる。ここで環を閉じれば、狙いどおりのロタキサンやカテナンが高収率で手に入る。

そしてストッダートは、この分子を「動かす」ことに成功した。1991年、彼は環が軸の上を行ったり来たりする分子シャトル(molecular shuttle)をつくり、のちにその往復を化学刺激で制御できる分子スイッチへと発展させた。これは分子でできたメモリ素子の原型でもある。この記事では、院試でも問われるドナー・アクセプター型テンプレート効果を軸に、機械的結合の化学と分子機械への展開をたどっていく。

この記事で学ぶこと
・ストッダートのドナー・アクセプター型テンプレート合成——金属を使わず、電子豊富/電子欠乏の芳香環の引き合いで分子を組む方法
・有機化学で有名な「青い箱(ブルーボックス)」とは何か、なぜ電子豊富な分子を捕まえられるのか
・環が軸上を往復する分子シャトルと、それを制御する双安定ロタキサン(分子スイッチ)の仕組み
・機械的結合(mechanical bond)を扱う新分野「メカノステレオケミストリー」の考え方
・分子スイッチが分子メモリ・分子エレクトロニクスへつながった流れ(2016年ノーベル化学賞)

生涯と略歴——農場の少年から分子機械の巨匠へ

ジェームズ・フレイザー・ストッダートは1942年5月24日、スコットランド・エディンバラ近郊に生まれた。育ったのは電気もない農場で、幼少期の遊びはジグソーパズルと組木パズル。「かたちが噛み合う」ことへの直感を、彼はここで育んだと後年しばしば語っている。

エディンバラ大学で化学を学び、1966年に博士号を取得。学位研究のテーマは炭水化物(糖)化学だった。この糖化学の経験が、のちの超分子化学に効いてくる。糖やシクロデキストリンは環状で、内側に空孔をもち、他の分子を取り込む——「分子が分子を包み込む」という発想の原点である。

カナダのクイーンズ大学での博士研究員を経て、シェフィールド大学、バーミンガム大学で研究を進め、1990年代に分子機械研究の中核を築いた。1997年に渡米してカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)教授となり、カリフォルニア・ナノシステム研究所の設立に関わる。2008年からはノースウェスタン大学教授として、機械的結合の化学をさらに展開した。

2007年にはナイトの称号を授かり「サー・フレイザー」となる。2016年、ジャン=ピエール・ソバージュ、ベン・フェリンガとともに「分子機械の設計と合成」でノーベル化学賞を受賞した。数百人の門下生を育てた教育者としても知られ、彼の研究室出身者は世界中で活躍している。2024年12月30日、家族と滞在していたオーストラリアで死去。82歳だった。

出来事
1942 スコットランド・エディンバラ近郊の農場に生まれる
1966 エディンバラ大学で博士号を取得(炭水化物化学
1970年代 シェフィールド大学へ。糖・クラウンエーテル・分子認識の研究に進む
1987 電子欠乏環状分子「青い箱(ブルーボックス)」による擬ロタキサン形成を報告
1989 ドナー・アクセプター型テンプレートで[2]カテナンを高収率合成
1991 環が軸上を往復する分子シャトル([2]ロタキサン)を報告——分子機械の原型
1994 5つの環が連なった[5]カテナン「オリンペヤダン(olympiadane)」を報告
1997 UCLA教授に就任。刺激応答性の双安定ロタキサン研究を本格化
2007 ナイトの称号を授与され「サー・フレイザー」となる
2008 ノースウェスタン大学教授に。メカノステレオケミストリーを提唱・展開
2016 ノーベル化学賞受賞(ソバージュ・フェリンガと共同、「分子機械の設計と合成」)
2024 12月30日、オーストラリア滞在中に死去(82歳)

ストッダートの発想——金属を使わないテンプレート合成

ソバージュは銅(I)イオンの配位幾何を鋳型にしてカテナンを組んだ。強力な方法だが、金属を配位させ、最後に取り除く手間がかかる。ストッダートが問うたのは、「金属を使わず、有機分子どうしの引力だけで同じことができないか」だった。

彼が着目したのは、電子豊富な芳香環(ドナー)と電子欠乏な芳香環(アクセプター)のあいだにはたらく引力である。π電子雲が濃い環と薄い環を近づけると、両者はπ-πスタッキング・電荷移動相互作用・C–H…O 水素結合によって重なり合おうとする。この引き合いを利用すれば、環と軸をあらかじめ正しい配置に並べられる。

ドナーとして使われたのがヒドロキノン(1,4-ジオキシベンゼン)ジオキシナフタレンを組み込んだクラウンエーテル系の分子。アクセプターとして使われたのが、次に説明する「青い箱」である。両者は溶液中で自発的に噛み合い、擬ロタキサンを形成する。あとは末端をふさぐか環化するだけで、機械的に結合した分子ができあがる。

テンプレート合成の2つの流派を対比する
分子機械の合成には大きく2つのテンプレート戦略がある。ソバージュ流=金属配位テンプレート(Cu(I)の四面体配位で交差配置を固定)と、ストッダート流=ドナー・アクセプター(有機)テンプレート(電子豊富/欠乏の芳香環の引力で重なりを固定)。前者は金属の幾何を、後者はπ電子系の相補性を「型」に使う。どちらも「反応の前に部品を正しく並べておく」という発想は共通しており、これがテンプレート合成の核心である。

青い箱(ブルーボックス)——電子欠乏の分子の器

ストッダートの化学の象徴が、シクロビス(パラコート-p-フェニレン)(cyclobis(paraquat-p-phenylene)、略称 CBPQT4+)という四角い環状分子である。溶液が青みを帯びること、そして四角い箱のような形から「ブルーボックス(青い箱)」の愛称で知られる。

この分子は2つのビピリジニウム(パラコート)単位をパラフェニレンで橋渡しした構造で、4価のカチオンをもつ。窒素上の正電荷のせいで環内部は強く電子が欠乏している。そこへ電子豊富なヒドロキノンやジオキシナフタレンが差し込まれると、電荷移動相互作用によってぴたりと安定な複合体をつくる。この「電子の濃い棒を、電子の薄い箱に通す」操作こそが、ストッダート流ロタキサン合成の基本単位である。

【ドナー・アクセプター型テンプレートの考え方】

  電子豊富な軸(ドナー)        電子欠乏の環(アクセプター)
  ヒドロキノン / ジオキシナフタレン   青い箱 CBPQT4+

        →  π-πスタッキング + 電荷移動 + C–H…O
        →  軸が箱の中央に自発的に収まる(擬ロタキサン)

        →  軸の両端にかさ高いストッパーを付ける(キャッピング)
        →  環が抜けなくなる = [2]ロタキサン(機械的結合の完成)
よくある誤解:機械的結合=ドナー・アクセプター相互作用?
テンプレート合成でドナー・アクセプター相互作用を「使う」ため、その引力そのものが機械的結合だと誤解されやすい。しかし両者は別物である。ドナー・アクセプター相互作用は合成のあいだ部品を正しく並べておく「型」にすぎない。いったんストッパーを付けて環が抜けなくなれば、相互作用を消しても(例えば電荷移動を壊しても)環は外れない——離れられないのは幾何学的に経路が閉ざされているから。この「型としての相互作用」と「拘束としての機械的結合」の切り分けが理解の要である。

分子シャトル——分子を「動かす」最初の一歩

1991年:環が軸を往復する

ロタキサンをつくるだけなら「静的な珍しい分子」で終わる。ストッダートの真の飛躍は、環を動かしたことにある。1991年、彼は軸の上に2つの同じヒドロキノン部位(ステーション)を等間隔に配置し、そこへ青い箱を通した[2]ロタキサンを合成した。

2つのステーションはまったく同等なので、青い箱はどちらか一方に落ち着く理由がない。その結果、環は熱運動によって2つのステーションのあいだを絶えず往復する。NMRで観測すると、環が高速で行き来している様子がはっきりわかった。これが分子シャトル(molecular shuttle)——軸というレールの上を、環という部品が往復する分子スケールの機械運動の最初の明確な実証である。

双安定ロタキサン:往復をスイッチにする

ただし1991年のシャトルは行き先を選べない。往復はランダムで、制御できなければ機械としては使えない。そこでストッダートは、軸に性質の異なる2種類のステーションを置いた。片方を環が「より好むステーション」、もう片方を「予備のステーション」にするのである。

代表例では、強いドナーであるテトラチアフルバレン(TTF)と、やや弱いドナーであるジオキシナフタレン(DNP)を軸に並べる。青い箱は電子をより多く供給するTTFを強く好むので、ふだんはTTF上に居座る。ところがTTFを酸化してTTF+にすると、正電荷を帯びたTTFは正電荷の青い箱に反発し、環は追い出されてDNPへ移動する。還元して中性のTTFに戻せば、環はTTFへ帰ってくる。

【双安定ロタキサンのスイッチ動作】

   中性状態: TTF(強いドナー)……DNP(弱いドナー)
       → 青い箱は TTF 上に静止 = 状態「0」

           ↓ −e(酸化)        ↑ +e(還元)

   酸化状態: TTF+(正電荷で反発)…DNP
       → 環が DNP へ移動 = 状態「1」

   → 酸化・還元で状態「0」「1」を可逆に切り替えられる = 分子スイッチ

2つの安定な位置を電気化学的に行き来できるこの分子は、まさに1ビットの分子メモリである。刺激には酸化還元のほか、pH変化や光も使える。ストッダートは、環の位置を「読み出せる」性質を利用し、共同研究者のジェームズ・ヒースとともに双安定ロタキサンを敷き詰めた分子メモリ回路を試作した。分子1個が情報の最小単位になる、という分子エレクトロニクスの可能性を具体的に示したのである。

なぜ「分子で機械をつくる」ことが難しいのか
分子スケールでは、私たちの直感が通じない。第一にブラウン運動——分子は絶えず熱で揺さぶられ、放っておけばどの方向にも同じだけ動いてしまう。だから「決まった向きに動かす」には、外部刺激でポテンシャルの谷を意図的に片側へ傾ける必要がある。ストッダートの双安定ロタキサンは、酸化還元によって2つのステーションの安定性の大小を反転させ、環が落ち着く谷を切り替えている。熱運動に逆らうのではなく、熱運動を「傾けた坂」で誘導する——これが分子機械設計の基本思想であり、フェリンガの分子モーターにも共通する。

メカノステレオケミストリー——機械的結合の立体化学

ストッダートは晩年、機械的に結合した分子(mechanically interlocked molecules, MIMs)を体系化し、メカノステレオケミストリー(mechanostereochemistry)という言葉を提唱した。共有結合の立体化学が「原子のつなぎ方と配置」を扱うのに対し、この分野は「部品どうしの噛み合い方と相対運動」を立体化学の対象として扱う。

その象徴が、2004年にストッダートらが化学合成した分子ボロメアン環(Borromean rings)である。3つの環が絡み合い、どの1つを外しても残り2つはばらばらになるという不思議なトポロジーをもつ。金属イオンによる自己組織化で3つの環を一度に組み上げるこの合成は、「かたちそのものを設計・合成の対象にする」という彼の一貫した思想の到達点だった。

[5]カテナン「オリンペヤダン」
1994年、ストッダートのグループは5つの環がオリンピックのシンボルのように連なった[5]カテナンを合成し、「オリンペヤダン(olympiadane)」と名づけた。ドナー・アクセプター型テンプレートを段階的に使えば、機械的結合をいくつも連ねられることを示したデモンストレーションである。角括弧の[5]は、機械的に噛み合った環の数を表す([2]なら2つ、[5]なら5つ)。

院試・学部講義での位置づけ

分子機械そのものが院試で直接問われることは多くないが、ストッダートの化学を支える概念はいずれも必修範囲である。次の観点で整理しておくと、関連問題に強くなる。

問われる論点 答えの核心
ストッダート流テンプレートの原理 電子豊富(ドナー)と電子欠乏(アクセプター)の芳香環のπ-π/電荷移動相互作用で部品を並べる(金属不要)
青い箱が電子豊富な軸を捕まえる理由 CBPQT4+電子欠乏な環で、ドナー芳香環と相補的な電荷移動錯体をつくるため
分子スイッチはどう切り替わるか TTFを酸化すると環との親和性が反転し、環が別ステーションへ移動する(酸化還元制御)
機械的結合とテンプレート相互作用の違い 相互作用は合成中の「型」、機械的結合は完成後の幾何学的拘束。両者は独立
高希釈条件を用いる理由 分子内環化(1次)を分子間重合(2次)より有利にし、環状生成物の収率を上げるため
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発展:合成手法の広がり——キャッピングと「クリック」
ロタキサンの完成には、擬ロタキサンの軸の両端にかさ高いストッパーを取り付ける(キャッピング)工程が要る。この末端連結には、官能基許容性が高く温和な反応が好まれる。近年は末端をアジド/アルキンにしてシャープレスのクリックケミストリー(CuAAC)で塞ぐ方法や、オレフィンメタセシスで環を閉じる方法が広く使われる。テンプレートで機械的に組んだあとは、いったん噛み合った構造がメタセシスの平衡下でも保たれる「マジックリング」現象を利用できるのも、この分野の面白さである。

現代への影響

ストッダートが遺したのは、具体的な分子だけではない。「相互作用を型として使い、動く分子を設計する」という方法論そのものである。個々の結合を数える化学から、分子全体のかたちと運動を設計する化学へ——この視点は超分子化学・材料科学・ナノテクノロジーに広く根を張っている。

分子エレクトロニクス

双安定ロタキサンは1分子=1ビットの分子メモリの候補となった。分子1個で情報を担う電子デバイスという発想の、具体的な実証例を与えた。

刺激応答性材料

機械的結合を高分子に組み込んだ材料は、環が滑ることで応力を分散し、伸縮・自己修復する。分子筋肉や分子ポンプの研究にも直結する。

教育者としての遺産

数百人の門下生を育てたメンターとしての影響も大きい。彼の研究室出身者が世界の大学・企業で超分子化学とナノ科学を牽引している。

ストッダートの仕事は、「役に立たない研究」という評価がいかに当てにならないかを示す好例でもある。1991年の分子シャトルは、当時「精巧だが用途不明の玩具」と見られていた。それが分子メモリ・分子機械という分野の礎になった。ノーベル委員会が2016年に、これらの成果を1830年代の電気モーター——当時は誰も実用化を想像できなかった——になぞらえたのは、まさにこの点を捉えている。

まとめ

この記事のポイント
・サー・フレイザー・ストッダート(1942–2024)は、ドナー・アクセプター型テンプレート合成でロタキサン・カテナンを設計どおりに組み上げ、2016年にソバージュ・フェリンガとノーベル化学賞を受賞した
・彼のテンプレートは金属を使わず、電子豊富な芳香環(ドナー)と電子欠乏な芳香環(アクセプター)のπ-π・電荷移動相互作用で部品を並べる
・象徴的な分子が電子欠乏の環状分子「青い箱」CBPQT4+。電子豊富な軸を電荷移動で捕まえ、擬ロタキサンをつくる
・1991年の分子シャトルは、環が軸上を往復する分子機械の原型。刺激で往復を制御できる双安定ロタキサンは分子スイッチ/分子メモリとなる
・双安定ロタキサンの切り替えは、TTFの酸化還元で環との親和性を反転させることで実現する(酸化でTTF+が反発し環が移動)
・機械的結合を扱うメカノステレオケミストリーを体系化。分子ボロメアン環や[5]カテナン「オリンペヤダン」もその成果
・院試では「ドナー・アクセプターテンプレートの原理」「青い箱が電子豊富分子を捕まえる理由」「酸化還元による分子スイッチ」を説明できるようにしておくとよい

ストッダートの化学は、ソバージュの金属テンプレートと対をなす「有機分子の相互作用を型に使う」アプローチとして理解すると、2016年ノーベル化学賞の全体像がつかめる。ソバージュが分子を組む土台を、ストッダートが分子を動かす仕掛けを、そして分子を一方向に回し続ける到達点を示したのがフェリンガである。合成手法としての末端連結・閉環についてはオレフィンメタセシスクリックケミストリーとあわせて読むと、現代の超分子合成の道具立てが見えてくる。

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